柳誕 | ナノ
夜光虫の花束


case.1 不思議な花束を作る人


 満員電車の中で窓に映る私を見て、あても無くどこか遠くへ行ってしまいたいと思った。何もかもを手放して軽くなった体で逃げ出したい、と。それは本当に、衝動、というものに近かった。

「……よいやみ、えき?」
 夜の帳が降りてくる直前、空が青く浸食される時間にそこへ辿り着いた。とにかく北へ東へと終点までの切符を買ってここまで来たけれど、その場所は聞いた事もない場所だった。湿っぽい、どこか薄暗い不思議な名前の駅を、携帯で調べてみようかとも思ったけれど、財布以外駅のゴミ箱に捨ててしまったのでそれは叶わなかった。履いていたヒールは踵が今にも折れそうで心許なく、澄んだ空気を吸い込むと遠い所まで来たのだと実感した。無人駅の柵に手を掛けて辺りを見回すと、遠くに一つだけ明かりが見えた。コンビニぐらいあるだろうと高をくくっていた私が悪かったのかもしれないけれど、日本にまだこんな場所があるとは考えもしなかった。どうしよう、と思いながら、柵から離れて駅の待合室へ入った。もちろん、誰もいない。明かりが点いているのが不思議なくらいだった。一体誰が点けているのだろう。ぼんやりとそんな事を考えていると、ぐぅ、と腹の虫が鳴った。忘れていた空腹を思い出し、小さく溜め息を吐いて背中を丸めて椅子に寄りかかった。特にやる事も無いので、瞼を閉じて、今日の出来事を思い出そうとした。
「……人、か?」
 カタン、と駅の引き戸が鳴り、顔を覗かせたのは背の高い男の人だった。驚きのあまり声も出せずにいると、彼は腕を組んで首を傾げた。不審者だと思われたのだろうかと焦った私は、彼にここに居る訳を話そうと思い腰を浮かせたけれど、それは叶わず、彼が持っているものに目を奪われて声も出せずに立ち尽くしてしまった。
「……おい、大丈夫か?」
 近づいて来た彼は、懐中電灯、ではなく、青白い炎のような光を放つ不思議な植物を持っていた。見た事も無いそれは、得体の知れないものなのに、不思議と怖くは無かった。それどころか、とても美しく、触れてみたいとすら思った。
「最近は無かったのだが……またか」
「え?」
「呼び寄せられるんだよ、たまに。困ったものだ」
「呼び寄せられる?何に?」
「これに、だよ」
 ふ、と目を細めた彼は、右手に持っていたそれを軽く振った。火の粉のように散ったそれは、重力に従って下へ落ちていくかと思いきや、ふわりと上昇してそのまま扉の外へ逃げていってしまった。遠くまで飛んで行く火の粉を見送りながら呆気に取られていると、ぐぅ、と忘れていた虫が腹を蹴って抗議した。その音の大きさに恥ずかしくなってお腹を手で抑えて俯くと、彼が小さく笑った。なんて失礼なやつだと思って奥歯を噛み締めてると、彼は「おい」とさっきよりも軽い調子で私を呼んだ。
「この辺りは俺の家しか無い。夕飯も食べて、明日の朝まで家で休むといい」
「いえ、そんな、悪いです。大丈夫」
「凍え死んでもいいのか?」
「え?だって、まだ夏が始まったばかりですよ」
「この辺りは夜から朝に掛けてかなり冷え込むぞ。氷点下を下回るくらいには」
「は、あ?」
「それでも良いなら、ここに居ろ」
 氷点下、という言葉に全く馴染みのない私は怖くなって思わず彼の服の裾を掴んでしまった。手触りの良いリネン素材のシャツはうすいクリーム色だった。優しい色だと思った。何だか、不思議とこの人は信じられるとそう思ってしまった。
「俺は柳だ」
「……みょうじ、です」
「そうか」
 それだけ言った柳さんとやらは、来い、と言って駅から出て行った。私も慌てて跡を追いかけると、彼は入り口の側で待っており、柱に手を伸ばして電気を切った。と、思ったけれど、私が電気だと思っていたものも、例のあの植物と生き物で構成されていた。彼が持っていた植物で器を撫でると、そこに青白い火の粉が映り、明かりになった。それを持った柳さんはゆっくりとそれを下に降ろし、足元を照らしながら、唯一明かりがあった方角へと歩き出した。
「そういえば、荷物は?」
「財布だけしか無いです」
 柳さんは、道が細いから気をつけるんだぞ、と言ったきり前を向いていたけれど、それを聞いた途端、立ち止まってわざわざ振り返った。訝しげに眉を寄せ、つま先から頭のてっぺんまで丹念に見た後、まさか、と言って目を細めた。
「……家出か?それとも夜逃げ?」
「違います!」
「違うのか」
「何残念がってるんですか」
「いや、別に」
「絶対面白がってるでしょ、柳さん」
「そんなことはないぞ、みょうじ」
 いきなり呼び捨てかい。そう思いつつも馴れ馴れしい嫌な感じはしなかった。不思議な人だ。


 夕食のカレーライスを食べて、空腹の虫をなんとか丸め込むことに成功した。幸せな気持ちになってぼんやりりていると、柳さんにコートを投げ渡され、バルコニーで待っていろと言われた。大人しく外に出てみると、本当に冷え込んでいた。確かにあのまま駅に居たら死んでいたかもしれない、と他人事のように思った。そういえば駅はどっちの方角だったっけ、と探していると、ここから少し離れた場所に大きな円を描いた青白い光が見えた。彼の持っていたあの光と同じ色だった。バルコニーの柵から乗り出して見入っていると、柳さんがやってきて、コーヒーの入ったマグカップを差し出した。お礼を言って受け取ると、彼は柵に凭れて、あれ、と光を指差した。
「あれは虫の集合体なんだ」
「へぇ……え?虫?」
「あぁ。……百聞は一見にしかずだな。ついて来い」
「あ、待って!」
 バルコニーから細い道が伸びていた。慣れている彼の歩くスピードは早く、見失いそうになった。ボロボロのヒールのせいで何度か足が縺りながらも辿り着いたその場所は、湖の畔だった。よく見ると湖をぐるりと一周して、あの光が揺らめいている。この世の物とは思えないほど美しいその景色に鳥肌が立った。
「き、れい」
「……死の匂いがするからだろうな。人はそれに惹かれやすい」
 しゃがみ込んだ柳さんは、身近にある植物を手折って光を掬うように動かした。まるで花火の火の移し合いのようで、懐かしい光景を見ている錯覚がした。
「この虫は夜光虫と言ってな。俺はここでこれを作っている」
「……虫を?作るの?」
「虫では無い。こっちだ」
 手渡されたのは、あの植物が編まれた器のようなものだった。どこかで見た事がある形だと思っていると、彼は私の手を上から握り、ゆっくりと虫の居る場所で動かした。すると、虫達はその器に集まり、花束を形作った。ゆらゆらと揺らめく花束は、不吉な、それでいて甘い、不思議な匂いがした。
「花束?」
「あぁ」
「これ、どうするの?」
「……どうすると思う?」
「……分かんない」
 質問を質問で返されてつい苛ついた声が出てしまった。バツが悪くなり俯いたけれど、柳さんは大して気にもせず、これは、と私の手を握ったまま、少しだけそれを揺らした。虫と言われてもイマイチ実感が湧かないのは、それが火の粉みたいな動きしかしないからだろうか。不思議と不愉快さを感じさせない。
「死者に手向ける花束だ。あちらの世界で迷わないように、という願いを込めてな」
「それは、ここの風習?」
「……どうしてそう思う?」
「だって、聞いた事ないもの、そんな素敵なこと」
「素敵、か?」
「うん、素敵」
「……そうか」
「ん」
 柳さんの手が微かに震えているのが分かり、どうしてこんな辺境の地で花束を作っているの、と気軽に聞く事は出来なかった。ただ、この炎のような花束を見ていると、明日からまた頑張れると、不思議とそう思う事が出来た。
「ここに連れて来てくれて、ありがとうございます」
「いや、礼を言うのはこちらの方だ」
「え?」
「なまえ、すまなかったな。もう、休むといい」
 柳さんにそう言われた途端眠気が襲って来た。まだ眠りたく無いと足掻いてみたけれど、どうしても逆らえない。ゆっくりと意識を手放す時に、ふわりと何かが瞼を掠めた。何かは分からないけれど、きっと彼の手だったのだと思う。そんな気がする。


 瞼を開いたとき、私は駅のホームの椅子に座っていた。時計を見るとまだ朝の八時だった。私は捨てたはずの鞄を持っていた。足元を見ると、ヒールはまだ生きていて、目の前では通勤ラッシュで膨れ上がった電車がホームを滑るようにして出て行った。
 あの出来事は夢だったのだろうか。現実味を帯びすぎていて、よくわからない。柳さんの顔を思い出そうとするも、ゆらゆらと青い炎が頭を過って邪魔をする。
 夢に半分足を突っ込んでいるようなふわふわとした感覚に戸惑っていると、左の指がきらりと光った。何だと思って見てみると、あの不思議な植物を象った指輪がぴったりとはまってそこにあった。まるで昔からそこにあったかのように堂々と存在しているそれの中央には、あの炎と同じ青い色の石が収まっていた。


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