残業帰りだった。業務自体は23時に終わっていたのだが、会社の最寄駅から地元駅まで辿り着くのに1時間半ほどかかるため結局家に帰りつく時刻は翌日の1時を回ってしまう。疲れた顔をしている同類のサラリーマンたちや飲み会帰りらしい若者たちに紛れて電車を降りる。改札口あたりには駅員たちが待機しており、駅が今日も1日無事に役目を果たしたことを確認してほっとしたような顔をしている。駅から吐き出された人の群れは一目散にタクシー乗り場へと向かう。少数の徒歩派たちだけが、のんびりと、バラバラな方向へと向かっていく。斯くいう俺はというと少しばかり考えあぐねていた。疲れている。タクシーで帰ってしまいたいのは山々なのだが、給料日前なのでそこまで懐が温かいわけではない。それに、明日はたまの休みだ。そこいらのコンビニでビールでも買いつつぶらぶらと歩いて帰って朝までひとり酒盛りをするのも手だ。日々自宅と職場を往復する日々の中で、些細な選択にしか楽しみを見出せない自分を空しく思う。ひとつ溜息をつき、止めていた足を進める。そうこうしている間に何時の間にか駅からは人の気配が消えている。取り残されてしまった。喧騒が過ぎ去れば途端に夜の静寂が身にのしかかってきた。とぼとぼと階段を下り、タクシー乗り場に一台もタクシーは停まっていなかったことにまた淋しさを覚え、仕方がないので徒歩で帰ろうとした時だった。視界の端で何かが蠢いた。ちらりと視線を向ける。それは、小さくなって眠っていたホームレスの男だった。反射的に、絡まれてしまっては厄介だと思い足早に立ち去ろうとする。しかし、次の瞬間に聞こえてきた「ふあ〜ぁ、よぉく寝たぁ…」という間抜けな声に毒気を抜かれてしまった。振り返る。男は、ホームレスとは思い難い機敏な動きで身体を起こすと、自分の上から簡素な毛布を退け、自分の身体の隣に横たえていたものを抱き起した。ひと抱えほどの大きさのそれは、確かに、ギターケースに相違ない。ということは中に入っているのはギターなのか。驚く俺の前で男は鼻歌など歌いながらケースから楽器を取り出すと意気揚々としてそいつを構え始めた。と、その時、本日の業務を終えたらしい駅員らしき人物が通りがかった。明らかに不審な動きをしている男を見て、俺はてっきり何かしらの注意や警告をするものだと思っていた。だが駅員らしき人物は気さくに腕を上げると、その男の傍らへと歩み寄って行ったのだ。
「おや、今日もやるのかい?」
「はい!どうもご迷惑をかけます。でもちゃんと朝には帰るんで心配しないでください!」
「いいよいいよ、もう迷惑なんて思う人は通らないからねえ。おまわりさんでさえ眠る時間帯だし」
「ありがとうございます!」
 どうやら、ホームレスというわけではないらしい。と、駅員らしき人物が立ち止り様子を窺っていた俺に気付き、にこやかに微笑みかけてきた。笑うと目尻に皺が寄るその男性は、いったい幾つくらいなのだろうか。歳の割には若々しく見える、俺とは正反対だ。手招きされるがままに恐る恐る歩み寄ると、その男性は隣に立っているギターを構えた男――否、少年と呼ぶに相応しいくらいの幼い容貌をした青年だった、彼のことを掌で指し示し、「お暇なら1曲聴いていくといい」と言った。青年の丸っこい瞳が見開かれることで更に丸くなる。
「とてもいい声で歌う。だが、平日のこの時間帯にしか歌わないから彼のことを知る人物は少ない。勿体ないねぇ」
「へえ?」
「も、勿体ないとかそんなことないですよ!俺が好き勝手出来るのがこの時間帯しか無いってだけです」
「私たちとしてはいつでも歓迎だがね?」
「もう満足してますから」
 はにかみ笑う青年はとても活き活きとして見えた。それこそ、昼間の太陽の日差しの下で活発に動き回っていそうなタイプに見えるというのに、何故このような、終電も終わった後のがらんどうとした駅でひとりギターを引こうとしているのだろうか。興味が湧いた。俺は男性にひとつ頷き、「聴いてみたいです」と言った。男性が愉快そうに肩を揺らして笑った。
「よかったね十代君、今日は観客つきだ。でもすまないねぇ、急いでいるので私は失礼するよ」
「あ、いえ、いつも本当にありがとうございます!お疲れ様でした!」
 ぺこりと青年が頭を下げる。男性は2度3度手を振ると、小走りでタクシー乗り場へと駆けて行った。ちょうど戻ってきたタクシーが彼を拾う。そしてあっという間にその場から遠ざかって行った。残された俺と青年は一度顔を見合わせ微笑みあった。
「じゃあ1曲…もし気に入ってくれたら拍手をお願いします。お代は要らないから!」
「わかった」
 彼の指先がアコースティックギターを掻き鳴らす。涼やかに始まった爽やかな曲に合わせて、僅かに身体を動かした。そして、前奏が終わり、彼が口を思い切り開く。呼吸音が聞こえてきたような気がした。

 俺は特に音楽に詳しいというわけではなかった。幼少時にピアノをやっていたお陰で音感というものこそあれど、高校に上がる時にやめてしまって以来自分から進んで音楽と関わろうとはしなくなっていた。そんな俺の心が震えた。曲が終わった時、俺には拍手など出来る余裕は残されていなかった。ただ、じんと熱く高鳴った胸を、どきどきと脈打つ心臓を抑え込むのに必死だった。歌の余韻を断ち切ってエンドの和音を掻き鳴らした青年が、怯えたような瞳でこちらを見てきたことにハッとして慌てて掌を打ち鳴らした。それはあまりにも下手な拍手で、あんなにも素晴らしい演奏を奏でた主に向けるのはあまりに不相応なものだったが、それでも青年は嬉しそうににこりと笑った。
「最後まで聴いてくれてありがとな!」
「いや、最後までっていうか…すげえ。感動した。久しぶりに感動なんかした気がする。上手いよ、おまえ、すごいな」
「あははは大絶賛だな!」
「茶化すなよ!俺は本気でそう思ってるんだ。テレビから聞こえてくる下手なアーティストの曲なんかより全然上手い…それこそ、ほんと、なんでこんな時間に演ってるんだっていうか、もっと多くの人が好きになる音だと思うのに、」
「大袈裟だよ。俺はそんなでもないさ」
「なんでそう思うんだよ!勿体ないだろ!」
「なあ、あんたさ、名前なんていうんだ?」
「えっ?」
「あんた、いいヤツだな」
 青年は楽しげに笑い、再びギターを鳴らし始めた。今度は先ほどのもののような穏やかな曲ではなく、アップテンポで、不思議な音階の曲だった。俺に答えさせるでもなく再度歌い始める。やはり心が震えた。その声が、伸びやかなロングトーンや些細な息遣いが、ひとつの曲を「彼の音楽」として最高の出来に仕立て上げている。すごい、と純粋に感じた。何がすごいのか、音楽の完成度という意味でもそうなのだが、何よりも俺には、彼の姿勢がすごいものだと感じられた。ついつい周囲まで笑顔になってしまうような、満面の笑みを浮かべながら歌を口ずさんでいる。音楽を楽しんでいる。全身でそれを表現している。生きている、と感じた。
 俺が1番最近で自分が「生きている」と実感したのは何時のことだっただろうか。記憶は遠い。軽やかな英語を容易く操り、そして間奏に入るのと同時に激しく弦を弾いた。俯きがちになった頭が揺れている。自作なのだろうか、ポップスもロックも、パンクまでもが入り乱れている。出鱈目な曲は同時に新鮮なものであり、いつしかヨハンも彼の音楽に合わせて身体を動かしていた。
 2曲を連続で弾き終えた彼は満足そうな顔をしてどかっとその場に座り込んだ。顔を覗き込むと「ちっと休憩!」にっこりする。彼の尻の下にはレジャーシートが敷かれていた。ふたつに折り畳んでいたそれを一枚に直して場所を作ると、こちらを見上げてくる。一瞬迷ったものの、構わず汚れたレジャーシートの上に腰をおろした。スーツだろうと構うものか。俺が隣に座ったことがどれほど嬉しかったのかはわからないが、青年はにこにこしながら今度は片手を差し出してきた。
「俺は遊城十代。22歳。普段はしがないフリーターだぜ!」
「22!?嘘だろ!?」
「嘘じゃねぇよーそりゃあ散々童顔だのなんだのって言われるけど、ちゃんと大学は出てるんだぜ?」
「へ、へえーそうなのか…俺はヨハン・アンデルセン。同い年だ」
「そっか。よろしくな、ヨハン!」
 無邪気な笑みには逆らえず、苦笑して手を握り返した。その手の皮膚は、指先のしなやかさからは想像出来ないほどに硬く、どれほどこの遊城十代という青年がこの楽器に命をかけているのかということを俺に伝えてくるようだった。
 まるで旧来の友人であるかのように、様々なことについて語り明かした。時折立ち上がっては気ままにギターを弾く十代に合わせて立ったり座ったりを繰り返した。春の夜はまだ肌寒かったが、途中で近場のコンビニで買ってきたビールを飲めばすぐに身体は温まった。誰も見ている者はいない、十代に乗せられるがままに一緒に歌ったり手拍子を叩いたりもした。最終的にはふたりしてべろんべろんになってレジャーシートの上に倒れこむことになったが、気分は晴れやかだった。楽しかった。こんなに楽しい思いをするのは、本当に久方ぶりのことだった。隣で横になっている十代が悪戯っ子のように微笑んだ。
「俺は別に、誰かに聞かせるために歌ってるわけじゃないんだ。ひとりで自由に、滅茶苦茶に暴れたい時に、ここに来てこいつを弾いているだけなのさ」
「へえ。いったい何時から続けてるんだ?」
「大学を卒業してから、かな…」
 会社勤めってのがどうしても性に合わなくてさ、と言い舌を出す。確かに、こんなにも人生を楽しんでいる様子の十代には堅苦しい社会など合わないのかも知れない。明らかな芸術家タイプだ。だからこそアーティストとしてやっていけばいいのではないか思ってしまうのだが、そういうつもりも無いらしい。生活に困っているという様相ではなかったので、俺からすれば俄かには信じ難いことなのだが、今のままで充分なのだろう。
「しっかし夜は短いよなあー…もう夜明けが来ちまう」
 十代はそう言って携帯電話を開いた。俺は腕時計を見た。時刻はもうすぐ5時になろうかといったところだった。電車の始発が始まれば、バスも動き始める頃だ。十代はゆっくりと身体を起こすといそいそとギターをケースにしまい始めた。楽しかった夜が終わる。俺は茫然として後片付けをする十代の背中を見ていた。こんなに楽しい思いをしたのが久方ぶりだったならば、こんなにも切ない思いをするのも久方ぶりのことだった。終わってしまう。家に帰り、一眠りをすれば恐らくもう夕方になってしまっており、適当に食事を摂り改めて寝直せばもう次の朝が来てしまっている。日常に戻らなければならない。十代みたく、俺は自由には生きられない。遣る瀬無い思いを抱いて握り拳に力を入れた時、徐に振り返った十代が「そうだそうだ!」と言った。
「なあ、次はいつ来られる?」
「、は?」
 思わず素っ頓狂な声をあげてしまった俺を見て、不思議そうに小首を傾げる。
「また来るよな?だって、今日こんなに楽しかったんだもんな!俺は大抵月曜と水曜…時々日曜もこうやってひとりでギター弾いてるからさ、な!」
 微塵も疑っていない、といった様子だ。しかしその言葉は、俺にとってあまりにも予想外なものであった。
 また、こうして一緒に騒ごう、と言った。俺にとっての非日常を、彼は当然の日常として過ごしており、その日常は俺が一歩足を踏み出しさえすれば充分に触れられる距離に存在している。あとは俺次第、ということなのだ。思わず掌で頭を押さえた俺を見て、十代は怪訝そうな顔をして覗き込んできた。
「なんだ?頭痛いのか?大丈夫か?」
「いや、そうじゃないけど……ほんと、十代ってすごいな…」
「ん?」
 心底感心してしまったのだが、十代は何がすごいのかやはりわからない様子だった。それでいい、そんな十代だからこそ、だ。なにやら嬉しくなってきてしまって、口元から笑みが零れた。突然笑い始めたことを怪しく思われるのではないかと思ったが、十代はきょとんとして瞬きを数度した後ににっこりと微笑んでくれた。

「じゃあ、また会おうな」
「おう、またな!」
 十代はギターを背負い、大きく手を振りながら走り去っていった。なんとも元気なことだ。あの背中は何処に向かい、何処でどのようにして暮らして、夜にこうして人っ子ひとりいない駅に戻ってきているのだろうか。気になることは沢山あったが、まあ、それは後々尋ねていけばいいだろう。次がある。そう思える幸せを噛み締めつつ、俺も自分の本来の暮らしへと爪先を向けた。気分は晴れやかなままだった。
 こうして、出会った。掛け替えの無い、親友との出会いである。



2010.4.8


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