( 隣にいたかと思いきや、何時の間にかいなくなっている。いなくなったはずだというのに何時の間にか隣に戻ってきている。今まで何処にいた、と訊ねても、えっ僕はずっと君の傍にいたはずだけど?、と首を傾げられる。どうやら意識的に取っている行動ではないらしい。別段機嫌を上下させる様子もなく不調を訴えるわけでもなく、極自然に消失と出現を繰り返す男が、どこか危ういということには薄々感付いていた。だが、だからといってどうすることも出来ない。本人が平然とした顔をしているというのに、他人がそれ以上介入することは唯の無遠慮というものだと思っていたからだ。
 しかしそのことを、偶然帰宅時間が重なった奴の双子の兄に尋ねてみたところ、奴の兄は思い切り表情を歪め「覇王、それ、本当か?本当なんだな?」等といやに神妙な様子で逆に問い詰めてきた。あまりにも真摯な声音で尋ね返されたものだから、質問に質問を返すなど無礼な奴だ、と普段ならば罵ってやるところを、ひとつ頷いて返すことしか出来なかった。首肯を受けた奴の兄は自分の前髪をぐしゃりと片手で掻き混ぜ「あいつ、やっぱり後遺症残ってんじゃねえか…!」と小さく呟いていたが、不意に顔をあげると、話があるから少し時間をくれないかと言った。その話とやらが、奴に関係していることは既にわかりきったことだった。断ってもよかったのだが、流石に、真剣な光を宿した相貌に睨み据える勢いで見詰められてはほんの僅かでも事情を聞いてやろうという気になる。再度首肯して話を聞いてやる意を示すと、奴の兄は明らかに安堵したといった表情になり、「あいつのクラスに覇王がいてくれてよかったよ…」と溜息交じりに漏らした。どこか疲れた口調だった。常にポジティブで、前しか見えていないといったような、忌々しくも自分の兄とまったく同じタイプであるこの男をここまで気落ちさせることとは一体どのようなことなのか、興味を抱いた。だが、後に、奴らの家でとある過去の話を聞いて、ほんの少しばかり自責の念に捉われることになる。無論俺に責任は無い。誰の責任でもないと理解していても、それでも、奴の隣に常時いてやることが出来たのは、別のクラスである奴の兄や自分の兄ではなく、他でもない自分だけだったのだ。)


「珍しいね?覇王が僕を呼び出すなんて」
 ユベルは何処か嬉しそうにそう言い双眸を細めた。それに対しては返答を返さず、覇王は視線を逸らした。確かに、ユベルの言うことは正しい。もとい、珍しいというレベルではなく、こうして覇王からユベルを個人的に呼び出したのは初めてのことであった。上機嫌そうに「覇王も漸く僕の愛に応えてくれる気になったんだね!ふふっ嬉しいな…」と呟き指のつま先を弄っているユベルは無邪気なものだった。それこそ、クラス内の他の生徒たちが噂しているような態度の悪さはまったく見受けられない。基本的に、心を開いた者に対しては無垢で一途なのだ、と思う。ユベルがいつからこういった性格をしていたか、覇王には思い出すことが出来なかった。ユベルとその双子の兄であるヨハンが転校してきて以来、中学校、高校と共にしてきているのだが、最初からこうだったような気もするし、何時からか覇王や十代にも心を開き始めたような気もする。定かではない。現在に満足して日々を生きている者が、あえて過去を顧みることなどしない。それは誰だでも同様だと思っている。だが、もし現在に傷を残すようなことが過去にあったとしたならば、何らかの形で過去を振り返り、傷が出来るようになった原因である出来事を昇華してやらなければならない。ましてや、本人が、己に傷が残っている自覚がないというのならば尚更だ。周囲がなんとかしてやらなければ、一生傷が塞がることはない。
「ユベル」
 ぺらぺらとひとりで何事かを喋り続けていたユベルは、覇王が一言声をかけるとぴたりと口を止め嬉しそうににこりと微笑んだ。普段ならば、あまりに蕩け過ぎた笑顔を気色悪いと一蹴してやるところだったが、覇王は何も言わずユベルを手招きし己の真向かいに座らせた。昼休みの屋上にはふたりの他に誰もいなかった。いつもは十代とヨハンも一緒に昼食をとるはずなのだが今日はヨハンに頼み十代を別の場所まで誘導してもらった。ふたりきりでいる必要があった。もとい、これはむやみやたらと周囲の人間に漏らすようなことではないと、そう思ったのだ。ヨハンもそれに同意してくれたからこそ十代のことを引き受けてくれた。あとは、本当にユベルがそうであるのか、確かめなければならない。
「動くなよ」
 有無を言わせぬ口調でそう言うと、ユベルはきょとんとした顔のままひとつ頷いた。それを確認してから、覇王はゆっくりと、己の掌を、正面から、ユベルの額へと向けて伸ばした。何事かと目を丸くしたユベルの視線が覇王の指先を、掌の動きを追う。ゆっくり、ゆっくり、距離を縮めていく。そうして、覇王の掌が、ユベルの額にまで残り15センチというところに近付いた時だった。唐突にユベルは両目をこれ以上ないというほどに見開き、左手で、己の胸元を掴んだのだ。ユベルの息が徐々に荒くなっていく。覇王は更に掌を近付けた。あと10センチという距離にまで近付けさせる。ユベルの表情は歪み切っていた。だが、まるで何かに縛りつけられたかのようにその場を動けない。近付いてくる掌を嫌がっているということは最早誰の目から見たとしても歴然としていた。だというのに、逃げられない。口をぱくぱくと動かし、上半身をびくびく蠕動させている。呼吸がきちんと出来ていない。ひゅーひゅーと喉が鳴る音がする。完全に過呼吸状態に陥っている。これ以上近付けたらどうなるかわからない、もしかすると気を失ってしまうかも知れない、そう思わせるほど鬼気迫る様子だった。限界か、そう思いながら覇王は素早く掌を横にずらした。ユベルの視界から掌が消える。と同時に、糸が切れたようにユベルの身体が右に倒れた。ワイシャツの襟元を力強く握りしめすぎて、指先が変色していた。覇王は咄嗟に右腕でユベルの身体を受け止めてやりながら、左手で昼食が入ったコンビニのビニール袋を引っ掴み引き寄せた。中身がどさどさと屋上のコンクリートの上に投げ出されるのにも構わず、ユベルの口に急いで袋を宛がった。ユベルが虚ろな瞳で見上げてくる。訳がわからないといった表情をしている。その癖に、やはり苦しかったのか目尻から生理的な涙を溢れさせている。憐れな姿だった。覇王はゆっくりとユベルの左手を胸元から引き離すと、ビニール袋を自分自身で握らせた。「息を吐け。ゆっくりで構わない」耳元でそう囁いてやると、ユベルは肩を震わせながら、小刻みに息を吐き出し始めた。「袋の中の空気を吸え。吐いて、吸うのを繰り返せ」まるで軍曹の命令のような口調で言う覇王に従って、ユベルは必死に呼吸を繰り返す。そのうち楽になってきたのだろう、袋を口から離して、ぐったりした様子で「なに…今のなんなの…?」と覇王に尋ねてきた。覇王は目を伏せて、ふうと息を吐く。
「やはり無自覚だったのか」
「え、…だから、なにが、」
「発作だ。幼少時に受けた虐待の、後遺症だろう」
 全身を硬直させ目を剥いて見遣ってきたユベルに、「本当に自覚症状がないのかだけ試させてもらった。すまなかった」律儀にひとつ謝罪してから、覇王は昨日、ヨハンから伝え聞いた話をユベル本人に話した。ふたりが、こちらに転校してくるまでの間、実の親から暴力を振るわれていたということ。専ら暴力を振るってくるのは母親で、特にユベルは愛想がないだとか生意気だとかいった理由で何度も殴られていたということ。母親が鬼のようになってしまうのは主に父親がいない時で、父親の前では上手く体裁を整えているため、暴力自体の発見が遅れてしまったこと。離婚だとかそういった話も持ち上げられていたようだが、父親が母親のことを手放せなかったこと。だから、ふたりはふたりの意志で親元を離れて、誰にも頼らず、ふたりだけで暮らし始めたことなど。
「すべて聞いた。昔は頻繁に金縛りや過呼吸に陥っていたそうだな。だがここ数年はそういった症状が見られなくなったので、完治していたと思っていた、とヨハンは言っていたが」
「な…なんで。なんでなんでなんでなんで!?なんで、ヨハンっ、なんで話しちゃうの…あんな汚い話…よりにもよって覇王に…なんでっっ!!?」
「おまえを心配しているのだろう」
「余計なお世話だよ!!あ、ああああもうなんで…君も…そんな与太話、信じちゃう、の…?ああ、ああああああ、ああ、そう、そうだよ覇王、その話は嘘なんだ、全部嘘、嘘、うそ、うそ、うそ、うそうそうそうそうそうそ、うそだから、あはははは、信じちゃ、だめだ、って、」
「ユベル」
 半狂乱に陥りかけたユベルの名を低く呼ぶと、びくりと肩を震わせ次いで黙り込んでしまった。俯き、両腕で自分を抱きしめて、縮こまろうとする。まるで自分自身の体積を小さくしようとするように、ぎゅうと縮こまる。その様があまりに憐れで、覇王は眉間に皺を寄せた。ここまでだったのか、と思う。覚えていた違和感。無駄なテンションの高さ。空回り、自ら道化を演じようとするような態度。特にそれが顕著だったのは覇王の前でだった。もしかすると、ユベルの愛情表現とは、彼なりの訴えであり、彼なりの防衛策であり、とある意志の裏返しだったのかも知れなかった。覇王ははあと溜息を吐き、頭を抱えた。無様だった。こんなにも弱い存在が隣にいて、気付いてやれないとは。
「俺は嫌いな人間と行動を共にはしない」
 ユベルが恐る恐る顔をあげる。呆然としたような表情が、覇王に、ほんとう?、と尋ねてきていた。まるで幼い子供のようだと思う。自分の感情をコントロール出来ずに終始暴走している。覇王は子供を宥めるように、己が浮かべられる中で最も優しいと思われるぎこちない笑みを浮かべ、ああ、と言った。
「信じろ」
「…覇王、」
「いいな」
 視線を合わせて力強く諭してやると、ユベルも少し力を抜き「……うん。覇王がそう言うなら」と静かに呟いて双眸を細めた。
「よし。とりあえずその厄介なものを治すよう努力しろ」
「でも、僕、いつ何がどうなってるのかとか全然わからないんだけど」
「俺が傍にいてやる。それならば、何が起こっているのか自分でも自覚出来るようになるだろう」
 そう言った覇王の方を見て、ユベルがぱちぱちと瞬きをする。なんだ、と視線で尋ねると、急に破顔して、君のそれも無自覚なのかなあ、と嬉しそうに言った。
「やっぱり覇王はすごいよ。さすがは僕の覇王だね!」
「貴様の言っていることは訳がわからん」



2009.7.9





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