前後左右から押し付けられるむさ苦しい肉体たちに全身を圧迫され酸っぱいような不快としか言えない臭いに気道を圧迫される。俺は必死に身じろいでこの状況から脱しようとするが、ぴたりと背中に身体を押し付けられ、馬鹿みたいに発育しまくったがっちりとした体躯を盾に密やかにシャツの裾を引っ張られては、動くことさえままならない。身を屈めた俺の首筋に熱い吐息が吹きかけられる。あまりの気持ち悪さにぞぞぞと全身を総毛立たせ、息を呑んだところで左腕におぞましい感触を覚えた。俺は耐え切れなくなり、肉体と肉体の間の空間に自分自身の身体を割り込ませるようにして無理矢理に足を動かした。一歩二歩三歩、四歩五歩。じたじたと派手に足踏みをしたところで漸くホイッスルが鳴った。「そこ、トラベリング」無機質な声が俺の反則行為を指摘し、両腕の中に抱え込んでいたボールを相手側に渡すようにと指示してくる。俺はボールを乱暴にサイドライン側へと投げ捨て、残念そうに名残惜しそうにとろとろと離れていく男くさい肉体たちから逃げ出した。こんな状況でなければ、一対一であれば殴ってやっているところだが、さすがに自分より頭ひとつ分以上も身長が高い岩のような相手数人に立ち向かっていくのは愚行というものだ。下卑た笑い声をあげながら俺のことを指差し笑う奴らから目を背けてさっさと後方へと下がる。ゴール下あたりにまで戻ってきてからひそやかにため息を吐くと、気遣わしげな声が俺の後頭部へとかけられた。
「ごめん、俺全然役に立ててない…」
「Don't mind.これはお遊びだ、別にペナルティも無い。それよりも君のことが心配だよ」
 苦笑して肩を竦めた同居人の顔を見て少しだけ気分が楽になる。俺は応えるように薄っすらと唇に笑みを浮かべたが、すぐさまそれを故意に掻き消した。ほんの少しでも笑っている姿を見られれば、また何を言われるかわからないからだ。早くこの時間が終わればいいと思う。身体を動かすことは本来嫌いではないし得意なのだが、こんな最悪な状況下で運動をするなど冗談ではない。バスケをするなら、この同居人とふたりでずっと1on1でもやっていたい気分だ。
 やる気のない表情をした看守…レフェリーがホイッスルを鳴らす。と同時に、どすどすと地響きにも似た音をたてて、ボールを持った男がこちらへと突進してくる。ゴールではなく、俺、を目指してくるあたり本当に性格が悪い。このブタ箱にまともな人格者は同居人以外にいないのか、と思う。だけど、挑発を受け流すことが出来ない俺も大概なわけで、内心でこの野郎と思いながら相手に向かって特攻をかけに行ってしまう。憎んでも憎みきれない己の華奢すぎる体格に感謝するのはこの時ばかりだ。隙だらけな相手の足もとをめがけてタックルをするような動きで身を滑り込ませる。床と男の大きな掌の間で愚鈍に飛び跳ねているボールを掻っさらい、勢いを殺さぬまま横をすり抜けていく。走るのは得意だし、ドリブルも苦手ではない。だからこうして一度独走体勢になってしまえば容易に相手のゴールを狙える。普通ならば、そうだ。だが、このブタ箱の中が普通であるはずがない。
 俺は不意に真横に気配を感じ、反射的に右腕…ボールを持っていない腕を顔の前にあげた。次の瞬間、俺の身体は、思い切り床の上へと転がされていた。受け身を取ったとしても背中は痛い。咄嗟に目を瞑ってしまう、が、この判断は誤りだった。横から思い切りタックルを喰らわせてきた相手がそのまま俺の上へと覆い被さってきている。喉の下あたりに生温いやけに柔らかい感触を覚えて、慌てて眼を開けた。見れば、俺に飛びついてきた男が、ぶよぶよとした分厚い舌で、俺の首を舐めている。すん、と鼻を鳴らして臭いを嗅いでは涎を垂らす。そのあまりの気色の悪さに、俺は弾けたように抵抗を始めた。腕の中から零れ落ちたボールを自分のチームの他の誰かが拾い上げた姿が見えた。だがそいつは、同じチームの俺を助けるわけでもなく、そのままゴールへととろとろ向かい始めてしまう。目が合ってもにやりとされただけだった。この糞ったれ。胸中で盛大に罵るが、所詮心の声は相手には聞こえない。
 相手チームの他の4人までもがこちらへと集まってきている。まるで餌に群がるハイエナのように、俺の傍に立ち、圧倒的な体格差のせいでじたばたと両腕両足を動かすことしか出来ないでいる俺を見下ろしている。見世物にでもされているような気分だ。非常に不愉快だった。膝を振り上げて男の股間に叩き込んでやったのだが、気色の悪い歓声を洩らされただけでちっとも堪えている様子はなかった。誰かが「レフェリー!ファールだ!」と叫ぶ声が聞こえる。漸くホイッスルが鳴り、欠伸を噛み殺したような顔をしたレフェリーが俺の上から男を引き剥がした。
 アメフトではないのだから普通相手にタックルをかまして吹き飛ばしなどしたら悪質な反則を取られるはずだ。だが判定は、単なるブロッキング。進路を妨げただけ?明らかに横から倒しただろうが!と不当なジャッジに対する怒りがこみ上げてくるが、レフェリーは素知らぬ顔で俺にボールを渡した。睨みつけてものっぺりとした表情を崩さない。唇を噛みしめた俺を見て男たちがまたげひゃげひゃと笑う。何時の間にか傍らに歩み寄ってきていた同居人が、気遣わしげな眼で俺を見てから、そっとボールを掬いあげた。見上げた俺にゴール下を顎で指す。もうオフェンスはしなくていいということだろう。俺は力なく項垂れて再度ため息をついた。そんな時だった。
「よお。何楽しそうなことしてんだ」
 不意に、コートの上から低い声が届いた。同居人がバッと顔をあげ、小さな舌打ちをする。コート上にいた俺以外のやつらも目を丸くしながら頭上を見上げる。俺は背筋を滑り落ちていった悪寒と強烈な嘔吐感につまされて顔をあげることが出来ずにいたのだが、「ごきげんよう、お姫様」まるで何かの呪文のように、鼓膜を震わせた忌々しい言葉の文字列につられて虚ろな瞳をあげてしまっていた。そしてすぐさま後悔する。死にたくなる。
 コートから一階分高い位置にある出入り口付近に、例の男の姿があった。看守ふたりと、同室の男と並んでのご登場だ。同室の寡黙な男は、ざっとコート内を見渡してから、興味なさげに視線を逸らし、室内へと戻っていってしまう。恐らく主だった施設がある本館から牢がある別館へと戻ってくる途中のことだったのだろう、囚人たちを運動させるために後から作られたここの倉庫は連絡通路の途中に存在している。二階の手摺に獰猛な肉食獣のようなしなやかだがどこまでも絶対的な存在感を纏った肉体をしな垂れかからせた状態で、例の男はコートを見下ろしていた。思えば、奴の姿をあの部屋以外の場所で見たのはこれが初めてのことなのかも知れない。それは俺だけではなく他の男たちもそうだったようで、動揺がざわめきとして空間を走っていく。だがそれも、奴が、かつん、と高い靴音を鳴らしながらコートへと繋がっている鉄筋で出来た階段を一歩一歩降り始めたことにより強制的に掻き消された。
 まさか、と思った。奴のかかりつけであるらしい看守が一言諌めるような声をあげるが、ぎろりと睨みつけられただけで口を噤んでしまった。まったく腑抜けた看守どもだと思う。俺たちは奴が、一歩一歩、近づいてくる様を、固唾をのんで見守っていた。にやにやと厭らしい笑みを口に佩いた、このブタ箱における絶対的権力者であり、性格がねじ曲がっている集団の頂点に立つだけはある最強に腐りきった根性をしている男。奴の瞳はまっすぐに俺に向けられている。逃した獲物を執拗に追い回し舐る主義だとでもいうのか。ありえない。ふざけるな。隣に立っていた同居人が、俺の動揺を悟ったかのように俺の一歩前に出た。俺は同居人に顔を向ける。彼は神妙な顔で頷いた。
「おい」
 一気に不機嫌になった低い声が、びりびりと空間を震わせる。黒いタンクトップ一枚の両側から突き出した棍棒のような腕が、コート脇のベンチでたらたらと怠けていた相手チームのうちのひとりの胸倉を掴み上げる。掴み上げられ宙ぶらりんにされた男が、情けない悲鳴を上げたのが聞こえた。奴はどこまでも傲慢な態度でさも当然であるかのような調子で言い放つ。
「俺も混ぜろ」
 


2009.5.14
(りんねさんのお宅のブタ箱設定で。りんねさんの書く兄貴の恰好良さは異常)


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