冬の冷たさはひどく移ろいやすい。冷たさ、寒さ。気温の微細な変化によって体感する温度が、実際よりも大きく異なっているように思える。寒く、冷たく。吐き出す吐息が真っ白く染まるそんな朝にはベッドから出たくなくなるものだ。肩の寒さとは裏腹に下腹部の熱さは火傷でもしそうなもので、思わず顔を顰めた。
 ぬるり、とする。鼓膜の奥の方で耳鳴りにも似た甲高い声が残響を残している。ひどく掠れて、弱り切った、とでも表すのが適切であるかのようなか細い吐息が、舐めるように皮膚を這っていた。そのような余韻。
「……なんでかなあ…?」
 溜息をつき、額を掌で覆う。眉間を人差し指でぐりぐりと揉み解した。閉じた瞼の裏側では、真っ白くて折れそうに細いものが、命を張り詰めてでもいるかのように肉体を撓らせて苦しげに咽喉を晒していた。


 忙しなく行き交う人々の目線は空を切る。馴染みの無い人やものが取り巻いている素っ気無く冷たい物質世界よりも、帰りを待ち侘びている人や娯楽が存在する己の意識下の家に思いを馳せながら歩を進める。所狭しと並んだビル街の中央、スクランブル交差点には人が飽和している。そんな中、交差点の角に立ち止まって空を見上げているひとりの男の姿があった。流れの速い川の真ん中にぽつんと沈んだ小石のように、彼の両脇を次々と人の流れがすり抜けては彼を取り残していく。しかし彼はまったく気にした素振りなく、茫然と空を見上げている。黒いコートに赤いマフラーが印象的であったが、それ以外には特に突出した外見的特長の見当たらない青年だった。何処にでもいそうに見える。そう、何処にでもいそうに見えるのに、おかしなものだと思う。彼は明らかに異質な存在だった。何処が異質かというと、活気に溢れた街中でひとりうつろに立ち尽くしているところが異質なのではなく、誰も空など気にかけようとしない中でただただぼんやりと天を仰ぎ続けている様が異質なのではなく、そうして身体を空っぽにして空間に沈んでいる様を誰にも気に留められないところが異質だった。道端で不意に立ち止まっているというのに、誰も彼を鬱陶しげに扱ったりしないのだ。
 当然だ、と思う。きっと人々には彼の姿が見えていない。
 ヨハンは深々と溜息をついてから、交差点を斜めに横断し始めた。青信号が点滅し始める。左腕に持った紙袋ががさごそと騒ぐ。歩調を速めて、 長く続く黒と白の道を急いだ。信号が赤に変わる。道路に溢れ出していた人の波がざああっと引いていく。なんとか横断歩道を渡りきったヨハンの背後を銀色の車が走り抜けていった。人々の視線は斜め上方へと向けられている。ヨハンは人々の顔をざっと見渡してから、そこに立ち尽くしていた人の腕を引いた。ぴんときれいな一本線を描いていた咽喉が震え、やがて緩慢に顎が下げられる。甘い鳶色をした瞳がこちらに向けられたのを見て、ヨハンは内心でほっと息を吐いた。
「じゅうだい」
「…?ヨハン?どうしたんだ?」
「いや、なんでもない。ほら、帰ろうぜ、外寒いし」
「ああ」
 彼はきょとんとした顔をして小首を傾げていたが、手を差し出すと何の迷いもなく掌を重ね合わせてきた。その冷たさに背筋がぞくりとする。唇を噛み締めて、白い手をぎゅうと握り返した。

 まるでふわふわと風に吹かれて舞い踊る粉雪のような軽さだ、と思う。常々思っている。そのような重みしか己につけていない、そういった軽さだ。人の存在感なんて意思ひとつでこんなにも容易く変わってくるものなのだということを初めて知った。手渡したカイロを両手の上で弄びながら、十代はきょろきょろと部屋の中を見渡してそわそわしている。どうにも落ち着かない様子だった。それはそうだろう、何度も訪れたことがあるはずこの部屋は、彼の中では「初めて来る部屋」になってしまっているはずだ。淹れ立てのココアが入ったマグを彼の前に差し出すと、純粋無垢な子どものような表情をしていた十代は途端に困ったような苦いものを噛んだ時のような顔になった。
「ココア、駄目だったか?」
「ああ…甘いもんはちょっとな」
 先週は、苦い飲み物は駄目だと言っていた。探るように「珈琲淹れるか?」と尋ねてみると、彼は苦笑をして「頼む」と言った。
 また味の好みが変わっている。表情を変えずに立ち上がり、珈琲を淹れるために台所へと戻った。もう1度や2度のことではないので動揺はしない。だがこれは、もしかすると、もしかするかも知れない。どきりとした。淹れ終わった珈琲を片手にリビングに戻り、椅子の上でぼーっとしていた十代をテレビの前の炬燵の傍にまで呼び寄せた。珈琲を渡してやりながら、「ケーキは?喰える?」と尋ねる。彼は数度瞬きをしてから、「生クリームは好きだ」ふわりと笑った。内心で安堵する。
「じゃあ大丈夫だな。ほら、ケーキ。奮発してホールケーキ買っちまったぜ」
「ほんとか?うわあー…ホールでケーキ喰うとか久しぶりだぜ」
「ああ。チキン温めてくるから、もうちょい待ってな」
 紙袋から取り出したケーキを炬燵の上に置き外装を取り外すと、十代は子供のようにきらきらと瞳を輝かせた。生クリームの大地の上に立って両手を広げている小さなサンタと視線を合わせてにこにこしている十代を見て、なんとも言えない心地になる。もやもやとしたものが胸の内で蟠っている。多少の罪悪感もある。それらを振り切るように、紙袋から街角の肉屋で売っていたローストチキンの包み紙を取り出し、逃げるように台所へと向かった。実際に、逃げていたのかも知れない。現実を直視したくないと思っていた自分がいることは、確かだっただろう。


 最近は何度もそういった夢を見る。まるで失われた時間を追い求めるように、何度も何度も夢の中で白い裸体を貪る。感覚の底にはいつでも氷を直に握り締めたかのような冷たさがあった。咽喉を締め付ける息苦しさと戦いながら、泣きながら、残像を追っている。あまりに滑稽なことだと思ったが、夢から覚めればすぐにでも現実に苛まれる羽目になるのだから、滑稽であるくらいは許して欲しいと思う。
「メリークリスマス」
 安物のワインをグラスに注ぐ。酒の初心者でも飲むことが出来るように、今回は白ワインを用意した。本来ならばここにあるべき酒は、度数の高い焼酎やウィスキーであったはずなのだが、すべてを忘れてしまった彼が戸惑わないようにと慎重に選択した。十代は猫のように、舌先だけで白ワインをつついて、眼を丸くした。ヨハンはそんな十代の様子を見て笑い、グラスを一気に傾ける。咽喉を焼くアルコール特有の感覚が、痛かった。
 せめて最高の思い出を作れば、彼は忘れないでいてくれるだろうかと思う。くすくすと無邪気に笑い、無邪気に酔っ払い始めた十代は、己がヨハンとそういった関係であったことなど覚えていない。つい2週間前まで、ここで、この部屋で、肌を重ねていたことなど覚えていない。ただ白い皮膚だけが、更に透き通って滑らかな白さを誇っていく様を、見ていることしか出来ない。まるで肖像画の中の人物のように、彼の存在がつややかに己の中に刻まれていく様を、見ていることしか出来ない。刻一刻と時は迫っている。いったいこの関係もいつまでもってくれるだろうか。
 いつか。街角で空を見上げていた彼を呼び止めた時に、「あんた誰だ?」と言われてしまう日が来る前に、決めなければならない。理解してはいても、そう簡単に納得することは出来ない。出来るはずがなかった。
 苦悩するヨハンに気付くことはなく、十代は今日もうつくしく色鮮やかに命をすり減らして呼吸をしていた。



2009.12.25


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -