(仮)佐和山荘の人々 | ナノ

#11 大家さんとの約束


「紅葉の秋ですね!」
「いやいや、食欲の秋だろい」
「えー、スポーツの秋っスよ」
「行楽の秋という言葉もありますね」

 テレビが付いた談話室でスケッチブックに落書きをしていると、ニュースキャスターのお姉さんが紅葉を背に元気良く話し始めた。それに私がうんうんと頷いていると、丸井さんがポテチを食べながら抗議し、それに切原さんが頬を膨らませ、柳生さんが話しに乗っかってきた。そんな四人でわいのわいのと騒いでいたら、切原さんの頭上に陰が差した。

「芸術の秋、読書の秋」
「ぐぇ!」

 座っていた切原さんの頭の上に両腕を置いて体重を掛けた大家さんが、不満そうにそう言った。それに柳生さんは深く頷き、たまに読書をしている丸井さんも「あー確かに」と相槌を打つ。けれど画集しか読まない私の視線は明後日の方向へ向き、それを目敏く見つけた大家さんが鼻で笑った。

「だからお前は馬鹿なんだよ」
「む、本を読んでもバカな人だって居るじゃないですか」
「おい、お前はなんで俺の方を見たんだよ」
「気のせいですよ丸井さん」

 やだなぁ、と誤摩化すと、丸井さんがポテチの空き袋を捻って丸めて私に投げつけた。ポテチだと思っていたけれど、よく見ると秋限定おさつチップスの袋だった。もうそんな季節か、と先日の焼き芋だらけの夕食を思い出す。

「そういえば」

 くるり、と柳生さんが向きを変え、大家さんの方へと顔を向けた。穏やかな笑顔を浮かべた柳生さんを見て、私と切原さんと丸井さんは首を傾げる。何か良い事でもあったのだろうか。

「読みましたよ、“水の都”。いやはや、幸村君の才能には驚かされますよ。最後まであのどんでん返しは思い浮かびませんでしたからね」
「またまたぁ、柳生ってば褒め上手だねぇ」
「いえ、柳君と真田君とも話していたんですよ。それに、挿絵も本の雰囲気を壊さず、より世界観を深く見せていますし…。やはり素晴らしいですね、“雪村精一”の作品は」
「え」

 コーヒーが入ったマグを持っていた手の力をうっかり抜きそうになり、それを見た切原さんが慌てて私のマグを掴んでテーブルへ置いた。ナイス反射神経!と大家さんが笑うのを見ながら、頭の中ではぐるぐると、白黒の挿絵と表紙に描かれた作者名が、螺旋を描きながら踊り続ける。

 白黒なのに、まるで色があると錯覚しそうになる、不思議な挿絵が付いた本。
 文章を読むのがあまり得意では無かった私に、パパが買い与えたその本の挿絵を、私は夢中になって何度も食い入るように眺めては、負けじと何度も絵を描いた。
 記憶の片隅の中の、色の無いメリーゴーランドが、淡い光を纏いながら、残酷なほど優しく私に問いかける。

 ―――どうして、

「…ちょっと、お話しようか」

 顔を上げると、何かを企んでいるのか、目を細めた大家さんと目が合った。そして背を向けて階段の方へと進んで行く。柳生さんが私の肩を叩き、目で付いて行けと視線を動かす。私は促されるまま、大家さんのあとをついて行った。

 私達と、談話室に居る三人以外は出払っているので、佐和山荘は二階から上はとても静かだった。元は旅館だったためか、廊下も階段も幅が広く、歩きやすい。
 大家さんが二階の階段に差し掛かったとき、手すりを撫でながら、内緒話でもするように口を開いた。

「ここは俺の祖父と祖母が経営していた旅館だったんだよ。二人とも優しくて、温かい人だった。毎年、俺の家族は夏と冬にここへ遊びに来て、1週間ほど過ごした。でも、俺が小学三年生の時に、ある事があって、俺はここに引き取られた」

 目を伏せて、大家さんは階段を上る。少しだけ、木が軋む音が響いて、それが、どう返事をしていいか分からない私の代わりに、相槌を打ってくれているように思えた。階段の踊り場の窓には、白色と薄水色と青色で出来たステンドグラスがはめ込まれていて、神聖な雰囲気がするこの場所は私のお気に入りでもあった。
 大家さんの髪が、そこから溢れた光を受けて、波を立てる水面のように淡く光る。

「三階が俺と祖父母と従業員の人の部屋だったんだ。丁度、君が今使っている辺りだね。改築する前は、あの辺りが俺の部屋だった。従業員の人が数人住んでいたから、もっと狭かったけれど。それに、祖父母が可哀想かと思ったのか、秘密の部屋を俺に与えてくれたんだ。小さいけれど、俺には充分すぎる場所だったんだよ」

 三階の、廊下の真ん中で大家さんが立ち止まった。丁度、私の部屋の前だ。大家さんが視線をあげて、私もつられてそこを見ると、小さな溝と、四角く切り取られた天井が見えた。前に一度見た事がある光景に、思わず声が漏れた。

「あ、」
「夏辺りに、君も上っていたね。あぁ、そこの棒を取ってくれるかい?」
「あ、はい。どうぞ」
「ん、ありがと」

 器用に溝に棒の先端を引っ掛けて、するすると降りて来る階段の手すりを持ち、少しだけ力を入れて、廊下へと下ろす。廊下の真ん中辺りの左半分が、ほぼ降りて来た階段で埋まり、私の部屋へ続くドアは遮断された。
 大家さんが、付いて来て、と言い残して、馴れたように階段を上って行く。覗くと、少し急な階段が暗闇へと誘うように顔を覗かせる。私も手を付いてあとに続いた。

 上った所で見えたのは、やはり段ボールで埋め尽くされた、迷路のような屋根裏部屋。夏に上った頃とは打って変わって、空気が冷たい。大家さんが屈みながら、私を手招いた。
 そこは、夏に見た小さな机と、作文用紙の束が乱雑に置かれた、少し開けたスペースだった。大家さんが机の前にある両開き窓を開けると、錆びついた音がしつつも、綺麗に開いた。
 埃が日の光に当たり、キラキラと輝きながら舞い上がる。
 大家さんは膝をついて、作文用紙の束の一つを手に取った。優しく埃を払い、パラパラと捲りながら、目線だけを私の方へちらりと寄越した。

「どうしてここへ連れて来たと思う?」
「どうして、って…」
「…君がここへやってきたのは、10ヶ月前くらいの事だったね。仁王の誕生日会をして、それから二日後。不二が深緑色のマフラーをしていて、相変わらず食えない笑みを浮かべながら、君の肩を抱いて、一緒に玄関へ上がったんだ」

 パタリ、と束を閉じて、脇へ寄せる。もう一束、表紙に不思議な花が描かれたものを手に取って、大家さんは数ページ捲る。そして、あるページで手を挟み、私の方へと向けた。

「君は、素敵な靴を履いていた。それから、真っ白な包帯で包まれていた。その、右手と、右目が。今でも鮮明に思い出せるよ。君が、ここへ来た時の事を」

 開かれたページには、“赤い靴”を履いた女の子が立っていた。普通のワンピースを纏った、普通の女の子。彼女の周りを金魚が取り囲んでいる。
 ぶくぶくと、腫れ物のようなものを顔いっぱいに付けた、醜い金魚。守るように、尾ひれで彼女を包みながら、こちらをじっと見つめている。けれど、女の子は上の空。白黒の空を、白黒の彼女は見上げている。

「俺は小さい頃、この秘密の部屋に閉じこもって、毎日歪な文章と、それから少しの絵を描いた。心の隙間を埋めるように、何枚も、何百枚も。そうしていると、時間が経っている事も忘れて、よく心配した祖父母に叱られたよ。でも、俺はそうしていないと、あの時の事を思い出しそうだった。必死に忘れようとして、でも忘れられなくて、繋ぎ止める方法は、これしか無かった。それなのに、俺は色を付ける事が出来なかったんだ。思い浮かぶのは、モノクロの風景ばかりで、色の付いている景色は片鱗さえも表さない。その度に絶望したよ」
「…だから、大家さんはモノクロの絵しか描かないんですか?」

 上擦った声が出た。手は汗ばんでいる。大家さんは私を見て、つい、と目を細めた。まるで、私の心を見透かすように、息を吐く。

「俺と君は似ている。だから、不二は君をここに寄越したんだろうね。はじめは、そんなあいつの思惑が気に入らなかったんだよ。でも、君はあの“赤い靴”を履いていたから、ね」

 大家さんが、私の右手の輪郭をなぞり、トントンと数回人差し指で軽く叩く。零れ落ちそうになる気持ちが、そのリズムで和らいでゆく。一人じゃないと、世界が私に語りかけてくるような、優しい音。
柔らかなまどろみがやってきて、瞼が落ちそうになる私を注意するように、こほん、と大家さんが咳払いをした。

「さて、と。俺の職業と正体も分かった所で、本題に入ろうと思う」
「本題?」
「ん。ここの段ボールにはね、俺が描いた絵と、文章と、それから読んだ本や漫画、画集がたんまりあるわけ。ここまでは良いかい?」
「はい、良いです」
「じゃぁ、君には俺の絵に色をつけて欲しい」
「へ?」
「何色でもいいよ。黒でも、灰色でも、白でも。君が思うように塗り絵をして、そうだね…三日に一回、最低でも週に二回、俺の所に持って来る事」
「あの、大家さん、私は!」
「もう10ヶ月も経ったんだ。そろそろ、過去の君を迎えに行ってあげなくちゃ。そうでないと、俺みたいに手遅れになってしまう」

 それではダメなんだ。
 そう言って、大家さんは冊子を数部、私の手に置いた。花の絵の表紙、鳥の絵の表紙、そして、私が好きなメリーゴーランドの絵の表紙……。

「君の好きな色で良い。見えない色が怖いなら、使わなくても良い。モノクロでも良い。けれど、これだけは忘れないで。俺の絵は、君を優しく包み込むくらいの包容力は持っているから」

 そう言うや否や、戸惑う私を置き去りにして、大家さんはそろそろと屋根裏部屋から出て行った。
 なんだったんだ、と思っていると、大家さんは忘れていた、とひょっこりと階段から顔を出して、この場所は好きな時に使ってくれて構わないから、と言い残して降りて行った。

 ゆっくりと辺りを見回すと、机の上に小さな写真立てがあった。中を覗くと、2人の大人と2人の子供が、仲睦まじく収まっている絵があった。タッチは大家さんのそれと似ているが、随分と稚拙なものだった。そこに映る人の表情も、どこかぽっかりと穴が開いているようだった。
 白黒の写真立てには、埃が被っていた。
 私はそれを数秒見つめ、渡された冊子を持って階段を下りた。


写真立ての中の絵には、丸くぼやけた模様が、点々と付いていた。



戻る