しゃき、しゃき、と、ステンレス製の刃物が擦れる軽快な音が響く。何故だか奇妙にリズミカルなその音が上機嫌なように思えておかしくて肩を揺らすと、すかさず「動くなよ」と叱られた。こちらは無感情で、素っ気ない声だ。にやにやしながら眼前の鏡に視線をやるが、真剣な表情をしている男とは目が合わなかった。必死な様子で手元の鋏に視線を落としている。しゃき、しゃき、と音が響く。慣れた手つきだと思えるのに、どうしてそこまでガチガチに緊張しているのか。床に目を向ければ、そこにはごわついた毛の束が幾つか落ちている。ケープの上を次々と滑り落ちていく、先ほどまではこの頭の毛先と繋がっていたものたちを見送りながら、そっと瞳を閉じた。しゃき、しゃき、と遠くで軽快な音が響いているのが聞こえてくる。髪の毛をわさわさと撫でていく指先の感触に、心地よい午後の陽ざしに、心の底から安堵し息を吐いた。
 そこまでは覚えていたのだが。
「おい、十代…十代、起きろって」
 ハッとして瞳を開くと、目の前にはしかめっ面をした親友の姿があった。親友は呆れたように溜息をつき、小さな声で「終わったぞ」と言う。俺は2度3度頭を振り、ああ、と頷いた。いつの間にか、気持ちが良すぎて眠ってしまっていたらしい。親友は首周りに巻いていたケープを引っぺがし俺を椅子から立たせると、そのまま風呂場へと追いやった。どうせだったら風呂にでも入って汚れを落としてこい、ということらしい。もとい、ここにいられると床の掃除が出来なくて邪魔なのでどっかいけ、らしい。あんまりな言い草ではあったが反論の出来る立場ではなかったので、大人しく風呂を借りることにした。さっぱりと全身を洗い流して出て来ると、さすが、抜け目のない親友はしっかりと俺の替えの衣服一式を用意しておいてくれた。自分の身の丈より僅かに大きめなそれを身に纏いリビングに向かう。先ほどまで簡易床屋みたいなことになっていたリビングは、すっかり元通りの、お洒落な居間に戻っていた。ソファに腰掛け新聞を見ていた親友は、出てきた俺を見るなり頷いて、「うん、さっぱりしたな!」漸く笑顔を見せた。
 2年ぶりに再会してから初めて見る満面の笑みだ。俺は肩を竦めた。
「なんだよさっきまではろくに口を利こうともしなかったくせに、行き成りその笑顔は」
「当然だろ。3日間風呂に入ってないとか聞かされた後だぜ?不潔極まりねえ。つか不潔。不潔十代」
「うっせーな、男が不潔とか清潔とか気にしてんじゃねーよ。女かおまえは」
「女じゃなくても気にするだろフツー。おまえの感覚がおかしいんだよ」
 やれやれ、といったように肩を竦め返してきた親友は、開いていた新聞を閉じると自らの脇に置いた。同時に、かけていた藍縁眼鏡を外し、テーブルの上に置く。代わりに湯気の立つマグを持ち、口元に寄せた様は、穏やかでひどく落ち着き払っていた。否が応でも感じさせられる月日の流れ。アカデミア時代は、一緒にはしゃぎ回れるだけはしゃぎ回っていたというのに、少し見ていなかった間にこんなに立派な大人になってしまって嬉しいやら寂しいやら。大体俺とこいつは同い年だ。そんな感慨を抱く方がおかしい。それに、減らず口が多いところは何ら変わっていない。にやにやしながら、テーブルを挟んだ反対側のソファにどかっと腰掛けた。晴れた日ののんびりとした昼下がりは、ゆったりと過ぎていく。
「2年間、ずっと切ってなかったのか?」
 あーとかうーとか唸りながらソファの背もたれの頂点に首を凭せ掛けてごろごろしていた俺に、不思議そうにそう問いかけてきた。俺は視線をやらないまま、そうだぜ、と返す。昨日のことを思い出す。たまたま気が向いて、随分昔に教えてもらっていた親友の住まいを急襲してみたわけだが、奴は俺のことを一目見るなり「うわっ」とか言いやがった。眉間に皺を寄せ嫌そうにする。一体何がそんなに気に食わなかったのかわからないのだが、髪、髪の毛、こいつが奴にとってそんなに大事なものだとは思ってもみなかった。親友は、そうか、とだけ呟いた。俺はがばりと頭をあげてそんな親友を真向かいからまじまじと見つめてやった。自然と口元がにやけてくる。
「なんだよ。なんでそんなに髪ばっかり気にしてんだよ」
 親友は僅かに両目を見開いてから、別に、と素っ気なく視線を逸らした。ますます口元がにやける。俺は一度腰を上げるとテーブルを回りこみ、親友の隣へと座り直した。身体ごとそっぽを向いた親友の頬をふにふにと突きながら、なあなあとしつこく尋ねてやると、親友は居心地悪そうに尻のあたりをもぞもぞさせてから、「…見慣れねえんだよ」口の中で何事かをもごもごと零した。
「は?」
「だから、見慣れねえっつってんの。面影がさ、ねえんだもん。一瞬誰かと思った本気で。昔はあんなに健全な青少年ーってかんじだったのに、髪の毛ぼっさぼさで、伸び放題になった前髪の間から睨んでくるもんだからさ、妙に雄くさいっつーか…なんつーか…」
「へえぇ?」
 何やらかわいいことを言われている気がする。つまり、どういうことだ?
「要するにヨハン君は、俺が急に大人のオトコ的になっちまったもんだから怖気づいちまったって、そういうんだな?」
「なっ…!、なんでそうなるんだよ」
「それとも、急に俺が見知らぬ男みたいになっちまったから、寂しかったのか?」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。そんなことあるわけねえだろ」
 そう言って澄ました顔で俺の腕を振り払うが、きっと気付いていないのだろう、耳元は真赤だ。感情がすぐに表に出るところも相変わらずであるようだ。俺は一頻り笑ってから、そういえば、と口を開いた。
「ヨハンが人の髪の毛を弄れるなんて知らなかったぜ」
 親友ははあと溜息を吐いてから、妹とかの髪の毛を切ってたからな、と言った。俺は鷹揚に頷く。そして、視線を逸らしたままのつれない奴の耳元で、じゃあこれから髪の毛切る時はヨハンのところ来ればいいな、と囁いてやった。親友はやはり嫌そうな顔をしながら、胡乱げな瞳を俺に向けてきた。
「はあ?」
「決まりな」
「勝手に決めんな」
「嫌なのか?」
「そういうわけじゃねえけど」
「じゃあ決まりな」
「………」
 けって〜いと言って立ち上がった俺を見て、呆れながらも親友は苦笑を浮かべた。恐らくバレている。親友は感情がすぐに表に出る男だったが、そういう俺も、かなり感情が表情に出易いのだ。そういうところはお互いに変わってないよな、と思いながら、俺は熱くなった頬を擦りながら窓際に寄った。今日もいい天気だ。



2009.10.27



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