饒舌禍
case.5 金魚屋
※柳がちょっと酷い。間接的な性表現あり。
彼にとっては私を閉じ込めることなどいとも容易いのだろう。そうとは知らず、奔放に振る舞う私はどれだけ滑稽に映ったことか。何年も泳がせて、遊ばせて、時期が来た時のこと。私の住む小さな水槽を、愉快そうに叩き付けた彼の顔が、あれから五年経った今でも忘れられずに私を蝕む。
○
水槽のガラスを指で辿ると、餌を貰えると勘違いした金魚たちがひらひらと追って来る。愛らしいその動きに自然と目元が緩み、側においてあるクロッキーを寄せて右手でラフを描く。左手は絶えず動かし、動いている彼女達を絵にする。けれど、生き物特有の生々しい香りはしない。不気味なほど精巧に作られた人形に似ている彼女達は、そんなことにも気付かず、私の指を追ってゆらゆらと踊り続ける。
「なんだ、まだ居たのか」
四方を水槽に囲まれたこの座敷は、五十センチほどの段差がある。近所のコンビニまで出掛けていた柳さんは、靴を履いたまま入り口の開けた場所に腰掛け、近くにあった私のラフを手にとって眺めた。
「色付きは?」
「それは、あっち」
「そうか。何枚か貰っても?」
「どうぞご自由に」
「助かる」
A1サイズの画用紙をしまい込んでいるケースの中を物色し始めた柳さんから視線を戻し、ラフを仕上げるべく水槽を見つめると、甘い蜜に寄る蝶のように、一差し指に集まった金魚達がひしめきあっていた。
「ふっ、妬けるな」
「金魚にモテても仕方無いよ」
「男にはモテないのか」
「残念ながら」
「なまえの周りの男は見る目がないのだな」
ずっと私を選ぼうとしないくせに、よくその口で言えたものだ。
「そうかなぁ」
「あぁ」
何十枚もの金魚の絵を広げ、その中心で品定めをする目に引っ掛からずに私は一生を終えるのだろう。もうここは実力行使で押し倒してみるか、と考えてみたものの踏み出せず、あの赤を羽織ることも出来やしない。
成長期を終えてもなお、柔らかな曲線を描かない体が水槽に映る。いやだな、と目を瞑り、掻き消すように右手を動かす。丸みを帯びたからだ、うつくしい鱗、鮮やかないろ。私に無い魅力的な姿を持っている金魚達は、あの夜のことを鮮明に思い出させる。嫌だ、と奥歯を噛み締めて目を閉じる。それでも、揺らめくのはあの残像。じくじくと、神経が、思考が、侵され、溶かされ、嬲られ、破れ、ずるずるになったものが集まり、針で破れそうなほど薄い膜を張っただけの赤い肉腫になる。
「怖いのか」
鈍く瞳を光らせた柳さんの手が伸び、驚きのあまり肩を揺らして固まった私の顎を掴んで上を向かせる。その拍子に持っていた鉛筆が滑り落ち、紙の上に転がった。あぁ、嫌だ。この目が、私は心底嫌いだ。
「なまえ」
首筋に唇が触れ、鈍い痛みが背筋を走る。そんな気は皆無のくせに、彼は期待させるような素振りをして私をどん底に突き落とす。鬱血した首筋や鎖骨を見る度に、悲しくなるから止めて欲しい。そう、思っているのに。
「今日は満月だな」
耳元で囁いた柳さんは、すぅっと身を引き、何もなかったかのように選んだ絵を持って奥へと消えて行った。取り残された私は、縋るように色付いた紙を掻き集め抱きしめた。真っ赤な色彩に溺れるように涙を流すと、絵の具が溶けて淡く滲んでゆく。
○
狂ってる。本当に。
目の前で繰り広げられる光景を初めて見たのはいつだったか。遠い昔の事だったのだけれど、その時のことは不思議と良く覚えている。『柳の育てる金魚は、まるで花魁のように艶かしく色っぽいね』そう言って、妖しい笑みを浮かべた幸村さんの、言葉が、溶けて、編まれて、沈んで、浮いて。あぁ、なるほど、と腑に落ちたのだ。あれも、確か暑い夏の出来事で、月が手を伸ばせば届きそうなほど大きく浮かび、鈍く輝いていた。
満月は人を惑わす、と言った人も同じような気持ちだったのだろうか。今宵は満月。けれど、彼は私の手は決して引かない。毎回取っ替え引っ替えしているのに、よく五年以上も尽きないものだ。そろそろ私の番が来ても良いんじゃないかと期待するのを止めたのは、私の姉が彼に抱かれているのを見た時からだ。
美しい女の血で染め上げられたような、噎せ返るほど濃い色をした赤い着物を羽織って、彼の上で喘ぐ姉はいつもの姉ではなかった。普段頑に閉じられている胸を開き、眉を寄せ、足は絶えず痙攣し、首元で切り揃えられた髪は乱れ、丹念に塗られた紅は剥がれ落ち、嬌声を上げながら、金魚のように艶かしく揺らめく。水槽越しにその光景を見ると、まるで水中に閉じ込められる金魚姫のよう。恐ろしいはずなのに、吐き気と目眩で立っていられないはずなのに、嫌だと思うほど、泣きたくなるほど、目を逸らしたくなるほど、私の意思とは反対に目は見開かれ、その光景を閉じ込めようと脳髄が花開く。ぞわり、と首筋に何かが這って、そのまま指先へと信号を送る。筆を取れと、この光景を描かずにいてどうすると命令する。私はそれに逆らえず、涙を流しながら筆を取り、真っ赤な絵の具に浸した筆を、無垢な白い紙に這わせる。
そして、金魚の下にいる彼が、こちらを見てにやりと笑う。満足そうに小さく頷き、心底愉快そうに金魚を踊らせる。揺れる度に、着物の端が尾びれのように脈打ち、まるで生き物のように蠢く。恐ろしい。吐き気がする。涙が止まらない。皮肉なことに、そういった気持ちが強ければ強いほど、絵は素晴らしいものに出来上がる。それを自分で認めてしまっている以上、ここからはきっと逃げられないのだろう。彼の手の内からも、一生逃れられない。四方を水槽に囲まれたこの場所で捕まっているのは、満月の度に変わる金魚姫でもなく、ましてや私の姉でもない、この私の方なのだ。
○
「なぁ、この滲んでんのって、わざと?」
うなじに髪の毛が張り付いて落ち着かない。私の絵を一心不乱に眺めていた切原君は、あの一枚を手にとって滲んでいる箇所を指差した。こうやってみると、水に溶けて泡になりそうな予感がする。この子は人魚ではなく、金魚だけれど。
「まさか。うっかり水を引っ掛けただけ」
「ふーん。その割に良い塩梅なんだよなぁ、ムカつく」
「ふっふっふ。敬いたまえ」
「でもお前って、金魚以外空きしダメじゃん」
猫目が私の心の奥底を覗こうとする。その手には乗らない、と思いながら机の上にあった菓子カゴに手を伸ばす。置いてあったクッキーを数枚取って齧ると、仄かに抹茶の香りがした。それだけで、彼の気配を思い出してしまうなんて重症だ。
「良いよ、金魚だけ描ければ幸せだから」
「金魚と骨埋めんの?あいつら骨残んないんじゃね?」
「寂しかったら、道連れにすればい、い……し、」
「は?誰を?」
不意に口を突いた言葉に、私の方が驚いて目を丸くしていると、切原君は「何自分で驚いてんだよ」と笑っていた。けれど、私は笑い飛ばすことも出来ず、広げていた絵を纏めて漆黒のケースの中に手早く仕舞い込んだ。目を丸くして呆気に取られている切原くんに、お疲れ、と呟いて研究室を飛び出して走り出した。棟の外へ出ると、噎せ返るような暑さが身を包む。それなのに、背筋から凍ってしまいそうなこの感覚はなかなか過ぎ去ってはくれなかった。
○
好きで好きで好きで、ずっと好きだった。どうしてかは分からない。彼への想いは長い年月を経て、いつの間にか私の中に当たり前のように居座っていた。だから、それが無かったときのことを上手く思い出せないし、それが無くなってしまうことも想像出来なかった。
だから、どれだけ酷い事をされても、嫌いになることは出来なかった。どれだけ強い決心をしても、結局、彼の顔を見ると好きという気持ちが溢れてしまう。飼い殺されそうになっていてもなお、彼のために筆を持ち続けている。それなのに、どうして私は、彼を道連れにしようなどと思ってしまったのか。手に入らないのなら、いっそ、一緒に死んで欲しいと思ったのか、あの姉のように。
「どうした?」
「……え?」
「裾。掴んでいるぞ」
「あ、」
無意識に彼のシャツを掴んでいたらしく、指摘されて離すと力を込めていたせいか皺が寄っていた。それを見た彼の眉間にも皺が寄る。穴があいた金魚を見つけたときと同じ顔だ。ぼんやりとそう思いながら皺を見つめていると、柳さんは深い溜め息を吐いた。
「熱でもあるのか?」
「ううん、違うと思う」
「今日は暑かったからな。レモネードでも作ってやろうか?」
「ううん、いい」
指の感覚が溶けてしまいそうだ。白昼夢の中にいるみたいに、ふわふわとしている。そういえば柳さんも普段とは違ってやけに優しい。白昼夢の中に迷い込んだのだろうか。おでこに当てられた柳さんの掌は冷たい。水を触っているからだろうか、見た目に反して少し荒れている。
「おい、なまえ。どう見ても焦点が定まってないのだが」
「……ん、やなぎさん、」
「何だ?」
水中の中にいるみたいだ。乳白色の水が張られた鉢の中。ゆらゆらと泳ぐのは気持ちが良い。指先がゆるみ、胸骨が開く心地がする。口元から、今まで塞き止めていたものが、零れ落ちる、予感。
「やなぎさん、」
「だから何だ。はっきりと言えと、」
「すき」
吐き出した言葉は、泡になって宙に溶けてゆく。視界がゆらゆらと揺れている。水の中は世界が歪んで見えるのか。生き難い世界だ。こんな場所で、彼女達は懸命に生きているのか。鑑賞されることを生き甲斐にして、ゆらゆらと、ゆらゆらと。
難しい顔をした柳さんの顔が段々と近づき、目元に柔らかいものが触れる。
白昼夢の中の柳さんにはいつもの噛み付くような獰猛さはなく、優しさだけが溢れていた。
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