ひたむきな眼差しは少し苦手だ。いかに自分がずるくて卑小な人間であるかを思い知らされるようで、どうにも居心地が悪いのだ。それに、目は口ほどに物を言うというのは本当のことで、一度その瞳を見てしまえば、それはもう、斯くあるべきだと当然のことを言われてでもいるかのような気分になってしまう。いやいや間違っている。ついそう口走りそうになっても、結局相手は何も口に出してはいないわけなのだから、その言葉は独り言として落ち込んで俺の主張は誰にも届かない。どうにも遣り様のないことだ。
 いっそこっちを見るな、と言いたい。いえ、見ないでください。お願いですからそんなに見つめないで。そんなに強く見据えられると感じちまうぜ…ではなく、もう、むず痒いのだ。通じないとでも思っているのだろうか?いやいやいやいや聡い彼のことだから、こうして俺が悶々としている姿には気付いているに違いない。だというのに何も口にはしない。瞳で訴え続ける。ほんの一言でも口にしてくれたら、どうにか太刀打ちできるというのに。理解されてしまっている。意外と策士なのだ。違うな、そうではなくて、意外とサディストなのだ。肉食獣の瞳をしたまま、俺がへろへろに疲弊するまで待ち続けるつもりなのだ。子供のくせに生意気な。
「おう、どうした十代、なんかすげえ顔してるけど」
「ヨハぁン!助けてくれよ〜〜!」
 コピー機に上半身を凭せ掛けて、がーっがーっと無機質な音を立ててひたすらに紙を吐き出し続ける排出口を見つめていた俺の背中を叩いたのは、同僚であり親友である男だった。背広を片手に持ち、休憩中なのかネクタイは少し緩められている。整った顔に微笑を浮かべて小首を傾げる様はとても様になっている。俺は身体を起こし、親友が笑いながら広げた腕の中へと飛び込んだ。コピー機の隣の席で小テストの採点をしていた万丈目が「ぶふぁっ!」と珈琲を噴き出して机を汚した。万丈目の向かいの席でこちらも小テストの採点をしていたらしい明日香がちらりとこちらを見て、呆れたように溜息を吐き「そこ、男同士で抱きあわない。暑苦しいわよ」と冷たく言い捨てた。その視線は既に手元の紙に向けられている。俺はお構いなしにヨハンの首筋に頬をすりよせてその硬い胸板に縋りつく。ヨハンもノリノリで俺を抱き返して、腰を引きよせてきた。キスでも出来そうなくらいの至近距離で見つめあう。しかしやはり、違う。ヨハンの翡翠色をした瞳は優しい光を湛えていて、安心出来るものではあったが、変にどぎまぎしてしまうようなものではない。太く男らしい首に両腕を回しながら溜息を吐いた俺を見てヨハンは、静かに「また不動遊星か?」と尋ねてきた。毎度のことだけあって流石にバレてしまっているようだ。
「ちょっと喫煙室行こうぜ」
「おう」
 出張から帰ってきたばかりで疲れているにも関わらず、ヨハンは俺の誘いにひとつ返事で了承をくれた。いい奴だ。連れだって職員室を出る。自然と肩を縮こまらせる俺を見てヨハンがまた笑った。仕方ないだろう、いったいどこにあいつが潜んでいるのかわからないのだから。職員室の隣の、喫煙室とは名ばかりの物置に入る。窓を開け放ってベランダに出て煙草を取り出すと、すぐさま傍らから火が差し出された。ありがたく頂戴して、先端を燃やす。鈍い鼠色の筋がほんの僅かばかり色合いを深めた放課後の青空に立ち上っていく。ヨハンも同様に煙草に火をつけ、一息吸い込んだ。吐き出す。深呼吸にも似た感覚だ、全身にニコチンが浸透していくかのような、この不思議な感覚が落ち着く。
 何から話し始めていいのか、と考えあぐねながら鼻先を指でこすると、煙草のにおいがした。
「まだ続いてるのか、おまえとあいつの冷戦」
 ワイシャツが汚れることなどお構いなしに、ヨハンはフェンスに身体を預けて肩を揺らした。くっきりと肉体のラインが浮き出た男らしい背中を見つめる。俺は憮然とする。別に喧嘩染みたことをしているつもりはない。あいつは何も言わない。ひょっとすると感違いかも知れない。…まあその可能性は、極めて低いのだが。俺だって、鈍感なわけではないのだ。
「冷戦じゃねえってば。ただ…うーん…根競べみたいなことになっては、いる」
「へえ?」
「あいつが悪いんだ。だって、本当に何も言わない癖に、どんどん迫ってくる」
 ヨハンは振り向かない。俺は、小さな声で、「今日、手を握られた」と言った。たまたま、たまたまだ、俺が落としたプリントを拾っているところにあいつがやってきて、何も言わないままさっとしゃがんで手伝い始めたのだ。唐突だった。大凡すべてを拾い終わって、最後の一枚を拾おうと伸ばした手の上に、あいつが手のひらを重ねてきた。驚いた俺が顔をあげると、極めて近い位置にその濃紺の瞳があった。一見冷めているようで熱いものを秘めた瞳に、俺の姿が映り込んでいた。身を引こうとしても、ぎゅうと手を握り締められては出来なくなる。あいつの瞳に映った俺は泣きそうな顔をしていた。暫くそうして俺を見つめ続けたあいつは、不意に俺の手を解放すると、素早く立ち上がり踵を返して行ってしまった。取り残された俺は訳がわからないで呆けるしかなかった。座り込んだままでいる俺の隣を、あいつの幼馴染だとかいう金髪長身の男が不審そうな眼をしながら通り過ぎて行った。
「ぷっ!て、手を握られた、だってぇ…?そ、それでおまえは、こんなヘナチョコになっちまったってのか、あの遊城十代が!ぷくくくく…!!」
「わっ笑うな!俺はなあ、野郎に手を握られた経験なんか無かっ…いや、あるにはあるけど、まさか生徒にあんなにもぎゅって!ぎゅってされるとは思ってなかったんだよ!」
「はいはい。おまえが他人とスキンシップ取ろうとする時は、熱が欲しい時とふざけてる時だけだもんな」
 げらげら笑い続けるヨハンの尻を思い切り蹴り飛ばしてやる。あっ、白い足跡ついた。知ったことか。せいぜいファンの女子生徒たちに拭ってもらうんだな。
 一頻り笑った後ヨハンは振り返り、背中をフェンスに預けて2本目の煙草に火をつけた。大きく息を吸い、吐く。腕を組んでその様子を窺っていた俺に、「で、どうするんだ?」真面目そうな、しかしやはりどこか面白がるような口調でそう訊ねてきた。どう、って。俺はどうするつもりもない。だからこそ困っているのだ。
「なんだかんだ言ってもおまえ、満更でも無さそうだしな。本当に嫌なんだったら触られた時点で返り討ちにしてるだろ」
「別にそんなことはどうだっていい。だけど、絶対に遊星のためにならないことは確実だ」
「そう思ってるなら、言えばいいだろう。おまえのためにならないからやめておけ…って」
「さっきも言ったけど、あいつは何も口にしてないんだ。どれだけ行動に出されても、口にして何かしらを伝えられない限りはあいつに分があることに変わりはない」
「分、って…やっぱり冷戦なんじゃんか」
「知ってるだろ、あいつは俺のクラスのトップだ。頭が良いんだよ。言い包めるつもりが言い負かされたらと思うと…おちおちアクションにも移れやしないぜ」
 ヨハンはふっと笑って「なんだかんだ言ってもあいつのことは買ってるんだな」と言った。それこそ心外だ。
「当然だろ?俺の自慢の生徒だぜ?」
「なんだか惚気にしか聞こえないな」
 灰皿に煙草を押しつける。咥内にたまった唾を吐きだしてから、まだまだのんびりするつもりらしいヨハンを置いて喫煙室を出た。どうにかしないといけないことは俺自身が1番よくわかっている。しかし、どうしたらいいのか本当に、
「先生」
わからないぜ、と溜息を吐こうとした俺の背中に誰かが話しかけてきた。誰。そんなことは考えるまでもない。俺はぎぎぎぎぎとさびついた釘を回すような動作で首を動かし恐る恐る背後を振り返る。そこには、やはり、たった今まで俺の頭を埋め尽くしていたあいつの姿があった。無表情に俺を見据えてくるその瞳だけが色を宿している。子供のくせに俺よりも身長が高い。いや、俺の身長が低いだなんて、そんなことは、ある、かも知れないが。
「どうしたゆうせ、」
「煙草は、駄目です」
 青いファイルを差し出しながら言う。ファイルには大きく「日誌」と書かれている。ああ、今日の日直はこいつだったのか。ぼんやりと考える俺の思考を引き戻そうとするかのように、「煙草は、やめてください」再びそう言う。
 は?タバコ?
「身体にも悪いです。子供たちに喫煙の禁止を呼び掛けるのなら、大人もやめるべきだと思います」
「そ、……れは、子供は子供だからであってだな、大人はいいんだよ。趣味で自分の身体を壊してるんだから、」
「それに、俺が好みません。煙草は」
 …は?今こいつはなんて言ったんだ?
 差し出されたファイルを受け取ったのとは別の手を素早く掴まれた。思いの外強い力で引き寄せられる。なんだこれは、と思う間もなく、俺とこいつの身体はぴたりとくっついた。至近距離で見つめられる。例の、瞳で。
「いいですね」
 薄い唇の動きがよく見えた。それほどにまで、近い。硬直する俺の胸元に手が滑らされる。俺の両手が塞がれているのをいいことに、こいつは悠々と胸ポケットから煙草とターボを抜き去った。煙草はともかく、そのターボは、そこそこ値が張ったものだというのに。ハッとして動き出そうとした俺よりも相手の方が先に動いていた。握られていた手を、持ち上げられ、指先に唇を触れさせられる。誰の。そんなの、ひとりのものしか存在しないではないか。一瞬だけ瞳を伏せた相手の睫が見えた。普段は滅多に見られない仕草だ。それが奇妙にセクシャルで、動き出そうとした俺の身体はたちまち固まってしまった。
「また明日。さようなら」
 結局動けずにいた俺の手をあっさり解放した彼は、何事もなかったかのように踵を返して行ってしまった。またもや取り残される。俺は茫然と、自分の両手を見下ろした。片方には青い日誌。そしてもう片方には彼の唇の感触が残る、
(ち、っくしょう…!)
 してやられた、と気付いた時にはもう遅い。俺の煙草もターボも遠くに行ってしまっている。追いかけて取り返そうかとも思ったけれど、今再度彼と顔を合わせる気にはなれない。むしゃくしゃして、滅茶苦茶に髪の毛を掻く。ふと、彼の吐息が触れた指先を鼻先に近付けてみた。そこからは先ほどと変わらず煙草のにおいが漂ってきていたが、見えないところで何かが変化してしまったことは、他ならぬ俺自身がよく理解していた。 



2010.4.5




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