鳴り止まない
case.2 殺し屋
面倒事というものはどうしてこうも立て続けにやってくるのだろうか。
「やぁ、蓮二。良く来てくれたね」
「予定が無かったからな。で、用件は何だ?」
思い返せば朝一番の精市からの電話から嫌な予感はしていたのだ。気に入っていたマグカップの取手が取れたことも、つい最近新調した靴の紐が切れたことも、自分と同じ色をした猫が道を横切ったのも、この状況に到るまでの伏線だったのかもしれない。どうしてこういう日に限って、言われるままにノコノコ出て来てしまったのか。あぁ、そういえば今日の最高気温は真夏日のそれだった。この異常なまでの暑さに神経がやられたのだ。あぁ、きっとそうだ。
「蓮二に折り入って頼みたい事があってね」
精市はいつもよりもシンプルな出で立ちをしていた。気に入っていた猫目石のネクタイピンも、譲ってやった大きな文字盤のある腕時計も、いつも欠かさずに身に付けているのに、この日はどちらも見当たらなかった。その代わりに、体の横に見覚えのない子供をくっつけていた。年は十くらいだろうか。精市の白いスーツとは対照的に、俺と同じ黒い服に身を包んでいた。それは精市の腰にしがみついて顔を埋めていたので、どんな顔をしているのかまでは分からない。耳元で切り揃えられた髪から伸びる細い首に、服の色と同じチョーカーが付いているのが目についた。
「少しの間……そうだな、一、二週間ほどで良いんだ。この子を預かってくれないかな?それで全ては片付くから」
そう言って精市は肩を竦めて眉を下げて微笑んだ。その表情に、何かよっぽどの事情がある事を察した俺は、肩を落として首を振った。
「拒否権は無いのだろう?」
「フフッ、どうだろう?」
精市に真っ直ぐに見つめられ、その期待を寄せる眼差しに俺は昔から弱かった。結局折れるてしまうのは俺の方だと分かっているのだから、こいつの確信的な素振りは尚のこと質が悪い。
「……はぁ。一週間だけだぞ」
「さすが蓮二!話しが早くて助かるよ。真田だとこうはいかないだろうからね」
嬉しそうに笑みを浮かべた精市は、軽く屈んで子供の肩を抱くようにして叩いた。子供は肩を揺らした後、ゆっくりと顔をあげた。内心可愛ければまぁ一週間くらい良いかと軽い気持ちで承諾したのだが、目が合った瞬間に見事なまでの仏頂面を披露されて口元が引き攣った。ここまで可愛気の欠片も無い子供も今時珍しいのではないか。子供はじっと俺を見つめた後、視線を右斜め下に逸らした。
「…………………………なまえ」
「…………おい、精市、」
「じゃ、よろしく頼むよ、蓮二!」
「おい、ちょっと待て」
「えー、今さら何言うつもりなの?男に二言があるの?無いよね?」
「急に態度がでかくなったんじゃないか?」
「大丈夫だよ、蓮二は真田と違っていざとなれば何でも器用にこなすし。それに、」
ぎゅっ、と足に何かが纏わりついた。何だと思って下を見ると、なまえの綺麗なつむじが見えた。右回りか、と余計な観察をしている俺の側を優雅に通り過ぎて出口に向かった精市は、ドアから顔だけを出して悪戯っ子のように笑った。
「気に入られたみたいだしね。じゃ、よろしく頼む」
「あ、おい!」
「…………れんじ」
慌てて精市の肩を掴もうと腕を伸ばし、一歩踏み出そうとした俺を遮ったのは、この愛想の無い子供、もといなまえの俺を呼ぶ声だった。
「…………何だ?」
「お腹すいた」
先程より少しだけ表情を崩したなまえは、腹を擦りながらそう呟いた。掴むものを見失った腕は暫く空中を停滞して、溜め息とともになまえのつむじの上に落ち着いた。窓の外から精市の愛車のエンジン音が高らかに鳴り響いて遠ざかっていくのが聞こえ、俺は観念してなまえの小さな手を恐る恐る握った。それには普段の生活には存在しない、不思議な温かさが宿っていた。
こうして、この無愛想ななまえと俺の共同生活は流されるように始まってしまった。
*
「…………………れんじ、」
「…………なんだ」
「いつもこんなの食べてるの?」
「文句があるのか」
ざくざくとケロップコーンフロスティーと牛乳が入った器にスプーンを突き刺しながら、なまえは眉を寄せて呟いた。どうやら三日三晩これなのは気に食わないらしい。けれど、これしか食料は無いのだから仕方が無い。
「栄養偏るよ」
「嫌なら食べるな」
「別に嫌なんて言ってないよ」
なまえは足を揺らして、スプーンを口へ運ぶ。気味が悪いほど血色の良い真っ赤な唇にコーンフレークのカスが付いているのが見えた。
「ここ、付いているぞ」
「……ん?」
「ん」
口元を叩いて知らせると、なまえは手の甲で乱暴に唇を拭った。子供らしい、と思いかけて、子供らしいも何もこいつは子供じゃないか、と思い直した。
たまに、子供ではない何かに見えるのは、あの頃の俺とこいつが同じ目をしているからだろうか。
「……今日もお仕事?」
「あぁ」
「なまえも行って良い?」
「ダメだ」
底に溜まった牛乳を飲み干すと、コーンフレークに付いていた砂糖が溶けたものが一緒に流れ込み、微かに甘い。美味いし栄養も取れて尚かつお買い得なこれに、こいつはどうして不満を持っているのだろうか。
なまえはツン、と唇を尖らせてそっぽを向いた。この次に繰り出される言葉に同じ返事をするのはもう三日目だった。いい加減飽きたな、と思いながら立ち上がると、案の定なまえは溜め息を吐きながら、ぼそりと、
「れんじのケチ」
と言った。この日は流石に本人も飽きてきたのか、子供らしい不貞腐れた表情もサービスしていた。
「ケチで結構」
「じゃあ、付いて行かないから教えてよ、人の殺し方」
なまえはスプーンを置いてじっとこちらを見つめていた。見覚えのあるその目の色に、俺は無意識に苛立った。まるで鏡のようだ。突き付けられる黒い目に、俺が歪んで映っているのが見えた。
「ダメだ」
「何で?」
「何でって、お前はまだ子供だろう」
「じゃあ、大人なら良いの?大人ならっ……!」
そこまで言いかけて、なまえは俯いた。いってらっしゃい、と小さく呟いた後、スプーンを持って機械のように牛乳とコーンフレークを口へ運び始めた。俺はそれに返事をせず、いつもの鞄を持ってドアを開けた。
**
あの出来事があってからというもの、標的に銃口を向ける度になまえのあの目が脳裏を過るようになった。恐怖に怯え引き攣る顔の背後で、なまえがあの目をして首を傾げている。俺はあいつを引き取った事を少なからず後悔しながら引き金を引く。その冷たい感触は死ぬまで取れそうにないほど体に染み付いていた。だから決して失敗はしない。しないのだが、精神が少しずつ乱されているのが自分でも手に取るように分かっていた。
「れんじ、」
「何だ?子供は早く寝ろ」
「……ん」
「………………おい、どうしてこっちへ来るんだ」
「……眠れないの」
先日せがまれて買ってやったテディベアを抱えて、なまえはそれだけ言うと、俺の了承も得ずにベッドへ潜り込んだ。読んでいた本を傍らへ置いて、なまえの足を引っ張って引きずり出そうとするも、小さい体のどこにそんな力があるのだと疑いたくなるほど頑にシーツを掴んで離さなかった。
「自分の部屋で寝ろ。そいつもいるだろう?」
「やだ。くまは喋らないもん」
「当たり前だ」
「れんじ、何か喋って」
「おい、こら、」
「いやだよ。……一人だと、灰色が追いかけてくるから」
なまえはクマの頭に顎を置いて俯いた。ここへ来てから何だかんだで言う事を聞いていたなまえがここまで頑に嫌だと言うのだから本当に嫌なのだろう。厳しくしなければとは思っているのだが、どうにも俺はこいつの寂しそうなオーラに滅法弱いらしい。
「………………今日だけだぞ」
「……ありがと」
そっぽを向いて言う事ではないのだが、と複雑な気持ちになりながら枕元の電気を消すと、なまえは抱きしめていたクマをベッドの端に座らせ、布団にもう一度潜り込んで俺の腰に腕を回してピタリとくっついてきた。暑いと言って引き剥がそうとすると、なまえは無言で頭を振り、離されまいと腕の力を強めたので面倒になってそのままにしておくことにした。
「ね、れんじ」
「さっさと寝ろ」
「今日読んだ本にね、良い場所があったよ」
「俺はもう寝るぞ」
「魚が光りながら泳ぐんだって。一緒に行こうよ」
「行かない」
「そこで、一緒に住もうよ」
「住まない」
「そうしたら、れんじは人を殺さなくて済むし、なまえもあの人のことは忘れられる気がするの。だって、そこは楽園だから」
なまえはもぞもぞと這って、布団から顔を出した。暗闇の中で俺と目が合ったのが分かったのか、腕を突ついて会話の続きを催促した。俺は面倒になって、話しを微妙に逸らしてしまった。遠くの方で雷鳴が聞こえ、なまえの肩が僅かに震えた。
「あの人とは誰だ?」
「……あの人は、」
その震えは、雷鳴の音に驚いたものだと思っていたのだが、なまえの様子がおかしい事に気が付いた。おい、と声を掛けると、なまえは小さく息を吸い込み、張りつめた水面のような声で呟いた。
「あの人は……なまえのパパとママを、殺した人」
「…………なまえ、」
「精市は、俺が何とかしてあげるって言ってた。でも、でも、なまえは!」
「なまえ」
捲し立てるように早口で話し始めたなまえの肩を掴むと、なまえは大きく肩を揺らして俺を見つめた。何て馬鹿な事を聞いてしまったのだろう、と後悔した時はもう遅かった。なまえの目は真っ黒なあの目をしていて、それを見たく無かった俺は小さな頭を引き寄せた。
「……もう良いから寝ろ。聞いてすまなかったな」
「ううん、いいの。……おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
体を小さく丸めて眠るなまえの姿に、昔の自分の面影を見た。精市が何故自分にこの子を預けたのか、薄々は気付いていながらも目を逸らしていた。こんなにも汚れた手を持ちながら、なまえと同じ場所に立つなんて虫の好いことは出来やしないのだ。
***
精市がなまえを預けてから二週間が経った。奴からの音沙汰は何も無い。
俺は仕事を暫く休む事にして、なまえが言っていた楽園を探す事にした。それから、なまえの両親を手に掛けた奴も探した。どうしてこんなにもなまえの事を考えて行動しているのか、自分で自分が理解不能だった。
前者はなかなか骨が折れたが、後者は呆気なく目星がついた。なまえが灰色が追いかけて来る、と言っていたのは、奴の服装のことだった。そいつはいつも灰色のスーツを着ていて、金さえ積めば一般人すらも手に掛ける、汚い鼠のような奴だった。誰だか判明したまでは良かったが、奴が今どこに居るのかは誰も知らなかった。
「れんじ、怖いかおしてるよ」
なまえは何かを後ろ手に隠しながら、机に体を預けて資料を見ていた俺を上目遣いで見た。出会った頃よりも表情の増えたこいつは、俺に絡んでくることが多くなった。懐くというよりも馴れ馴れしくなったに近いのだが、どうも邪険に扱えなくなりつつあった。
「……毎日お前が俺のベッドを占領するせいで寝不足なだけだ」
「えー、でもれんじのベッド大きいよ?」
「はいはい、そうだな」
「あとね、あのね、ホットケーキ作ってみた」
おずおず、と出された皿に乗っていたのは黒こげの丸い物体だった。これを食べるなら煙草を1カートン吸った方がまだ健康的だと思えるような代物だった。
「初めてだから、ママが作ってたみたいに上手くいかなくて焦げちゃったけど……」
ここで食うのを断れる奴が居るならお目にかかりたい。皿に乗っていたフォークを掴み、数枚突き刺して口に運ぶと、やはり見た目通り炭の味しかしなかった。不味い、とそのままの感想を告げようとした俺を見つめていたのは、緊張の色を滲ませた期待の眼差しだった。
「…………初めてにしては美味いんじゃないか」
「ほ、ほんと?」
「あぁ。……だが、今度は焦がさないようにな」
「うん!」
嬉しそうにはにかんだなまえの表情に内心動揺した。そんな俺の気も知らず、いそいそと空になった食器を流しへ運ぶ小さな背中は喜びを隠し切れずにいた。
捨てたはずの感情が、なまえのせいで戻りつつある。それに危機感を覚えつつも、押し戻すことは出来なかった。
「れんじ、今日は何時に帰るの?」
「六時頃だが」
「りょーかいです」
例えなまえが居なくなったとしても、元の生活に戻るだけだ。たったそれだけのことだ。失うものなど何もない。
****
「やぁ、蓮二。久しぶり」
思わぬ所で久しぶりに出会した精市は、白いシャツに赤いまだら模様を付けていた。点滴を付けるために捲っている腕から覗く肌は病的なほど白く、にへら、と笑ってやせ我慢をする精市に怒りが込み上げた。行き場のない衝動に思わず立ち上がると、丁度診察室から出て来た柳生が間をカルテで遮った。
「はいストーップ、柳君。言いたい事は山ほどあるでしょうが一応ここは病院ですよ」
「……お前、仁王だろう」
「何じゃ、もうバレたんか。……と、言いたい所ですが私は柳生ですよ柳君」
「蓮二はカッとなると回りが見えなくなる時があるからねぇ。そういう所だけが少し心配だなぁ。まぁ頭も腕も要領もおまけに顔もスタイルも良いから他はあんまり心配してないけど……あ、でも強いて言うなら三十路手前で女が居ないのも心配かな」
「……殺したのか?」
饒舌に話していた精市はピタリとそこで話しを止めた。柳生は察してくれたのか、それではまた、と言って白衣を翻し診察室へと帰って行った。それを見送った後、困ったように微笑んで俺を見上げた精市は窓の方へ顔を背けた。
「……ごめんね。あと一歩のとこで逃げられちゃった」
「どうしてお前が謝るんだ」
「あいつを殺せば、なまえが人を殺したいと願うのを止められると思ったんだ」
「一人で背負い込むな」
「だって、蓮二には関係無いだろう?」
精市の言うとおりだった。それなのに、部外者に分類されるとどうしてこんなにも腹が立つのか。どうして、なまえの顔が頭を過るのか。
「……俺がやる。奴はどこへ行った?」
「蓮二はこれ以上首を突っ込まない方が良い。俺だけでやれる」
「その体でか?」
精市は握り拳を作り、何かを言おうと身を乗り出したが、数秒睨み合うと盛大な溜め息を吐いてスーツの内ポケットから小さな手帳を取り出した。そこへ走り書きをした精市は豪快にそのページを破って突き出した。黙って受け取り目を通すと、記憶の端にある地名が引っ掛かった。この場所なら今から車を飛ばせば夕刻までには着けるだろう。メモに火を点けて手近なガラスの灰皿へ落とした。
「……なまえはどうすんのさ」
「元々精市から預かっていたのだから、返すだけだ」
「何か言いたい事がありそうだけど?」
「そうだな……ここへ、なまえを連れて行ってやってくれないか?」
さっきとは逆に今度は俺が精市へメモを渡した。同業者の足取りよりも苦労して見つけてきたそれを、精市は訝しげな表情をして見つめていた。
「…………何ここ。聞いた事無い島だね」
「人は住んでいるぞ。離島だが、暮らせない事はない。精市もしばらくそこにいるといい。俺も事が終わったらそこへ行く。そう、伝えてくれ」
「……分かった」
「すまないな、よろしく頼む」
「それはこっちの台詞だよ、馬鹿だな」
本当に馬鹿だよ、蓮二。
弱々しく呟かれた言葉を背に受けて、全くその通りだと小さく笑った。ドアノブに手を掛けて踏み出すと、今まで忘れていた気持ちがふつふつと沸き上がってきた。
何も怖くは無かった。人が一番恐れる死すらも。朝起きる度にまだ生きていたと他人事のように思い、自分が生きる為に冷たい引き金を引く。噎せ返るほどの生々しい匂いを嗅いでも、何も思わなかった。
それなのに、このままなまえと精市を連れて楽園へ逃げても良いのだと、逃げる事を考える自分が居た。大切だからこそ、失うことが怖くて仕方が無いのだ。もう会えなくなってしまったら、と考えると、焦燥感が胸中を閃光のように走った。
「馬鹿だな、本当に」
彼の声に答えるように、新調したばかりの靴が小気味良い音を立てて廊下を鳴らした。愛車のドアノブへ手を掛けて見上げた空は、憎らしいほどの雲一つ無い快晴だった。
その後彼の声を聞いたものは、誰一人居なかった。
*****
「ほら、頼まれてたやつ」
「ありがとー、赤也君」
積み上げられた箱の山に、少女は目を輝かせた。少年はカウンターに肘を付いて目を細め、いつも注文される牛乳パックをその隣に気怠そうに置いた。
「つかさ、んなもんばっか食ってっと栄養偏んじゃね?ただでさえ幸村さんもお前も病弱そうな顔してんのに。ちゃんと野菜食えよ」
「ちっちっちー。ケロップコーンクリスピーを馬鹿にしちゃダメだよ。これでもかなりの栄養が補えるんだから。しかも最後に残った牛乳が甘くて美味しくて二度幸せなのだ!」
「ふーん。つか、それ暑くねーの?」
興味が逸れた少年が指差したのは、真っ黒なチョーカーだった。離島の夏は本州よりも早く訪れる。既にタンクトップを脱ぎたいと思っている少年は、彼女の付けているぴったりとした装飾品が煩わしい物以外の何ものにも見えなかった。
「別に暑く無いかな」
「すっげぇ暑そうに見えんのに」
「見た目?」
「お前の服装が黒ばっかなのもな。太陽光吸収率すげーんじゃね?」
「いやぁ、それほどでも無いよ」
「褒めてねぇよ」
持って来ておいた大きな袋に山盛りの箱を詰めるも、三分の一ほどの量しか入らなかった。片道三kmの道をまた往復しなくてはならない、と悟ったなまえは顔を青くした。
「……こんな事なら意地を張らずに車頼めば良かった」
「幸村さん?」
「そうー。なんか、今日は大事なお客さんが来る、って言ってたから、じゃあ良いよって言っちゃって」
「へぇ、相変わらず顔広いな」
「ヤクザの親分だったからね」
「へー…………え?は!?あ?」
「じゃ、また残りは後で取りに来る」
「おい、なまえ!その話し詳しく聞かせろ!おい!」
最近どうにも口が軽いな、と右手で口元を軽く隠しながら外へ出ると、日の光が眩しくて目が眩んだ。なまえはぶらぶらと海沿いの道の防波堤を歩きながら、箱の入った袋を大事そうに抱えていた。たまに海の中の魚に見とれて落ちそうになったけど、こう何年も住んでいたらそうそう落ちる事はなかった。
鱗を虹色に光らせて泳ぐこの魚は、この島近辺にしか生息しない不思議な魚だという。傷付けると罰が当たると言われてが、大事にしているとその人が一番願っている願い事を叶えてくれると言い伝えられている。
なまえはいつものように袋の中の箱へ手を突っ込み、その中身をばらまいた。魚は甘いそれに飛びつき、鱗を光らせて食事を始めた。なまえは防波堤の上にしゃがみ込んでその群れの方を向いて手を合わせ、いつもと同じ願い事を心の中で反芻した。言い伝えなど1mmも信じていないが、何かに縋っていないと、足の先からぼろぼろと崩れてしまいそうだった。
「……………………れんじ、」
何度も呼んだ名前に答える声はなく、どんどんと遠く、他人行儀な響きが混ざるようになってきたと感じていた。彼が煩わしそうに私の名前を呼ぶ声は、耳の奥に張り付いて鳴り止まないのに。
「…………帰ろ」
アホらしい、と醒めた気持ちになって防波堤の上に立って歩き出すと、突風が吹いて髪が視界を遮った。足のバランスを失い、海の方へ体が傾いた。うわ、と半ば諦めて目を瞑ったと同時に、誰かが反対方向から手を掴んで押し戻してくれた。その時、瞼の裏に閃光が走り、目を見開いて引かれた手の方を振り返った。
「久しぶりに会ったというのに、酔っぱらっているのか?お前はまだ未成年だろう?」
相変わらず黒い服を着ていたれんじに良く似た人は、防波堤の上でしゃがみ込む私を見て仏頂面でそう言った。驚くほど彼と良く似た容姿をしているその人は、防波堤の下の道路へ落ちた箱を拾い上げ、握っていた袋の中に詰めてニヤリと笑った。
「お前も漸くこれの美味さが分かるようになったか」
「…………あのう」
「どうした?」
あぁ、馬鹿だ。期待が膨らみ心臓が鳴り止まない。涙が出そうなくらい感情が高ぶっていて、目の前の黒に今直ぐ飛び込んでしまいたかった。
「もしかして……れんじ?」
「……………………まさか忘れられているとは。その選択肢は想定外だった」
「本当にれんじ?本当に、本当に、本物のれんじ?」
「くどいな、本当に蓮二だが?」
「じゃあ、私の名前を呼んでよ」
きっと今、私は酷い顔をしているのだろう。視界は朧げで瞼が重く、黒がぐにゃりと歪んで見える。彼は握っていた手を放した。見放されたのだろうか、と悲しい気持ちになりかけた時、視界が黒一色に染められ、私は懐かしい彼の匂いと温もりに包まれた。あぁ、この感覚は、彼以外の何者でもなかった。他人でも夢でもない、本物のあのれんじが目の前にいた。
「……遅くなってすまなかったな、なまえ」
「遅いよ、ばか。…………おかえり、れんじ」
「……ただいま、戻った」
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