鍵の開く音だけが小気味良い。あとはてんで駄目だ、錆びついているのかドアノブの回転も悪ければ桟にはまったドアを引き寄せるとギチギチと嫌な音を立てる。塗装がバリバリと剥がれ落ちてくすんだクリーム色の破片がコンクリートに散らばっていく。開ける度にこれでは、確かに、部屋の扉を開くことが嫌になってしまうのかも知れない。否、そういうことではなくて。
 溜息を噛み殺し、ついでに息を殺し、室内へと身を滑り込ませる。50センチ四方ほどしかない玄関口に置かれた27センチの靴が何やら窮屈そうに見える。きちんとそれを靴箱側へと寄せ、短い廊下に足を踏み入れた。リビングへ行く前に台所を覗き込む。皿は食器乾燥機の中に放置されたままだし、グラスというグラスは悉く流し場内に押し込められている。そして床の上に所狭しと並べられたビールの空き缶たち。
 リビングの中も酷いものだ。本来は目映い白をしていたはずの壁は脂焼けをして黄ばんでしまっている。あちこちで空き缶が散乱し、敷きっぱなしの布団には怪しげなシミが大きく広がっていた(恐らくあれも、ビール)。灰皿の上にうず高く積まれた吸い殻たち。灰がこぼれ落ちて床を汚してしまっていた。いつものことながら呆れてしまう。汚さだけは目につくのに、布団と少しの家具以外には何もないがらんどうとした部屋。テレビさえない。生活臭がするようでいて、人間くささはまったくしない。
(またあの人は、何日ここに戻ってきていないのだろう…)
 途方に暮れたくもなる。とりあえず窓を大きく開け放ち、 小さなベランダに布団を干した。昼下がりの日差しがぬるく射し込んできている。どこか遠くの方から列車が走っていく音が聞こえてきた。線路はどのあたりにあるのだろうかと僅かばかり身を乗り出してみたが、ちぐはぐな背の高さをしたビルやマンションの群に視界を阻まれてしまい見つけることは出来なかった。
 こうして家事のためにこの家を訪れることは最早日課のようなものだった。といっても週に2度ほどである、流石に主のいない部屋に毎日足を踏み入れることはしたくなかった。今回に限っては、自分自身の大学の課題に追われていたため1週間ほど間を空けてこちらを訪れている。しかし、3日おきに訪れようが1週間おきに訪れようが、光景に何ら変化はない(せいぜい吸い殻の量が変わっているくらい)。 それでも1週間もこちらに来られなかったことに奇妙な罪悪感を覚えているのは、この部屋に来て息をすることが、遊星にとっての、日常と化してしまっているからでもあった。
 買い込んできた食材を空っぽの冷蔵庫にしまいこみ、少量の食器を片付ける。ついでなので洗い場周辺の掃除をする。調味料の賞味期限をチェックし、いざ料理に移ろうとしたところで、不意に部屋の扉が開いた。乱暴にドアが桟から引きずり出された音がした。台所から顔を出してみると、玄関口には、瞳をまん丸く見開いたこの部屋の主の姿があった。遊星の顔を見ると、呆れたように、ほっとしたように苦笑した。
「よくも飽きずにまあ…」
「お帰りなさい。十代さん」
 そう声をかけると、嫌そうな、擽ったそうな嬉しそうな顔をする。素直に感情を表現出来ないところは相変わらずだ。お帰りなさい。その言葉がどれほど彼の心の柔らかい部分に響くか知っていながら何喰わぬ顔をして使う。これは、ひとつ年上の幼なじみへの遊星なりの意趣返しだ。
「何か食べたいものはありますか」
「別にねぇよ。でも俺、酒と煙草しか買ってこなかったぜ」
「食材は俺が買ってきました」
「ん?それって、最初から俺に選ばせる気はなかったってことじゃね?」
「そうとも言います」
「こいつめ!」
 顔を歪めて微笑む彼に食卓に着くようにすすめて料理を始める。この光景も、最早、馴染みのものに違いはなかった。



2010.5.8



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