町の商店街から少し離れた場所にあるレンタルビデオショップにはなかなか人が寄り付かない。それは、少し廃れたような外観や店の前に堂々と置いてある「最新AV有り!」というあからさまな煽り文句が書かれた錆び掛けの看板のせいもあるのかも知れないが、何より場所柄のせいだと思っている。以前に子供連れの母親が、「もっとちゃんとしたレンタルショップなら商店街の一角にあってもいいのにねえ…」と呟きながら家路を急ぐ様を見たことがある。確かに、まともに商売をしたいのなら、八百屋や魚屋が並んでいる活気に溢れた商店街と少しでも近い距離に店を構えればよかったのに。尤も、この店の店長が少々変わり者で、あまり他人が好きではないようなのであえて人が寄り付かないように仕向けているといったところもあるのだが(アルバイトの面接の際に「あんた、人間苦手そうだな」と真顔で言われたことが忘れられない。どうしてわかったのか)。
 店の店員という店員は、俺と、店長を含めて、たったの5人しかいない。定休日は月曜日と木曜日、その癖に24時間営業だったりする。その中でも俺は深夜勤務として3日間店を任されている。店番は俺ひとりだが、何かあれば、店と直接繋がっている民家から店長が顔を出す。といっても、深夜にやってくる客など大抵が寝ぼけた顔をした中年男性なので、何か事が起こることなどありえないのだが。
 俺はカウンターの中にある丸い小さな椅子に腰掛けて、ずっと本を読んでいる。店長のお気に入りらしい外国のハードコアバンドの殆ど聞き取れない乱暴な英語が耳を素通りしていく。更に言うなら、文字も目を素通りしていっている。1日の疲労感にどっぷりと沈み込むような心地で、しかし奇妙に活性化してしまっている脳を落ち着かせるために活字を目で追っているのだ。2時間に一度くらいの頻度で、店内へと続く硝子扉が開き、閉じる。俺は構うことなく読書を続ける。働き者らしい昼勤務の青年が、返却されたDVDの整理をすべてし尽くしてから退勤してしまうためやることがないのだ。気紛れにDVDを借りていく者もたまにいる。俺は差し出されたケースを受け取り、バーコードをスキャナでスキャンしてから中身のDVDを探す。作業の間に客と視線を合わせることは無い。時折、こちらをじいと見詰め続けてくる客もいるが、声をかけられない限りは俺は視線に応えてやることをしない。左から二段目の棚の上から三番目の引き出しから防護フィルムに包まれたディスクを取り出し、目立った 傷がないかをチェックしてからケースの中に仕舞う。小銭3枚を受け取って、小さいビニール袋に入れたDVDを差し出す。ありがとうございました、と義務的に口にする言葉を聞く者もいれば、聞かないですたすたと店から出て行ってしまう者もいる。俺は読書を再開する。悲鳴のようなシャウトが耳を素通りしていく。
 その日は朝から雨が降っていた。だから少しだけ不機嫌だった。ぽたぽたと雨の雫がビニール傘に落ちて耳障りな音を立てる。視界が悪い。俺は常時よりも少しだけ歩む速度を速めて、アパートから店先へと向かった。昼番の青年と簡単に挨拶を交わし、タイムカードを切る。エプロンをしてから店内に出ると、珍しくこの時間に店長がいた。店長は俺を一目見ると暗く沈んだ黒の瞳を細めて「今日は一段と不機嫌そうだな」と言いにやりとした。俺は軽く頷いて、何時も通り丸椅子に腰を下ろす。時計の針が11を指す。そそくさと店長が店の奥から自宅へと引っ込んでいく。薄暗く重々しいロックが流れている。当然、雨の音は聞こえない。俺は内心でほっとして、昨日置きっぱなしにしていた文庫本に手を伸ばした。
 それから何時間経った頃だろうか。不意に俺は顔を上げた。詰めていた息を吐き出す。右手の上に収まった本の背表紙を撫でてから、そいつをカウンターの隅に置いた。読み終わってしまった。在り来たりな推理小説だったが、それなりに面白かった。だが当分殺人現場や崖の上の大屋敷は結構だ。どうせ死体関連なら、死体が動き出すようなものが読みたい。次に読むのはファンタジーにしよう、と思いながら、俺専用の本棚を振り返る。本来は書類などを入れておくのに使っていたはずの棚なのだが、俺が読書好きだと知った店長が好意で空けてくれたのだ。読み終わったものの中で特に面白かったものと、衝動買いをしたものと、他人から借りた本がそこには入っている。タイトルをざっと見渡してみたが、生憎ファンタジー小説のストックは無かったようだ。明日にでも買ってくることにして、今日のところは有名な女性小説家の過去作を読むことにする。持っていた本を入れ換え、少しだけウキウキしながら正面へと向き直った時だ。
 立っていた男と目が合った。
 俺の身体がビクリと硬直する。ざわりと、一瞬のうちに絶望感が頭の先から爪先にまで駆け巡っていく。ゆるゆると瞳を見開く俺の前で、無表情だった男は双眸を眇めた。口端を吊り上げる。歪んだ微笑を浮かべて俺を射抜く。次の瞬間、男はさっと目を逸らした。同時に、蛇に睨まれた蛙のようになっていた俺の身体が解放される。俺は茫然としてその場に立ち尽くしていたが、ハッと我に返り、丸椅子に腰を下ろした。指先がガタガタ震えている。心臓がやけに早いペースで全身に血液を送り出している。こめかみから耳の裏側あたりへと、何かが流れていく。潮騒を幻聴する。俺は本に目を落とすフリをして、そっと、男の背中を見遣った。
 男は、黒いタンクトップ一枚に鈍い藍色のシャカパンといういたってラフな服装をしていた。歩く度にサンダルがぺたぺたと鳴る。乱暴に両手をポケットに突っ込んで、ぶらぶらと棚と棚の間を歩き回っている。こんな深夜帯にレンタルビデオショップなどに来る男など、独り身の淋しい負け組と相場が決まっているのだが、夜特有の淫靡で粘っこい濃密な空気を纏った男からはあからさまな汗の臭いと香水の匂いとあれこれが入り混じった体液のにおいがした。何か格闘技でもやっているのだろうか、一分の隙も無い背中は傍目から見てもわかるほどの凹凸がある。隆起した筋肉と、しなやかに引き締まった皮膚との間で生み出される落差だ。特にその腕などは金属バットを3本も纏めたような太さで、子供の頭など片腕一本で吹き飛ばせてしまえそうだ。すっと通っているウェストは一般的な男性よりの何回りも太かったが、身長があるせいかそれとも全体的な雰囲気の静けさがそうさせるのか、「巨漢」という言葉が当てはまるほどではなかった。そう、男は静かだった。あれほど目立つ肉体を持っているというのに、まるで意識の裏側に自然に存在を滑り込ませてでもいるかのように、うまく空間に溶け込んで息をしている。不思議に均整が取れていた。
 思わずまじまじと観察してしまっている自分に気付き、俺は慌てて目を背ける。いったい何だというのか。兎に角、珍しい男であるということだ。他には、何とも思わない。深呼吸を繰り返してから、再び本に視線を落とす。文字を追い始めれば、必然的にそれ以外のものは主観から遠ざかっていく。耳に届く重厚感のあるハードロック。人のいない空間の静けさ。こつこつと時を刻む時計の音。それだけだ。
 時計の秒針がぐるぐると回る。ぺらりと紙を捲る音が響く。ふと、目の前に気配を感じて立ち上がる。何時の間にかカウンターの前に来ていた男が、3枚のケースを差し出していた。俺はそれらを受け取り、バーコードをスキャナでスキャンしてから中身のDVDを探し始める。戦争映画が2本と、一昔前のホラー映画が1本。どれも未だにコアなファンがいる類の(万人受けはしない類の)、R18指定映画だ。どうやら外見に似つかわしい趣味を持っているらしい。ディスクの傷を一枚一枚チェックして、問題が無いことを確認してからケースの中に収めていく。3枚揃えて、ビニール袋に入れてから、カウンターの上へと置く。男が差し出してきていたくしゃくしゃな千円札を受け取り、レジから1枚小銭を取り出した。お釣りのそれを男の方へと差し出した。だが。
「おい」
 手首を掴まれる。低い声が降ってきて、俺は反射的に顔を上げていた。するとそこには、濁った橙色をした瞳があり、ほんの少しだけ身を乗り出して俺の方を覗き込んできていた。手首を掴んだのとは別の手が、俺の顎に触れる。つ、と人差し指一本で顔を上向けさせられ、吐息が触れ合う距離にまで鼻先を近寄せられる。なんだこれは。俺は両目を見開く。男が楽しげにくつくつ笑う。
「おまえはレンタルしていないのか?」
 唇の上を何かが掠めていく。酒臭い吐息だった。俺は舌先で、吐息が触れた下唇を舐める。乾いた唇の感触だけがした。ぱちぱちと2度瞬きをすると、男はご機嫌そうににやりとして、俺の掌の上で震えていた小銭1枚を取り上げた。シルバーのごつい指輪が嵌められた太い指先が、何のことはない1枚の小銭をつまみ上げる。なんだかあまりにも似つかわしくなくて、ふ、と笑ってしまった。
「また来る」
 その言葉を信じたわけではなかったのだが、反射的にこくんと頷いていた。顎の下から指先が離れていく。背を向けかけた男に、俺は咄嗟にエプロンから抜き出したボールペンを差し出していた。探るような橙がこちらを窺ってくる。レジの周囲を漁り、前の客が受け取らずに放置していったレシートを抓み上げ、それも差し出した。男は穏やかな微笑を浮かべ、するするとレシートの上に数字の文字列を書き出していった。0X0-XXXX-XXXX。携帯電話の番号。ボールペンとレシートを俺の方に突き戻してから、男は今度こそ踵を翻した。硝子の扉が開き、男の広い背中を闇の中へと誘っていく。ほんの少しだけ、さあさあと、雨の音が聞こえてきたような気がしたが、それも硝子扉が閉まるのと同時に遮断され、店内は先ほどまでと同じハードロックに満たされていった。
 俺は手元の白い紙を見下ろす。整然と並んだ文字列を指先でなぞる。そしてひとつ溜息を吐いてから、エプロンの中にその紙を捻じ込んでおいた。



2009.5.16
(2009.6.11 改)



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