柳誕 | ナノ
単調な心音

case.4 調律師

 空気を引き裂く、銃声のような音がした。指先から彼に拒絶され、怒りに震える振動が伝わる。いくら防音をしているからといって、扱いが酷すぎたのだ。怒るのも無理は無い。一番愛おしい彼に拒絶された悲しみが反響した音を伝って遅れてやってくる。自覚したと同時に、冷や水を浴びせられた気持ちになり、着ていたTシャツを脱いで放り出すと、全身に嫌な汗をかいていた。まるで、悪夢をみて醒めた時のようだ。
「いや……悪夢、だ。あれは」
 仕事着の真っ赤なドレスはまだトランクの中に眠っている。早くクリーニングに出さないといけないのに、頭が回らない。何本もの酒の空き瓶が床に転がっているのが目につく。どれだけ飲んでも眠れなくて、ずっと弾きっ放しだったのだと漸く気付いて散乱している床から顔を上げると、時計の針は昨晩から一周していた。この時間なら多分あいつも起きてる。寝室に放り出してあった鞄の中から携帯を取り出し、数少ない電話帳の中から目当ての番号を探して通話ボタンを押すのと同時にベッドへダイブすると、優しいオルゴールのコール音が耳元で流れ始めた。
「……トロイメライ、」
 その優しい音色に張っていた神経が解れた。忘れていた疲れが一気に押し寄せて来て、睡魔の波に飲み込まれるように意識を手放した。


 飴色をした相棒は祖父から貰ったものだった。私は幼い頃からこの大きな相棒と一心同体だった。嬉しいときも悲しいときも眠れないときも、ずっと彼に寄り添って育って来た。言葉を交わさなくても通じ合えるのはとても楽だったし、嘘を吐くことが出来ないから素の自分を曝け出す事が出来た。心地良い信頼関係は、私の一番の財産であったと同時に、一番の枷でもあった。
「君がピアノを弾いている姿が、僕は一番好きだな」
 微笑みながらそう言ってくれた彼を見て、今度こそ上手くいくと思った。この人なら私の事を理解して包み込んでくれる、と。ピアノばかり弾いていて、他人との距離を上手く取れずにいた私に、彼はいつも微笑んでくれていた。だから、 

「……ピアノの、音?」
 ぼんやりとした視界に、白い天井が映る。窓の外は橙色が差していて、さきほどと違う色をしていることに驚いて体を起こすと、ドアの隙間から彼の音色が微かに耳に届いた。引き寄せられるようにゆっくりとドアに近づき、ノブを回すと、飴色のピアノの前に大きな背中が見えた。いつもしゃんとしている背中は、作業をしているせいですこし前屈みになっている。
「……や、柳?」
「起きたのか」
 ストライプのシャツの腕を捲った柳が、背を向けながら答える。どこか投げやりな音色を孕んだそれに少しだけ腹が立ちながら側に寄ると、仕事道具を持った彼が視線だけ私の方へ向けた。
「酒を飲むのは勝手だが、無言電話は止めてくれ」
「無言?」
「昼頃。掛けてきただろう?」
「そうでしたか?」
「そうだ。この酔っぱらい」
 眼鏡の奥で、柳の視線が鋭くなる。うっ、と言葉に詰まって踵を返すと、ポン、と調律中の相棒が柳に同調するように声を上げた。
「流しの側にサンドイッチを置いておいたから食べるといい。どうせ昨日からロクな物を食べていないのだろう?」
「…………ドウモ」
「あぁ」
 キッチンへ向かうと、本当にサンドイッチが置かれていた。中身を見ると、私が好きなものばかりが入っていた。冷蔵庫からレモン水を出してグラスに注ぐと、無意識に昨日のことをつい思い返してしまった。止めようと思えば思う程、それは鮮明な映像になって押し寄せる。側にある鉢植えからミントを千切って洗い、グラスに浮かべようとして持ち上げると、手が震えてグラスが床へ落ちた。盛大にガラスが割れる音が響き、怖くなって冷蔵庫に肩を預けると、後ろから大きな足音がやって来た。
「おいっ!」
 勢い良く腕を掴まれ、優しく手を包まれた。目の前の柳は気難しそうに眉を寄せて私の指をくすぐったくなるほど丹念に撫でる。ぞくりと首の後ろが泡立ち、気まずくなって視線を逸らすと、柳は深く溜め息を吐いた。
「傷付いたらどうするつもりだ、この馬鹿」
「……ごめんなさい」
「謝って欲しいわけではないのだが。何かあったのならば溜め込まずに言えと昔から言っているだろう?」
「……なんでもないし」
「言わないつもりか。なら当ててやろう」 
「は、」
「男に振られた、だろう?」
「な、」
「なぜ分かるのか、か?これだけ一緒に居れば分かるさ。あと、お前は言葉が拙い代わりに顔に出やすい」
 無傷なことを確認した柳は一度頷き、私の手を引いて立ち上がると、柳はリビングの方へ歩き出した。ドアを開けた先には、柳の仕事道具が散らかったままだった。いつも綺麗にしておくのに珍しい事があるものだ、と見つめていると、手を放した柳はそれらを手早く片付け、私の手をもう一度引いて相棒の前へ導いた。促されるまま椅子に腰をかけると、柳は後ろから右手を伸ばし、トロイメライのメロディーを軽く弾いた。元通りの音を奏でる相棒は、気持ちよさそうに撫でられる従順な犬のようだった。
「お前は感情を乗せるのが上手いとは思う。が、ピアノに八つ当たりをするのは良く無いな。お前が振られる度に何度も弦を切らざるを得ないこいつの身にもなってやれ」
「…………」
「返事は」
「はい」
「そういえば昨日は結婚式場で弾いたそうだな」
 トン、と柳の顎が肩に乗り、声の近さに驚いて避けようとすると、奴はそれを阻止するべく手首を掴んで、人の話しは最後まで聞け、と低い声を出した。
「新郎がお前の男だったのだろう?」
「な!」
「耳元で大きな声を出すな」
「んで……」
 振り向いて柳の顔を見上げると、奴は私を見たあと、首を傾げて小さく口角を上げた。その拍子にサラサラと髪が流れ、光が当たって飴色に見えた。
 そういえば、昨日の会場のピアノは相棒よりも小難しい奴で、上手く歩調を合わせられなかった。おまけに精神的なショックも手伝って、簡単な曲なのに手が上滑りしてちぐはぐな演奏になってしまった。けれど、主役は私じゃ無い。真っ白な服に身を包んだ幸せそうな二人を引き立てるだけの私を見てる人なんて一人も居なかった。だから、誰も気付かなかったのだろうけど。惨めで、悲しくて、息が上手く出来なかった。私のなけなしのプライドが、何やってんだと責め立てるのに、ひれ伏すことしか出来なかった。泣きそうになりながら弾いた曲は、新婦さんがリクエストしたメンデルスゾーンの「春の歌」だった。思い出の曲なんです、とはにかみながら言った彼女は、この曲のように可愛らしい、私とは正反対の人だった。こんな人に敵う筈なんて無かった。私が捨てられるのは当たり前だ。けど、ひとりにはなりたくないよ。なりたくない、の。だから、気付いて欲しくて感情に任せて激しい曲を弾く。口に出す事が苦手な私の、精一杯の喜怒哀楽を、誰かに伝えたくて、聞いて欲しくて、でも上手くいかない。誰も私の気持ちを見つけてはくれない。
「なんて顔をしているんだ」
「……うるさい」
「お前は本当に……あぁ、もう、泣くな」
 柳は昔から私に甘いと思う。本当に。乱暴に袖で涙を拭われるのを享受しながら、ぼんやりと柳の事を思い出していた。祖父の厳しいレッスンに泣きながらピアノを弾いていた私を宥めたり、コンクールの日に緊張で死にそうな顔をしていた私を元気付けたり、初海外で迷子になっていたところを助けてくれたり。思い返せば柳はいつも私の側に居てくれた。この相棒と同じくらいの時間を柳と過ごしていた。それなのに、どうして私は今まで気が付かなかったのだろう。
 ぎゅう、と背中に手を回して柳に抱きつくと、柳は呆れたように頭を撫でて、「大丈夫だ」と呟いた。何の根拠も無いくせに。そう思いながらも、不思議と心が落ち着いていくのが分かった。
「柳はスーパーマンだよ」
「唐突に何だ」
「私だけのね」
「……お前は本当に気付くのが遅いな」
「柳も、私と同じくらい、言葉が拙いね」
「ほう?」
 ぴくり、と反応をしめした柳が、体を屈めて私のおでこにぴたりと自分のそれをくっつけて、顔を逸らそうとする私の頬を両手で包んでそれを阻止して、小さな低い声でおい、と言った。
「誰が、誰と同じくらい言葉が拙いと?」
「い、いやぁ……ほら、あの、言葉のあやと言いますか、大した意味は無くてですね、」
「……ならば、態度で示せばいいのだな?」
「えっ、な、ん!」
 どうしてそこでキスをするんだ。信じられない。柳の行動に驚いて身を弾くと、肘が鍵盤に当たって不協和音が生じた。けれど、柳は止める気配は無く、寧ろどんどんと深くなるそれに息が浅くなり、堪えきれなくなって胸板を押すとやっとのことで柳は離れていった。
「……茹で蛸みたいに真っ赤だな」
「う、うるっさい!何で柳はそんなに平気な顔してんの」
「経験の差だろう」
「ムカつく!」
 でもキスしてる時の柳の心音は乱れてたよね、と言うとまた恐ろしいことになってしまいそうだから、口には出さない。
 そんな私の気も知らず、ふっ、と余裕そうに微笑んで私の頭を撫でる柳に少しだけ腹が立って、寄りかかるフリをして心臓に耳を近づけると、いつもの単調な心音に戻っていた。


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