出張が俺自身の意志で取り決められることでなければ、その出張先などは言うまでもないことである。だが今回に限って俺がこの仕事を任されたのは、俺がこの国の言語を他の誰よりも上手く操ることが出来るからというわけではなく、社長が俺の過去の経歴をたまたま知っており、青春時代の思い出の地だというのならば是非にということだったのだ。あくまでも善意の上での行為。俺は笑顔で一礼し勿論ですと答えたのだが、内心ではそれどころではなかったことを記憶している。目の前の光景がすべて灰色に濁っていくようだった。

 しかし、いくら狭い島国の中とはいえ人ひとりが移動する距離として範囲は限られている。逆にいえば、自分が行動出来る範囲に誰も知人がいなければ、誰とも会わずに帰ってこられるというわけだ。勿論、旧知の友人たちと会って目一杯話し込みたいという気持ちもあった。だが俺自身が社会人ならば友人たちも皆々それぞれの仕事を持ち社会貢献に励んでいることだろうし、急遽取り決められた予定のためにわざわざ時間を割いてもらうのも申し訳がなかった。…これらすべてが卑怯な言い訳だとわかっていても、臆病な俺にはどうすることも出来なかったのだ。後々「どうして連絡してくれなかったんだ」と詰られる羽目になっても構わない。「こっちも仕事で疲れてたんだよ」と苦笑して返せば納得はされずとも理解はしてもらえるほどには、お互いに、大人になっていると思っていた。だから。
 だからこそ、まさかこういった形で再会することになるとは、思ってもみなかった。
「本当に随分久しぶりだな」
 親友は嬉しそうにそう言ってグラスを拭った。俺は、ああ、と頷き返しながら視線を逸らした。ホテルのバーの中には自分の他に数名の客がいたが、その誰もが己の連れ合いとともにテーブル席に腰掛けており、カウンター席に腰をおろしていたのは奇しくも俺ひとりだった。俺の目前には、バーテンダー服に身を包んだかつての親友がいる。俺は指を濡らす水の感触に意識を集中させる。極力そちらを視界に入れないように振る舞っていたのだが、親友はにこにこと嬉しそうに微笑みながらまたひとつ新たなグラスに手を伸ばした。
 何故日本にいるんだ。どうしてこんなところで働いているんだ。おまえは旅に出たんじゃなかったのか。それらの質問には、尋ねる前に答えを寄越された。3年ほど前までは確かに世界を回っていたこと。息抜きがてらに戻ってきた日本で友人たちに会って、暫くの間は友人宅を転々としていたこと。その頃、明日香とも再会したこと。明日香に想いを打ち明けられたこと。それが実は2度目の告白だったということ。1度目の時には理解出来なかった想いを、2度目で受け止めたという事実。そして婚約。今はひとつ屋根の下で暮らしている、ということ。大学を卒業してからのことをべらべらと饒舌に喋り続ける親友は、恐らく俺とこうして再会出来たことを心から喜ばしく思っているに違いなかった。
「去年の秋に子供が生まれたんだ。で、今明日香はそっちにかかりっきりになっててさ、勤めてる学校の方には休暇をもらってるんだけど、その間俺にも出来ることをしようと思って…こうしてバイトを始めてみたんだ。だけどまさか、俺が働いてるホテルにヨハンが泊まりにくるとは思ってなかったぜ…元気してたか?」
「…ああ」
 その時、ホールで待機していた他のスタッフが注文を受けてきたらしく親友に何点かのドリンクオーダーをした。親友は上品な声(彼らしくもない、控え目で、すべてを弁えたかのような声だった。ぞくりとした)でそれを受けて、すぐさま何かの原液とソーダ水を手に取った。手際よくドリンクを作っていく。きれいな水色をしたカクテルと、ウィスキーの水割りを作った彼は取りにきたホールスタッフに向けてグラスを滑らせる。受け取ったスタッフから密やかにウィンクが飛び、彼もウィンクで返事を返した。客の前ではしゃんとして淑やかな姿を見せているスタッフたちが店内にてこっそりと繰り広げているやり取りを目にして、俺は奇妙な空虚感に襲われる。改めて、彼がこの場所に所属しているのだということを思い知らされる。そして今の彼には帰るべき場所があり、守るべきものまでもがある。更には子供まで。
「俺だって、ここで十代に会えるとは思ってなかった」
 浮かべた笑みは引きつってはいなかっただろうか。俺の瞳は、暗色に彩られてはいないだろうか。噛みしめるようにして呟いた言葉に、親友は鷹揚に頷く。そして、手元で作っていたもう1種類のドリンクを俺の手前に置いた。見上げると、先ほど店内の他のスタッフにしていたのと同じようにウィンクされる。どうやら、奢りということらしい。俺は一瞬何も考えられなくなったが、次の瞬間には意を決して顔を上げていた。再会してから初めて、真っ向から親友を見据えた。穏やかな笑みを浮かべる親友は大学時代よりも更に経験を積んで、大人びたようだった。とろりとしたウィスキーよりも深みのある鳶色の瞳が、小さく形の良いくちびるが、暗い室内灯の下で鈍く艶めかしく光っている。双眸をゆるゆると細めて俺を見やる。思いつめたような顔をしている俺に気付いてか、小首を傾げる、その仕草。挙動のひとつひとつ。俺は咄嗟にスーツの内ポケットから名刺を取り出し、裏面に部屋番号を書き添えて、それを彼に差し出していた。
「ん?これ…」
「この部屋に泊まってるから。後で……来てくれ」
 親友は僅かに目を見開き、次いで動揺したように上目遣いでそっと俺を見た。
「仕事終わるの、2時とか過ぎた頃になると思うんだけど」
 俺はふふと乾いた笑みを浮かべて、構わないから、と言いながら彼の手に確かに紙片を握らせた。同時に席を立つ。会計を頼むと、親友は少しだけ困った表情をしてから、俺が今までに飲んだ酒の合計金額を口にした。俺はお札入れから1枚を取り出し、名刺を握るのとは別の手にそれ握らせ、素早く踵を返した。慌てたような声が背中に追いすがってきたが、聞こえなかった振りをして足早にバーを出た。
 何故今更こんなことをしたのか、俺自身にもよくわからなかった。酒がまわってうまく回らない頭で考えるのは、かつて、俺がまだこの国に留学生としてきていた頃のことだった。親友である十代がいて、その十代と幼馴染の明日香がいて、俺がいて。男ふたり女ひとりの3人で行動していることが多かったため、周囲からは冷やかされることが多かったが、俺たちはまったく気にすることなく3人でつるんでいた。しかし3年のある時になって明日香が急に俺たちと行動を共にするのをやめた。何があったのかなど、誰に言われずともわかっていた。俺と十代はふたりで行動するようになった。俺は明日香について十代に何も言及しなかった。十代も明日香について俺に何も釈明しなかった。恐らく十代は、俺が気を遣っていると思っていたに違いない。だが、実際はそうではない。そうではなかったのだ。仲が良かった3人の中に、恋愛感情という要素がちらりとでも混入した時点で、3人ともが少なからずどこかで何かを狂わせてしまっていた。十代の苦悩に対し、俺は見て見ぬフリをした。うすら笑いを浮かべていたかも知れない。十代には明日香の気持はわからない。だから、十代は誰のものにもなれない。そう思っていた。だというのに。
 結婚したんだ、と言ってほんのり赤面させた親友の顔が脳裏から離れなかった。唇を噛みしめれば、容易に薄皮は破れて咥内に血の味が溢れ出した。


*


 バーテンダー仲間から「さっきの知人だろ?早上がりしていいぜ?」とありがたいことに声をかけてもらえたお蔭で、予定より1時間も早く仕事を終わらせることが出来た。
 深夜0時を過ぎれば大抵の客たちは各々の部屋に戻り始めるためバーの中はかなり閑散としている。今日は隅の方のテーブルでまだひとグループが飲んでいるようだが、普段の平日の夜はこの時間になると誰も居なくなる。そして午前2時を過ぎると、眠れない夜を過ごしているらしい人々が酒と話相手を求めてちらほらと訪れる。夜の静けさを壊さぬよう自然と声を潜め顔を寄せ合ってする会話は、どこか内緒話をしているようで、年甲斐もなくドキドキする。時折客同士の中で意気投合してテーブルの方へと移動するパターンもあるが、深夜に訪れる客の殆どはカウンター席に腰掛ける。
 今日は遊城君はいないのかい?、と平日によくこのホテルを利用しているらしい常連の男性が訪れなければいいが、と内心で思いながら、手早く着替えを済ませた。ワイシャツにベストとスラックス、といったバーテンダー服よりも、かっちりとしたスーツの方がなんとなく息苦しく思えて個人的にはあまり好きではない。今はあまり人目が無いのでネクタイはせず、シャツの釦を上からふたつ目まで外して、片手に背広を抱えてロッカールームを出た。お疲れ様ですー、と声を掛けながら店内を過ぎれば、眠たげな眼をしたバーテンダー仲間が、恐らくはちみつミルクが入っているであろう小さめのグラスを持ち上げ、肩を竦めて挨拶を返してくれた。
 普段は従業員入口から外に出て帰路につくところなのだが、今日は違う。スラックスのポケットから抜いてきた名刺を取り出し、そこに印字されている文字を眺める。洒落たアルファベットと堅苦しい片仮名が混在している。社名などは全て英語だったので脳味噌の足りていない俺には生憎とあまり理解することが出来なかったのだが、名刺のメインである人名だけは、読むことが出来た。ヨハン・アンデルセン。俺の唯一無二の親友。久方ぶりに再会した。遠い北欧から、こんなちっぽけな国にまで出張に来たのだろうか。ようこそ日本へ、なんちって、などとひとりでくすくす笑いながらひらりと名刺を裏返した。そこに書かれていた部屋番号は、このホテルの所謂最上級クラスの部屋が存在している階にあるものに相違なく、つまりは親友がそれだけすごい部屋に泊まっているということを示している(但し最上級クラス、というだけであって、最上ではない。本当の最上は、ロイヤルスウィートルームといい、そこは仮にも仕事のために海を越えてはるばるやってきた人間を通すような類の部屋ではないのだ)。
(あいつ…偉くなったんだなあ)
 自分がぶらぶらと世界を放浪している間に、親友は彼自身の地位をきちんと築き上げてきたというわけだ。我が事のように誇らしい気分になるが、同時に、親友の頑張りを目前にして今まで自分がどれだけ生きることに対して無頓着で周囲を振り回してきたのかを思うと、恥ずかしくて消え入りたいような心地にもなる。人気の無いホール内を歩き、エレベーターの前へと向かう。このホテルで働き出してから数ヶ月だが、このエレベーターに自分が乗ったのは初めてだった。まるで身分が違う。本来は、これに乗っていいような人間ではない。緊張しながら、向かう先の階層の数字が書かれたボタンを押す。闇の中を滑るように、エレベーターは動き出す。
 物凄い勢いで身体が上昇していく感覚に身を任せ茫然自失していると、チン、と軽快な音が鳴った。停まった階で降りて、恐る恐る足を踏み出す。柔らかな絨毯の感覚が靴越しに伝わってくるようだった。案内図を見て、また心臓が飛び跳ねる。階の中でも一際広い、一番端の部屋が、親友のいる部屋であるらしい。どこまで偉い奴になっちまったんだ、とほんの少しだけ呆れながらそちらに向かう。高級感が溢れる漆黒のボードの上に金色で刻み込まれた部屋番号。取っ手までもが艶々と輝く金色で、怖気づきそうになる。息を呑み覚悟を決めてから、コンコン、と扉を叩くと、数秒後、カチャン、何かが作動したような音がした。まさかと思いながらも取っ手に触れ、ノブを回してみる。鍵がかかっている時特有の感覚もなく滑らかに70度ほど回転したノブは、扉が開いていることを教えてくれた。動かずとも、室内から鍵を開閉出来る、完全オート仕様らしい。もう一度深呼吸をしてから、扉の内側へと身体を滑り込ませた。
 親友は窓際に据え置かれた椅子に腰掛けて上品にワインを飲んでいたが、茫然と立ち尽くしていた俺に気付いてから身体の向きを僅かに傾けさせた。外界の、光ともいえないような弱々しい光を受けて翡翠色の瞳が鈍く輝いている。ああそういえばこの男は、学生時代から女性たちにちやほやされるほど顔が整っていて、顔だけではなく性格もよくて、ともかくとんでもなく女の子にモテていたんだなあということを思い出した。だというのに誰と付き合うこともなく、大半の時間を、俺と、明日香と、3人で過ごしていた。そこでふと思い至る。もしかすると、親友は明日香のことが好きだったのではないか。何度かそう尋ねる度に笑って返されていたのだけれど、実はやっぱり好きで、だからこそ明日香と結婚したのが自分ではなく落ち零れの俺だということに不満を抱いて、お礼参り、ではないが落とし前をつけさせるためにこうして今俺を呼んだのではないか。などと、夢のようなことをぽつぽつ考えていたら、不意に微笑まれた。
「そんなとこにいないで、こっち来いよ。飲もう、十代」
 屈託無い笑みが、何故か鋭く見える。動揺を押し隠せないまま、反対側に据えてあった椅子に腰を下ろした。親友はにこにこしたまま、ローテーブルに乗っていたワインクーラーを脇に寄せた。中では半分ほど無くなったカベルネのボトルが、クラッシュアイスの海に沈みこんでいる。しかしグラスが親友の手元にあるもの以外に見当たらなかったことを不思議に思う。親友はいかにも悪戯っぽいかんじでにやりとすると、ちょっと待ってろ、と言ってからスリッパをかぽかぽ鳴らせて部屋の奥へと消えてしまった。親友は先程見たようなスーツ姿ではなく、寝間着を身に纏っていた。風呂上りなのかも知れない、ふわりと漂ったミント系のにおいを嗅ぎながらそう思った。
 やがて戻ってきた親友は小さなおぼんを持っていた。その上には琥珀色をした一本の酒のボトルと、ロックグラスがふたつと、アイスペールが乗っている。おぼんごとテーブルの上に置き、親友はボトルを開けた。視線で問うと、「これ、俺の祖国の酒。アクアビットっていう蒸留酒」求めていた答えを淡々と告げつつ氷を数個入れたグラスに半分ほどそれを注いだ。琥珀色が薄まり、蜂蜜のような色になる。親友は微笑んだまま、グラスを俺に差し出した。
「親友との再会に乾杯、ってな」
「お、おう。乾杯…」
 こつん、とグラスをぶつけ合い、お互いに酒を煽る。昔の癖でつい一気にいきそうになったが、咥内に広がった独特の味を感じて慌ててやめた。少々癖がある、だが美味い。視線を持ち上げると、親友はじいと俺を見詰めてきていた。目が合うとやはり微笑まれる。内心で困惑した。いったいどうしたというのだろう、本当に、奇妙なほどに親友は笑顔だった。それほど俺との再会を喜ばしく思っているのだろうか、と考えて、しかし、と思い直す。ほんの少しの違和感。親友は静かな声で「こんなところで十代と会えるとは思わなかった」と話し出した。光の加減か、夜空の星のような色合いの瞳をしているように見えた。
「俺こそ。ヨハンがこんなにすげえ奴になってるとは思わなかった」
「すげえ奴って?」
「ほら、この部屋とか…俺じゃあ一生かかっても泊まれない部屋だぜ」
「ああ、これは、取引先の方のご厚意だよ。でなけりゃ俺だってこんな部屋」
 肩を竦めてみせた親友は、やはり親友のままだった。ざらりと舌の上を撫でていく慣れない酒の味。数年ぶりに顔を合わせたとは思えない、つい数日前に近所で見かけたかのような慣れ親しんだ感覚。それでも何処か遠い場所からやってきた人を迎え入れた時のような懐かしさ。彼の祖国の酒のせいなのかも知れない、親友が、郷愁という本来ならば目には見えないはずのものを、そのまま生々しく背負っているように見えた。なんだか無性に、胸が苦しいほど嬉しくなってきて、俺はこの、一生にそう無いであろう巡り会わせと、この状況に感謝をして、親友との会話に没頭した。


 お互いの近状の話、他愛も無い話、少しだけ真剣な世論の話。様々な話を経て、自然な流れで話題はそちらに飛んだ。昔を懐かしむようになったら老けた証拠だ、と誰かが言っていたが、確かに、俺たちは老けたに違いない。大学を卒業してからもう5年も経っている。うっそりと双眸を細めながら「昔の十代はもっとこう、ピンポン玉みたいに、飛び跳ねまくってたよなあ」と酒臭い息を吐いた親友はかなり酔っている。かくいう俺も相当酔っ払っていて、相手の話に相槌を打つのがようようといった体だ。時刻は何時の間にか3時を過ぎている。闇が一層濃さを増す時間帯。闇に紛れていた何かが、顔を出す時間帯。俺はそのことをすっかり忘れていた。だから、親友の腕が、思いの他強い力で胸倉を掴んだ時も、一瞬何のことなんだかわからなかった。
「昔は、あんなに、無邪気だったのに、なあ…」
 吐息が頬に触れる。柔らかいものが唇に触れる。熱いものが舌先に触れる。触れるだけでは済まされない熱が、俺を引き摺り込む。くらくらした。がたん、と音をたててボトルが倒れた。親友が何事かをぶつぶつと呟いている。俺には何のことなんだかわからない。何度か口の中を出入りしていたものが、ずるりと粘液を引き摺って出て行った。かと思えば再度また侵入してくる。小さな、固形物のようなもの。やはり何のことだかわからず、ぎゅうぎゅうと喉奥に押し込まれてくるそれをまんまと飲み下してしまった。熱くて熱くてたまらず、みっつ目のボタンを外す。親友の腕が誘う。椅子から立ち上がらされ、ぐでんぐでんに酔っ払った身体をベッドの上に横たわらせられる。どうしようもなく熱い。苦しくなってきた。親友が顔を覗き込んできた。優しげに微笑む、だが瞳の奥がぎらついている。鋭くて、つめたくて、あつい。上手く息が出来なくて喘ぐ俺を憐れんだように見下ろして、親友は低い声で笑った。覆い被さってくる。ひどく緩やかな手付きで耳元の髪の毛を払われ、耳朶に唇を寄せられる。ボタンのよっつ目、いつつ目、むっつ目が外れた。皮膚が直接空気に触れる。熱い体温が胸板を滑る。足の間を割り開かれる。何に?何がどうなっているのか、わっぱりわからない。
「昔は、あんな、に……じゅうだい…っ」
 苦しげな声。どうしてそんなに、追い詰められたような声を出すのか。わからなくて小首を傾げると、噛みつかれるようにして再び口を塞がれた。もぞもぞと、身体の表面を熱が走る。熱くて熱くて熱くて仕方がなくて、親友の指先がスーツのズボンのボタンを外したのをこれ幸いとばかりに思い、自らズボンを脱ぎ払った。敏感な部分を吸われ、嬲られ、熱い粘膜で包まれる。押し寄せてくる、正しく波としか言いようがない官能に身を任せるまま、いったい何が起こっているのかをずっと考えていた。「どうにかなる」と叫んだ自分のものらしからぬ掠れた甲高い声に、「なっちまえ、どうにかなっちまえよ、もう、これでもかってほど、おかしくなっちまえよ!」彼らしからぬ興奮した叫び声が返ってきた時には、ああ本当にどうにかなってしまうんだなあ俺たちは、としみじみと思ってしまったほどだ。

 結局、俺に理解出来たのは、親友が俺の唇を塞いだ行為が所謂キスというのもので、どうしてなんだか俺たちがこの一晩のうちにそれ以上のことまでして、まさに「どうにかなってしまった」ということだけだった。


*


 わたしとあの人の生活習慣は基本的にすれ違っている。わたしが眠る頃にあの人は仕事に出かけ、わたしが起き出す頃に眠る。時間を共有できるのは、日が沈むころの、橙色に霞んだほんの数時間の間だけ。同じ家で暮らしているのに、おかしなことだと思う。けれど、時間が足りないわけではないとわたしは思っている。何故ならこうして同じ家で暮らし始める以前に、わたしとあの人の間には、数年という距離があったのだから。
 けれどこの日だけは、そういうこととは何かが違った。そういうこと、というのは、どうしようもなくて、とてつもなく強大な時間の流れに阻害されているような、絶対的に諦めなければならないような、諦めることが必然であるように思われる時のこと。とても辛い時間のこと。試練のようなもの。だけどわたしとあの人はそういうものを乗り越えてひとつになったのだから、もう2度と出会うことのない過去の記憶のこと。
 自然に起こるものではない、嫌な予感がしていた。それはまるで、大雨が降りだす前の濁った空のような。

 朝日に誘われて目を覚ましたわたしの隣にあの人はいなかった。わたしはとても驚いて、心臓が止まるかと思った。慌てて起き出して、家じゅうを探し回った。リビング、台所、ひとつしかないトイレまで。ぐるぐると部屋の中を徘徊するわたしの頭の中にはあの人のことしかなかった。だから、ぎゃああああ、とけたたましい泣き声が聞こえてきて一気に我に返った。ばたばたと寝室にまで取って返し、ダブルベッドの横に仲良く並べて置いたベビーベッドの中を覗き込んだ。顔面をくしゃりと歪めて泣いている赤ん坊が、わたしの姿を見つけて、一層ひどい声をあげだした。まるでわたしの不安をそのままこの子が声に出しているようね。どこか冷静にそう思いながら赤ん坊を抱き上げる。わたしの赤ちゃん。わたしとあの人の赤ちゃん。かわいい子。
 高い体温の塊を抱いて、心を落ち着かせる。けれど、事実は変わらない。あの人はどこにいるのかしら。いつもは、この時間には家にいて、わたしの隣ですやすやと眠っていて、わたしはあの人と赤ちゃんの顔を見比べて、あらそっくりね、なんて微笑ましく思うのが常だというのに。赤ん坊はようやく泣きやみ、あぶあぶと口をむずむずさせていた。わたしは携帯電話を手に取る。着信はない。メールもない。元々あの人は無精な人だから、そういった機械的な連絡はあまり入れてこない。けれど、もしどこかで飲み明かしたりする時にはメールか電話をすると約束していた。あの人が約束を破ったことはなかった。だというのに。
 まさか、いつかのように再びわたしを置いて何処かへ行ってしまったのではないか、と考えかけてすぐさまその考えを打ち消す。それは、ありえないことなのだ。あの人は、わたしとこの子のことを愛している。愛してくれている。驕りでもなんでもなく、ただそう確信することが出来る。父親となったあの人は、昔と比べると随分と大人しくなって、理性的な人になった。その人が、今のわたしとこの子を置いて遠いところに行ってしまうはずがない。だってあの人はものすごく子煩悩だから、どこかに出かけたとしても、極力予定を早めに切り上げて帰ってくるなり泣き出しそうな顔をしてわたしと赤ん坊の顔を見比べるのだ。都度、2人とも変わりはないか、なんて、一家の大黒柱のようなことを言う。わたしはくすりと微笑んで、馬鹿ね、と言って赤ん坊をあの人の腕の中に預ける。赤ちゃんは、あの人に抱かれると、まるでそういう魔法に掛けられたかのように、すうっと眠りについてしまう。子供の寝息を聞きながらわたしたちは顔を見合わせて、お互いにくすくす笑う。
 そんな幸せな空間を共有することが出来ているのに、思い詰めた様子などどこにもなかったというのに、いったいどうして。どこにいるの。祈るような思いで、携帯のアドレス帳を開く。ひとつの電話番号を呼び出し、まさに発信ボタンを押そうとした時だった。
 パッと、画面が切り替わる。電話の着信画面だった。発信人欄に視線を落として、目を見開く。わたしは慌てて受話ボタンを押し、携帯を耳元に押し当てた。
「もしもし?十代?ちょっと、今何処に居るの?」
『………』
 電話の向こう側からは何も聞こえてこなかった。わたしは夢中になってあの人の名前を呼ぶ。霧散しかけた不安感が、再び押し寄せてくる。思わず眉を顰めたころに『…明日香、か』囁くような声が聞こえてきた。
 あの人のものではない声。
「誰…?誰なの、あなた。十代はどうしたの?そこにいるの?」
『誰、って…ひどいな明日香。俺のこと忘れちまったのか?』
 声の主はからからと乾いた笑い声をあげた。わたしはきゅっと唇を噛み締める。やはり、ひどく、胸騒ぎがする。わたしの動揺になど構わず、電話口からは『まあでも仕方ないよな。十代の携帯からいきなり、昔馴染みの声が聞こえてきたっていっても、ピンとくるわけがない』溜息混じりの声が聞こえてきている。聞き覚えのある声。誰なのかが、思い出せない。
『でもちょっとショックかな…大学時代、あれだけ一緒にいたのにさ』
「大学時代…、!?まさか、あなた…ヨハン?ヨハン・アンデルセン?」
『そう、ヨハン・アンデルセン。久しぶりだな明日香』
 わたしは片手で口元を覆った。信じられなかった。だって、今、彼は自国にいるはずでは。
『出張でさ、こっちに来てるんだ。で、俺の泊まったホテルっていうのが十代が働いてるバーのあるホテルでさ、まさしく運命的な再会を果たしたんだよ。それで盛り上がっちゃって、十代の仕事が終わった後、2人で夜通し飲んでた』
 彼は淡々と語る。懐かしい友人の声の響きが、どこか、掠れている。不安定で、今にもふつりと切れてしまいそうで、わたしはしっかりと携帯を握り直した。何故だか眩暈がした。元々ロマンチックなところのある友人だったが、運命的な再会、と言った声の調子にどこか皮肉染みたものが潜まされているような気がして、落ち着かなかった。何かが、白々しく、神経の上を這っているような感覚。
「十代は…?」
『酔い潰れて寝てる。っていっても、寝たのはさっきだからさ、今日の仕事が始まる時間まで眠らせておいてやろうと思うんだ』
「お願い…彼を、起こして。話を…少しでもいいから、声を、十代の声を聞かせてヨハン、」
『…悪い。もう時間だから、俺も仕事に行かなくちゃいけない。悪いな明日香』
 避けられた、と直感的に悟った。そして唐突に、彼の傍にあの人がいるのだということを思い知らされる。今、どんなにわたしが全力で叫んだとしても、届かない距離。遠くで布擦れの音がする。どうしようもない負のエネルギーが胸の中で渦巻いていく。苦しくなって「ヨハン!」彼の名を呼んだ。自然と、縋るような響きが含まされた。彼はふうと息を吐き、電話越しで、顔は見えないのに、穏やかに微笑んでいる様が伝わってきそうなほど滑らかで柔らかな声を出して最後に言った。

『さよなら、明日香』


 ツーッツーッツーッ、と通話が終了したことを知らせる無機質な信号音が鳴り続けている。わたしは、茫然と立ち尽くしたまま、腕を動かすことすら出来なかった。
 きっと、途方に暮れていたのだと思う。ひたひたと押し寄せる絶望の予感に、自我を揺さぶられる思いだった。
 その時に何が始まってしまったのか、わたしにはわからなかった。



2009.7.9
10.18
10.19





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