3万御礼企画 | ナノ



※死ネタ注意




 持っていた腕時計が手から滑り落ち、鈍い音を立てた。しかし、柳はそれを拾おうとはせず、じっと左手首のある一点を見つめていた。心に穴が空く瞬間は、こんなにも突然にやって来るのかと、元の姿を取り戻した皮膚を、何かを探すように親指の腹で擦った。けれど、期待した物は跡形も無く消え失せ、あれはもしかすると幻だったのかもしれないと、少しの間だけ思った。それはきっと、本能による防衛だったのだろう。肺に穴が空いてしまったような、あの胸の痛みはもうたくさんだった。彼はじっと皮膚を見つめたまま、静かな喪失を享受していた。それは海に深く沈んでいくさまによく似ていた。


らかな世界のわり


 彼女と過ごした三年と四ヶ月は、決して穏やかなものではなかった。けれど、確かにそこには幸せがあった。みそ汁の味が濃いだとか、柔軟剤の匂いが気に入らないだとか、プラスチックの分別ができていないだとか、電球の買い置きがないだとか、そういう些細な事で喧嘩をしては、いつも三日以内には仲直りをしていた。
 あまり波風を立てずに生きて来た柳にとって、彼女との生活は毎日が嵐の中にいるようだった。もしかすると、彼女が嵐そのものだったのかもしれない。騒がしくて、煩くて、自分本位なのかと思えば、急に相手の事を考えたりする。そんな彼女が憎めなくて、愛おしかった。ころころと表情を変える彼女が、自分には無いものを持っている彼女が、大切で、誇らしかった。
 彼女の騒がしさや突拍子もない事は、大事な場面でも顔を出してきたので、いつも驚かされていたものだ。目を細めて、椅子に腰を掛けた。この場所はキッチンがよく見える。あぁ、そうだ。あの時もそうだった、と彼女のことを思い出しながら、柳は左手首をゆっくりと撫でた。

「蓮二、醤油小さじ何杯って書いてる?」
 小さじ用の計量スプーンに表面張力限界まで注いだ醤油を零さないように、真剣な表情をしてなまえが言った。たまたまコーヒーを淹れに来ていた柳は、側に置いてあった料理本を手に取り、指でなぞりながら、手順の項目を辿った。今日のメニューはどうやらふろふき大根らしい。コンロの上にある鍋の中で、ふつふつと輪切りにされた大根が踊っていた。
「一杯。それから、みりんと酒、味噌を入れ、その後に」
「えっ、待って待って!一杯……で、さとう?」
「みりんと酒と味噌だ」
「そんなに?」
「……きちんと読んだのか?」
「写真だけ……」
 予め量っておいて入れるだけにしておけば、調理中に慌てる事など無いのではないかと思ったけれど、バツが悪そうに俯くなまえを見ると何も言えなくなる。
 柳は小さく咳払いした後に、続けるぞ、と呟いた。
「みりんが大さじ四杯」
「……ん、おっけー。次は?」
「酒が大さじ一杯」
「はいっと」
「最後に味噌が大さじ三杯を入れ混ぜ合わせる」
「なるほど。ありがと蓮二」
「ところでなまえ、一つ聞いてもいいか?」
「はいはいなんでしょう?」
「これは最後でも良かったんじゃないか?」
 合わせ調味料を小気味良く混ぜていたなまえの手がピタリと止まり、動かなくなった。ゆっくりと柳の方を振り返ったなまえは唇を尖らせ、上目遣いというよりは睨むようにして彼を見た。
「……だって大根煮てて手が空いてたし」
「それでも大体どれくらいの分量なのか、少し読んでから始めればいいだろう?」
「良いじゃん、別に」
「あと大根も煮立たせすぎると崩れる。様子は見ているのか?」
「分かってますよーだ。君ってちょっと煩いところあるよね」
 君、となまえが柳を呼ぶときはいつも決まって苛立っている時だった。柳は親切心から助言をしているのにどうして腹を立てられなきゃいけないんだと思いながらも、それを指摘をしたらさらに面倒な事になることは目に見えていたので何も言わなかった。視線を逸らし、彼女の足元を見た。先程水を零した時に拭いた雑巾がそのまま放置されていて、もしも踏んでしまったら危ないだろうと柳はしゃがみ込んだ。

 なまえは踊る大根を菜箸で突つきながら、左手でコンロの火を止めた。半透明の大根は湯気を上げて静かになった。なまえは無言で鍋を持ち上げ、流しにあるザルにあげようと鍋を傾けた。すると、彼女の予想とは反し、勢い良く大根は鍋から転がり落ち、熱湯は大袈裟なくらい跳ね返って辺りを濡らした。驚いたなまえは反射的に手を離してしまい、鍋は彼女の手元を転がり落ちた。

 運悪く鍋は柳の左手首にぶつかり、それから床に落ち、鈍い音を立てて床に敷いてあったマットに焦げ目を付けた。なまえは一瞬何が起こったか分からずに放心していたが、柳が顔を少し顰めて流水に手首をあてるのを見て我に返った。冷凍庫から氷を両手一杯に掴み、彼の手首に押しあてた。真っ赤になっていた皮膚を見た彼女は堰を切ったように泣き出し、ごめんなさいを繰り返した。まるで叱られた子供だと思いながら、柳は大丈夫だと言って彼女の背中を擦った。これではどちらがケガ人か分からないなと、他人事のように、思いながら。
 ずるずると鼻を鳴らしていたなまえは泣き止んだかと思えば、急に立ち上がって自室へと消えていった。数十秒で帰って来た彼女の手には白い紙が握られていた。柳はアイスノンを火傷をした箇所にあてながら、何事だと彼女をじっと見ていた。なまえは彼の目の前にやって来た後、その紙を両手の人差し指と親指で広げて、座っている柳を見下ろした。

「蓮二を傷物にした責任は取るよ」

 婚姻届と左上に書かれたそれは、四つ折りにされていたのか十字の線が走っていた。あまりにも彼女が真剣な表情をしていたせいで、柳は思わず笑ってしまった。彼女は笑われた羞恥心からか、顔を赤らめてぎゃあぎゃあと何かを喚いていた。彼女の欄がすでに書き込まれているのを見て、狙って傷物にしたのか?と茶化すと、彼女は途端に眉を下げて悲しそうな顔をした。
「……蓮二を傷付けたくて、傷付けたわけじゃないよ。ちょっと、コレを出すタイミングを見計らってた所はあるけど」
 なまえはゆっくりと柳の手首をなぞりながら呟いた。柳はその表情に胸が痛んだ。冗談が過ぎたと思い、謝ろうとすると、なまえは額を手首にぴとりとつけた。氷が溶けた水滴と彼女の熱い涙が柳の手の上で混ざり合う。気にするな、と頭を撫でると、彼女は俯いたまま額を離し、彼の指を握った。
「私ね、蓮二の手が一番好き」
「どうした急に」
「ここには、蓮二の努力の跡があるから。決して侵すことの出来ない、神聖な生き物みたいに、柔く光ってるの」
 頬擦りをした彼女は、少しだけ微笑んだ。寂しそうな、嬉しそうな、複雑な色をした表情だった。
「でもね」
「うん?」
「少し、嬉しい。ここが消えない限り、蓮二は私を思い出すでしょう?」
 彼女の指はいつも少しの熱を持っていた。子供体温だとからかうといつもむくれていた。心が温かいからだよ、と言った彼女の顔は誇らしげだった。こんなにも思い出はあるのに。君の顔を直ぐにでも思い浮かべる事ができるはずなのに。
「いつでも思い出すさ。なまえの事を忘れられる筈が無いだろう」
 


 仏花の色が苦手だと言っていたなまえを気遣い、柳は花屋で目についた花とかすみ草で小さな花束を作ってもらった。ガサガサと揺れる度に、下向きにした花束から花弁が涙のように零れ落ち、殺風景な石畳に小さな彩りを添えていく。
 真っ赤なそれは、彼女の好きな花だった。噎せ返る程の匂いがするそれを、一輪だけでいいからとなまえは大事そうに生けていた。小さなクリーム色の部屋の中でそこだけが色付き、生きているように見えた。
 彼女は、あの出来事の三日後に倒れた。急いで駆けつけた柳は、彼女から受け取った紙に名前を連ね、ゆったりとした病院服を着たなまえに押し付けた。
 あの時、彼女は体の中で飼っていた嵐を手放してしまったのだと思う。
 柳の字で書き込まれた彼の名前を、なまえは満足気に撫でたあと、最後の力を振り絞って指で引き裂いた。目を見開く柳を他所に、なまえはベッドの上に散らばる細かくなった紙を掬いあげ、ゆっくりと手を放した。側にある黒いゴミ箱の底に、吸い込まれるようにして積もるそれを見ながら、柳は何も言わなかった。
 あの時、彼女は嵐を自身の手で葬ってしまった。彼の手首に傷跡を付けて、クリーム色と同化するように消えていった彼女を、柳はただ見つめる事しか出来なかった。ただ、見つめ、彼女の唇から紡がれる言葉を、記憶という箱の中に宝物としてしまい込むことしか。
 最後まで随分と勝手な奴だった。愛おしい人だった。許せなかった。まだしていないことが沢山あった。どうして消えてしまうのだと、怒りに似た感情が沸き上がった。しかし、それは寂しさの色をしていた。涙なんて出なかった。柳の代わりに、赤い花が涙のように花弁を落とした。血のような色だった。
「ねぇ、蓮二」
 嵐を手放した彼女が、残った枯れ木の枝で地面に文字を書くように呟いた。しゃがみ込んで地面に書く文字を、隣でしゃがみ込みながら柳が見つめた。相変わらずの丸みを帯びた、跳ねそうな字だった。そんな気がした。
「私が消えたら、毎年一度だけ、思い出して欲しいの。その火傷を見て、撫でながら、目を瞑って、私の顔は忘れても良いから、気配は覚えていて。それを思い出して。私も、蓮二の気配を覚えておくから。一年に一度だけよ。織り姫と彦星みたいに、素敵で特別な関係。それ以外は、この関係が途切れないように、新しく出来るであろう大切な人を想って過ごしてね」
 ユイゴンってやつだよ。彼女は最後にそう付け足した。彼女が言うと新種の怪獣のような響きをしていた。なまえが手を伸ばす。彼の手に触れる。引き攣った皮膚を撫でながら、目を瞑る。首を少しだけ傾けた彼女を愛おしく想いながら、柳はゆっくりとキスをした。彼女の指先は、熱を持っていた。頬はひやりと冷たかった。


 随分とロマンチックな話しだ、と言って微笑んだのは幸村だったか、それとも柳生だったか。昔の事を思い出しながら、彼女が眠る場所の前に立った。真っ赤な花弁がまた一つ零れ落ちる。手首を伸ばし、見せつけるように火傷があった場所を差し出した。しかし、やはりそこは、綺麗に再生されていた。それを見た時のなまえの表情を想像する。悲しむのか、笑うのか、怒るのか、寂しそうに眉を下げるのか、それとも。
「……俺がそちらへ行った時のお楽しみだと、お前は笑うのだろうな」
 目を細めて悪戯っ子のように笑う彼女の表情を思い浮かべながら、柳は花の包みを取って供えた。独特の高貴な香りが辺りを包む。はらはらと零れ落ちる花弁を一枚拾い上げ、手首に押し付けてみた。ぐにゃりと歪み、血管のような筋を浮き立たせながら、薄い赤い汁が付けただけだった。燃えるような色をしていても、実際に温度がある筈も無かった。皮膚が焼ける音も匂いもしなかった。
 柳は小さく笑った後、手首を戻して踵を返した。
 背後で、誰かの代わりのように、赤い花びらがはらはらと落ちていった。