無機物の恒常さに付き合っていると何時の間にか無限大に時間が経過している。ぱっと振り返って見た窓の向こう側は既に薄っすらと白んでいて、どっぷりと黒く沈み込んでいた夜の時間の終わりと明るく無情なまでに輝かしい朝の訪れを告げていた。緩やかに線引きされている一日のうちのふたつの顔が入れ替わる時刻だ。俺は、ああまたやってしまったとひどく脱力しながら椅子の背凭れに体重を預けてひとつ溜息をついた。
「お疲れ様、ヨハン」
 夜中ずっとしていたヘッドフォンを外して首に掛け直していると、不意に部屋の扉が開き、片手にマグカップを持ったジムが入ってきた。ジムはさっぱりとした笑顔を浮かべて俺を見る。自分でも自覚出来るほど気だるげな表情をしている(であろう)俺と、ジムのその爽やかな笑顔はまるで正反対だった。いやに上機嫌なこの男は確か若干高血圧の気があり、もとい、両サイドから絶え間なく流れ込んできていたテクノミュージックから解放され現実の無音の空間に投げ出されると同時に睡魔に襲われ始めた俺が元来低血圧なのである。欠伸を噛み殺して片手を上げた俺の様子から男は俺の状態を察したらしく、満面の笑みを苦笑へと摩り替えさせると肩を竦めてみせた。ちかちかと目映い光を放っているPCのディスプレイに対して椅子ごと背を向けている俺の前を横切り、キーボードが乗っている本体用の台の付属品という形で右側に取り付けられていた棚の上に水色のマグカップを置くと、そのまま右手の壁側に設置されている幅広の机とセットになっている木椅子に腰掛ける。きい、と音を鳴らしながら木椅子を引いて、俺と向かい合う形になるように座り直してから、ジムは再度にっこりした。
 俺は溜息を吐き、マグカップに手を伸ばす。マグカップの横には深緑色のファイルと銀色のシャープペンシルが置いてある。あとはこのファイルに、先程まで作っていた資料をプリントアウトして纏めて綴じ込めば完成だ。漸く、厄介だった卒業研究から解放される。疲労しきった肉体に、珈琲の渋さがじんわりと染み入っていくようだった。喉を焼き、胃に落ち、食堂を回り、全身へと広がっていく熱が、張り詰めきっていた精神の糸を弛緩させていく。はあと深い深い溜息を吐いて僅かに俯いた俺の視界の中に、男の長い腕が入り込んでくる。骨張った指先が、ひょいとファイルを取り上げた。俺は顔を上げる。一歩も動かず軽々とファイルを腕の中に収めた男は、長い足を惜し気もなく組み上げてから、優雅にその表紙を開いた。男のひとつしかない瞳がぱちぱちと瞬かれる。暫くの間俺のファイルの中身を眺めていた男だったが、暫くするとふうと細い息を吐いてそいつを閉じた。俺はものすごく満足した気分になってにやりと笑った。自慢げに片手を差し出せば、ジムは苦笑し、首を僅かに左右に傾けてから俺の手にファイルを戻した。理解出来なくて当然だ。化石と戯れてばかりの男に、俺がコツコツと積み重ねていった研究の意図も結果も考察も簡単に読み解けるはずがない。
「熱心なのは良いことだけれどね、ヨハン、徹夜はよくないぜ?」
「わかってるよ。畜生、徹夜を一度もしなくていいような奴はいいよなぁ」
「よーはーん」
 窘めるような声と笑顔から顔を背けかけて、しかしふと思いとどまり、俺は俺自身が出来うる限りで一番の所謂「悪い顔」をジムに向けた。
「寝起きからしてキッツイ煙草吸ってるような不健康人間に言われたく無いぜ」
 ジムはまたもやひとつしかない瞳をぱちぱちとさせ、きゅっと眉間に皺を寄せた。その不思議そうな表情を見て俺は微笑を浮かべる。におう?、と訊ねられたので、うんにおう、と大きく頷いてやった。苦そうなにおいだ、と付け足した所、そっちのblack coffeの方が苦そうだ、と反論された。
「どっちが苦いかな」
「さあ」
「試してみる?」
「いいぜ?」
 ファイルとマグカップを棚の上に戻し、その隣に片手を突いて身を乗り出した。椅子からほんの少しばかり腰が浮く。正面から伸びてきた腕が俺の頬に滑らされ、僅かに上向けさせられる。俺同様上半身を乗り出させたジムが、そっと顔を傾け、半開きにしておいた口の中にそっと舌を入れてきた。確かめるように咥内をひと舐めしてからジムの舌が出て行ったのを確認して、俺もジムの口の中に舌を突っ込んでやる。しっかりとした頑丈そうな歯列をなぞり、下顎の上に溜まっていた唾液でぴちゃりと舌の表面を濡らして、最後に上顎のあたりをぺろりと舐めてから舌を引きずり出す。お互いに神妙な顔をして、舌の上に残る味を吟味する。俺は、いかにもといった煙たい味に思わず口をへの字に折り曲げさせた。
「苦い」
「そう?」
「絶対そう。珈琲の方が絶対甘い」
「あまい」
 ジムが肩を揺すって笑う。何事かと睨み上げるよりも早く、再度口付けられた。今度は遠慮も容赦もなくぐいぐいと舌を吸われたので、この野郎と思って前歯に前歯をぶつけてやった。それでも怯まずに俺の口を吸って、歯茎を舐めて、唾液を流し込んでと好き勝手して全く解放してくれる気配が無いものだから、俺は諦めて喉を鳴らしてそれを受け入れた。思えば、1ヶ月ぶりくらいになるまともなキスだった。どうやら目の前の男は溜まっているらしい。紳士的な顔をしているくせに、実際女の子なんかには紳士的態度であることで知られているくせに、その実こうだ。ケダモノめ。ギンギンに眦を吊り上げさせて睨みつけてやったが、嬉しそうに微笑まれて返されてしまう。毒気を抜かれる。肉体的にはこんなにも俺にあらゆるものを強いてくるくせに、精神的にはまったくそういった素振りを見せない。変に無邪気なところがまた厄介なのであった。
 すっかり力が抜けてしまった俺の身体を両腕で支えて、ジムはにこりとした。今度の笑みは、何処か意地の悪いものを孕んだ笑みだった。
「ヨハンの方が甘い」
「この野郎」
「論文の提出日は?」
 俺は腕を振り払い、ディスプレイに向き直る。画面に表示されたままになっていた資料本文をしっかりと保存し、プリントアウトする手続きまで済ませてから、何処か不満そうなぎらついた瞳でこちらを見詰め続けている男に「これ、印刷終わったらこっちに挟んで玄関にでも置いておいてくれよ。俺3時間くらい寝るから。もし3時間経っても起きてこなかったら、起こして」と乱暴に告げて、PCの電源を落とした。しっかりと出力が為されたプリンターが動き始める。ヘッドフォンを外し、左側の棚の上に置く。背後に歩み寄ってきた男には気付かぬフリをした。だが。
 扉を開けた時に、一度だけジムの方を振り返った。プリンターの用紙の受け皿に手を伸ばし、排出されてくる原稿を一枚一枚手ずから受け取り揃えている律儀な男に内心で呆れつつ、ひとつだけ伝え忘れていたことを口にした。
「本当は、こいつの提出は来週でも構わないんだ。だけど、早く終わらせたかったから、さ……だからつい徹夜しちまったんだよ!ああもう、今日は早く帰ってくるから、晩飯は任せたからな!」
「…ヨハン」
 蕩けたような声で名前を呼ばれる。耐え切れずきつく唇を噛み締める。二の句を継がせる前に、俺は素早く部屋の外へと出て、しっかりと、扉を閉めた。



2009.7.16





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