それは、或る冬の日のことでございました。立て付けが悪く、すぐにぎいぎいと撓る扉をえいこらと開いたヨハンの目に飛び込んできたのはぴかぴかと輝くお日様でした。翡翠のような色合いをした瞳を細め、ううんと大きく身体を伸ばしたヨハンは口端から白い息をはふはふと零しながらついぞ一週間ぶりほどに見るあおいお空を見上げました。ずっと降り続いていた雪がようやく止みました。蓄えておいた食糧も底をつきかけており、自ら割った薪もだいぶ量が少なくなってきておりましたので、さてどうしようかと思いつ思いつ日々を過ごしていましたが、よかった。まるで冬眠中の熊のような気持ちになりかけてはおりましたが、ヨハンは健全な青年でございます。すぐに何枚も上着を羽織り、最後に戸口の壁に引っ掛けておいた頭巾を被り外へと出ました。散歩がてら、飲み水が切れかけておりましたので、桶を持ち森の中の泉にまで足を伸ばしました。背高のっぽの針葉樹の林を進んだところにその泉はございます。清澄な朝の空気を肺いっぱいに吸い込み、吐き出すと、それだけで吐息がもこもこと白く立ち上ります。とても寒い朝ではございますが、数日振りに自らの足で踏みしめる雪の感触は柔らかく、お日様の光を浴びてきらきらと輝く様がとても美しく感ぜられました。その時、ふと、何かががさごそと動くような気配を感じました。ハッとして頭巾の合わせ目をぐっと握りましたが、どうやら気配は人のものではないようなのでございます。まさか自分と同じように、長い雪の間閉じこもっていたものが出てきたか…?と慎重に気配を探りましたが、そこまでひどく警戒をせずともすぐに正体は知れました。泉の淵にて、一匹のけものがじたばたと蠢いているのです。慌てて駆け寄ってみればそこでは、とてもうつくしい鶴が罠にかかってもがき苦しんでおりました。どこぞの猟師が仕掛けていった罠でしょう、しかしこのあたりで狩りをする猟師などはそういなかったのですが、いったい何時の間にこのような山奥に足を踏み入れたことやら。鶴があまりに切なげに鳴くものですからどうにもヨハンも切なくなってしまい、狩りで生計を立てている猟師には申し訳ないと思いつつも鶴の足から罠を外しました。鶴は、解放されるや否やばたばたと大きく翼をはためかせ逃げ去っていきました。よろよろと木々の合間を飛んでいく様を見届けてから、ヨハンは再び桶を持ち、水を汲んで家へと戻りました。朝から善いことをしたと、とても清清しい気分でございました。
 数日間は晴天が続きましたが、すぐに山の北側には薄暗い色をした雲がもやもやと集まっていき、やがて再び雪は降り始めました。こうなってしまっては仕方がございません。しっかりと戸締りをして、雪が止むまでの数日間を過ごすための準備をしておりました。その夜、東屋の半ばほど腐りかけた木の扉を叩く音が響きました。さては、ねぐらに戻れなかった猟師か小さなけものあたりが宿を求めてやってきたのだろう、と思い当たったヨハンは、最初返事をせずに黙って音をやり過ごそうとしておりました。ですが、「御免下さいませ」耳に届いたか細い声には大層驚きました。聞き間違えでなければそれは女性の声です。流石にこの寒空の下に女性を放り出しておくわけには参りません、慌てて扉を開くと案の定、真っ白な顔をしたひとりの女性が立ち尽くしておりました。紫色に変色してしまった唇を震わせて何事かを囁こうとする女性を制し、屋内へ招き入れると急いで焚き火の傍へと連れて行きました。目の覚めるような鮮やかな紅色をした見事な織物を身に纏った女性は、山麓の田舎町では到底見かけることの出来ないようなとてもうつくしい人でございました。ついつい見蕩れてしまったヨハンに彼女はこう言いました。
「どうか雪が降り止むまで、わたくしをこちらに置いてはくださいませぬか。きっとあなた様のお役に立ってみせます」
 もちろんヨハンはふたつ返事で申し出を承諾しました。まさか、これから大雪になるという時に、若い娘をひとり外に放り出すことなど出来るはずがございません。娘はにこりと微笑み、「わたくしの名前は、十代と申します」と丁寧にお辞儀をいたしました。その挙動や仕草、名前からも、やはり彼女がこのような辺地の村に住まっているような人ではないことは伝わって参りました。しかし、いったい何処から来たのかと尋ねても、彼女は曖昧に微笑むだけで決して答えようとはしてくれませんでした。
 雪はなかなか降り止みません。狭い東屋に若い男女がふたりきり、という状況ではございましたが、十代はまったく気にした素振りを見せませんでした。十代はとてもよく働く娘でした。雪が降っていては外に出ることが出来ずに手持ち無沙汰をするところだというのに、彼女は文句ひとつ言わずヨハンの話し相手となってくれました。最初の一日二日の間は無意識のうちに頭巾を手にとってしまっていたヨハンも、三日四日と時が経つにつれてそれを被ることなく彼女と面と向かって話をすることが出来るようになっておりました。ですが、困ったことがひとつだけございました。それは、彼女が身に纏うものでございます。このうつくしい人に己と同じ襤褸同然の布切れを纏わせることに抵抗感を覚えたヨハンは、どうにかならないかと頭を抱えておりました。すると彼女は小首を傾げ、少々何事かを考える素振りを見せてから不意に「この家に糸はございますか」と訊ねて参りました。そういえば、と思い返します。元よりこの家には機織道具がございました。といいますのも、ヨハンが人里離れた場所にございますこちらの家を譲り受けた相手の老婆が機織の名手と名高い人物だったのです。実際に、十代のための部屋は元は機織部屋で、隅には織機が布をかけられた状態で置き去りにしてありました。家をひっくり返すかのような勢いで家中を探し回り、やがて天井にほど近い押入れに仕舞い込まれていた糸を見つけました。それを十代に渡すと、彼女は嬉しそうに微笑み、「ではわたくしは、わたくしとあなた様のために機を織ることにいたしましょう。これだけの糸があれば、市に出すための織物も織ることが出来るはずでございます。さすれば、こちらに置いていただいているご恩を返せるでしょう」と言いました。
「ですが、ひとつだけお願いがございます。わたくしが機を織っている間は、決してこちらの部屋を覗かないで下さいませ。宜しいですね?」
 ぼう然とするヨハンとは裏腹にてきぱきと支度を整えた彼女は、織物をするために部屋に籠もってしまいました。ややあってから、かっとんころり、かっとんころり、と機を織る音が聞こえて参りました。薄い障子一枚越しに聞こえてくる音にそわそわしながらも、ヨハンは言われたとおり部屋を覗くことなく彼女の機織の音に耳を澄ませて過ごしました。
 やがて部屋から出てきた彼女の手には、彼女が身に纏っているものと同様の素晴らしい着物がございました。ただただ呆気に取られるばかりのヨハンを見て、彼女は少々照れたようにはにかみ笑いました。
 それからというもの十代は、昼にはヨハンと共に家の仕事をし、寝る前の数刻を用いて機を織るようになりました。次々と生み出されていく織物はすべて素晴らしい出来で、あまりそういった芸術や美術といったものに詳しくないヨハンの目から見ても純粋にうつくしいと思えるようでございました。あれだけ有り余っていた糸はすぐに無くなってしまいました。このような雪の日々、することも無い中で十代があまりに楽しそうに機を織っているものですから、楽しみを奪ってしまうのは忍びないと思ったヨハンは雪が小降りになった隙を突いて山を下り付近の村へと糸を買いに出かけました。その際に、彼女が「これを売って、糸を手に入れてきてください」と言った着物の数種を商人に見せたのですが、素晴らしい着物を見るなり商人は驚き、ヨハンが今まで見たことも無いような量の小判と引き換えてくれました。ヨハンは小判のいくらかを使い糸を買って家へと帰りました。
 これを数度繰り返すと、たちまちヨハンの暮らしは裕福なものへとなりました。過剰に小判を使いすぎるということはいたしませんでしたが、ひとりで貧しく暮らしていた時が嘘だったかのように、満たされた生活を送ることが出来ました。十代の作った着物はあっという間に評判になり、ヨハンが村を訪ねていく度にあれはどこで作られたものなのかと商人たちが詰め寄ってきます。最早、村一番の長者よりも裕福になったと言っても過言ではないのでございましょうが、ヨハンはそれを自慢げに話したり自らの服飾を華美にしたりしようとはいたしませんでした。ただ、こっそりと糸を買ってはそそくさと家に戻ります。この頃には既に雪は降り止んでおりました。ただ、ヨハンが願うことは、十代との生活を守りたい、それだけでございました。ヨハンの願いを知っているかのように、十代は何も言わずに家に留まり続けました。とても幸せな日々が続きました。ですが、ひとというものは、ひとつが満たされると次のものを望んでしまう生き物なのでございます。数週間の間はじっと耐え忍んでおりましたが、次第に限界が近づいて参りました。彼女が隠していることを、知りたい。そう、ヨハンは、彼女が機織りをしている間は部屋を覗かない、といった約束を、ついに破ってしまったのでございます。
 そこには、ひとならざる者がございました。両腕ならぬ両翼を広げ、自らの白い羽をぷつんぷつんと千切り、糸と絡ませては機を織るその者は真っ白な裸体を曝け出して、まるで母親が子供を慈しむかのように着物を撫でておりました。そして、はっと顔を上げました。呆然と立ち尽くしているヨハンを目が合うと彼女はがたんと音を立てて椅子から立ち上がり、一歩後ずさりました。口を何度も開いては閉じてを繰り返し、ゆっくりと首を横に振ります。ヨハンは部屋の内へと一歩足を踏み出しました。彼女が肩をびくんと揺らします。構わずずかずかと彼女に歩み寄ったヨハンは、怯える彼女の翼を掴み強引に引き寄せると、人間のままであるふくよかな乳房に己の胸板をぴったりと重ね合わせました。不安げに上目遣いで見上げてきた彼女にひとつ舌打ちをしてから、噛み付くようにその小さなくちびるに口唇を重ね合わせました。十代は大層驚いて暴れましたが、ヨハンの強引な腕は女の小さな抵抗などものともせずに、彼女の皮膚を愛でて参ります。その咥内を舌で撫で終え、唾液を吸い、真っ赤に腫れたくちびるを舐めてから首筋に顔を埋めました。雪のように真っ白な肌に朱を散らす悦びは、新雪を踏みしめる際の征服感にも酷似しております。女の身体を床に引きずり倒しその上に馬乗りになりますと、もう止めることは出来ませんでした。視界の端で白い翼がばたばたともがいておりますが、ヨハンにはそれが何であるかよりも、目前のその人が肝心でした。ただ只管に、愛しい女の肌を温度を感触を味わうことに意識を集中させました。最初は、なぜ、やめて、と繰り返していた女の口からは、いつからか本能と快楽にまみれた嬌声しか漏れなくなっておりました。そして気がついた時には、ヨハンの前にはぐったりと脱力をした十代の姿がございました。身体中に赤い鬱血痕を散らしたその姿はとても煽情的でしたが、伏せていた瞳が開かれるのと同時に眦から零れ落ちた雫を見て、ハッといたしました。自分はなんということをしてしまったのだろう、押し寄せる罪悪感のあまり何も言うことが出来ないヨハンの前で、十代はぽろぽろと涙を零しながら、「わたくしは、あなた様に助けていただいた鶴でございます」と言いました。
「あなた様にせめてもの恩返しが出来ないかと考え、こうして身を尽くさせていただいておりましたが、それもこれまででございます。正体を知られてしまったからには、あなた様のお傍に控えるわけには参りませぬ。況いてや、清いあなた様の御心を乱すなど、以ての外。わたくしは野へと帰りましょう」
「ま、待ってくれ十代、おれは、君を、」
「さようなら。どうか、お元気で」
 十代はその柔らかな太腿を男の欲望で汚したまま立ち上がりました。そしてそのままの姿で、家から出て行ってしまいます。慌てて後を追いましたが、ヨハンが戸口に立った時にはもう十代の姿はございませんでした。ただ、一羽の鶴が、再び降り始めた雪の中、北の山の方へと向けて飛び去っていく姿だけが見えました。
 翌日、ヨハンは旅支度を整えると、雪が降りしきるのにも構わず家を出ました。目指すは北の方角です。己が約束を守らなかったせいで失ってしまったものを、取り戻せるのなら他には何も望みません。裕福な生活も、彼女がいなければ意味のないものだということに気付いたのです。歩いて、歩きました。山登り用の草履はあっという間に凍りつき、その冷たさがヨハンから体温を奪って参ります。ですがヨハンは足を止めませんでした。歩いて、歩いて、歩きました。夜になるにつれて雪は激しさを増して参りました。頭にも、腕にも、雪が降り積もって参ります。それでもヨハンは足を止めませんでした。しかし、ヨハンの意志とは裏腹に、肉体には限界が近づいておりました。ついに足が上がらなくなり、ヨハンは思い切り転んでしまいました。1度地面に顔をついてしまいますと、立ち上がることは出来なくなってしまいます。仕方が無い、ヨハンは形振り構わず腕を動かし、這って身体を進めました。このままでは、朝を迎える前に身体を凍てつかせて死んでしまうことでしょう。死ぬことは、苦ではございません。ただひとつだけ心残りがあるとすれば、それは十代のことでございます。最期に、一目でいい、彼女に会って謝り、伝えたい。そう思い必死に頑張りましたが、とうとうヨハンは指先ひとつ動かすことが出来なくなってしまいました。つめたい雪の感覚がヨハンを死の闇へと誘って参ります。嗚呼、これは、彼女に無体を働いてしまった己の適当な最期なのだろうか、ヨハンはぼんやりと思いました。そして瞳を閉じた時、どこか遠くからけだものの鳴き声が聞こえて参りました。それがヨハンの覚えている最後の記憶でございました。
「ヨハンは、馬鹿だ…!」
 温かなものが頬に触れて、ヨハンは瞳を開けました。自分は生きているのだろうか、と不思議に思う間もなく視界に飛び込んできたものに手を伸ばしておりました。再び頬に温かなものが落ちます。凍える指先が触れた先の白い肌には、数日前に己が刻み込んだ印がまだ色濃く刻まれたままでございました。そのことに安堵しつつも、次々と頬に落ちてくるものに戸惑い、更に指先を伸ばします。柔らかな輪郭の線を辿り、淑やかに濡れた目元を人差し指で拭うと、彼女はますます眦に涙を溢れさせました。ヨハンは困ってしまいました。
「泣く、…じゅう、だ……」
「どうして…どうしてこんな大雪の日に山に入ったりなんかしたんだ。おれが気付かなかったら、おまえ、死んでたんだぞ…!おれなんかのために、おまえが死ぬなんて、死ぬなんてっ!」
 広げた翼でヨハンをぎゅっと抱きかかえながら一羽のうつくしい鶴がそう言います。人間の胴体を持った鶴は、名を十代と言い、今となってはヨハンにとっては欠くことの出来ない大切な存在なのでございます。大切な人に泣いて欲しくなくて無理矢理微笑むと、ますます彼女はきれいな顔を歪めて涙を流してしまいました。もう隠すものなど無いということなのでしょうか、何度言っても直らなかった口調が、まったく別のものへと変わっております。これが彼女のもともとの口調なのかと思うと、ヨハンの胸には温かなものがこみ上げて参りました。ヨハンは感覚が無くなっていた口を必死に動かしました。
「君、は…おれに、恩返しに、来たと言った。それが、おれを裕福にするために、機を織るということ、なら、おれは、何年をかけてでも、君から贈られたすべての織物をこの手に取り戻して、こよう…」
「え…?」
「おれに恩を返したいと思うのなら……傍に居てくれ、十代。ずっと。俺の、傍に」
「ヨハン、それは」
「あいしている、十代。おれは、君をあいしているんだ、」
 くちびるに柔らかな感触が触れました。見上げた先で十代は哀しげに表情を歪めておりました。何故そんなにも切なげに瞳を揺らすのかがわからなくて再び口を開きかけたところで、「おれは、」唐突に十代が言いました。
「おれは、獣だ。ヨハンにはもっと、ちゃんとした、人間の女が相応しい。だから、駄目なんだよ…おれじゃ、きれいなヨハンと釣り合わない」
 ヨハンは内心で安堵いたしました。なあんだ、そんなことか。もしも十代に心に決めた人がいたならば、これから必死にならなければならないと思っておりましたが、そうでないならば事情は違います。体温が戻って参りました両腕でしかと彼女を抱きしめながら、ヨハンは笑いました。
「おれも、化け物だ。こんな髪と目の色をしているせいで、親に捨てられてひとりで育った。今だって、頭巾をしなければ人前に出るのは怖いし、人里離れて暮らしているのは人のことが信じられないからだ。でも、十代は違う。君は、おれのことを、化け物だと虐げなかっただろう?」
「それは、だってヨハンはこんなにもきれいな心を持っていて、おれなんかにも良くしてくれて、化け物なんかじゃないからだ。ちゃんとした人間だ」
「ありがとう。でも人はそうは思わないのさ。さて、化け物と…獣が、釣り合わないとしたらどっちが原因なんだろうな?」
 にやりとしたヨハンを見て、十代はまあるく目を見開きました。それから、ふにゃりと微笑みました。大人びた仕草ばかりを取っていた彼女の幼い表情を見て、ヨハンの胸がまたひとつ大きく高鳴りました。新しい一面を見る度に、何度だって彼女に恋をし直してしまいます。そんなヨハンに彼女は、小さく、「本当に、おれで、いいのか?」と尋ねて参りました。ヨハンは満面の笑みを浮かべ、頷きました。
「勿論、君がおれのことを嫌いでなければの話だけど、」
「好きです。あなた様のことをお慕い申し上げております…」
「、十代」
「…って、何度言いそうになったか。でも、口に出してもいい日が来るとは、思ってもみなかった。ありがとう、おれも、あいしてる」
 心底嬉しそうにはにかんだ彼女が愛おしくて、ヨハンは、彼女の頭を引き寄せると、心からの想いを籠めてもう一度くちづけをいたしました。
 こうして仲良く家に戻った一羽とひとりは、お互いが果てるまで、密やかながらも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。



2010.3.2.


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -