「たとえばの話しなんだけど、俺がお嫁に行ったらお前は泣いてくれる?」 精市が薬指を見つめながら至極まじめな顔をして言ったせいで、その言葉を理解するのに三秒以上かかった。幼い頃はその見てくれの良さに女の子と間違われていたことが多々あったけれど、ここ数年でめきめきと身長も伸び、体格がたくましくなった彼を果たして誰が女の子と見間違えるのだろうか。本気で言ってるのか、それとも真面目に返答をした私をからかおうという魂胆なのか。じっとその端正な横顔を睨みつけても、振り向いた精市は余裕のある笑みを浮かべて首を傾げるだけだった。 「ね、なまえ。泣いてくれる?」 「どうして私が泣かないといけないわけ?」 「泣いてくれないの?」 「泣きはしない……と思う、」 ウェディングドレスを着た精市と白無垢姿の精市が、白百合の花束を持って佇んでいる想像をしながら、これは無いなと心の中で頭を振った。私の想像の中にいた精市がご丁寧に化粧までしていたせいで、がっしりとした肩幅と地味に鍛え上げられた筋肉さえ見せなければ、その辺の男なら騙されるかもしれない、という考えが過らなかったわけではないけれど、その想像と一緒にふと湧いた感情に少しだけ動揺した。 (精市を誰かに取られるのが嫌だなんて、) まるでお気に入りの玩具を取られたく無いと駄々をこねる子供だ。もうそんな事を言ってられる年ではないし、精市が気まぐれに女の子と付き合ってることも風の噂で知っている。相手が何組の女子なのかとか、どこでキスをしただとか、どこへデートに行っただとか、何をプレゼントしたのかとか、そういった細かい情報まで回って来るのはこの学校における彼の知名度のせいなのだろう。そういったことを知る度に、私の側に居た精市が急に知らないものに思えて怯えてしまう。彼が怖くて少しずつ距離を空けても、いつの間にか精市はその距離を知らんぷりして踏み越えて来る。幼馴染みというポジションにいけしゃあしゃあと収まって、何もなかったように私の名前をその柔らかな声で呼ぶ。 「なまえは泣いてくれないんだ?蓮二は泣いてくれるって言ってたのに」 「じゃあ結婚式には泣かない薄情な私なんかじゃなくて泣いてくれる優しい優しい柳を呼べば良いじゃない」 「どうしたの、なまえ。顔怖いよ。ゴジラみたい」 「誰のせいで……あと、私カネゴンのが好きなんだけど」 「ふっ、確かにあの間抜け面はなまえに似てるねぇ」 ふにふに、と躊躇いも無く頬をつままれ、彼の手が荒れていることに気が付いた。ポーチに手を伸ばして小さなチューブを取り出すと、精市はクスクスと笑いながら手を差し出した。 「匂いの無い薬用ハンドクリームを持ってるの、なまえだけなんだよね」 「随分と間接的に伝えて来るのね」 「なまえにだけだよ。他の女の子には伝わらないんだ」 精市の手は豆が潰れた後がたくさんあって痛々しい。きっと、人の何倍も何十倍も努力して来たのだと、想像するのは容易いことだった。けれど、彼はそんなことを主張することもせず、自慢することもない。凄いことをしているという自覚が無いのかも知れない。ただ純粋に、ひたむきに、真摯に、テニスに向き合う精市を小さい頃から見ていた私は、自分には彼のように打ち込めることが何も無いことを密かに恥じていた。だからかもしれないけれど、私は精市の隣に並ぶのが、未だに少し後ろめたくて恥ずかしい。 もしかすると、私が精市に距離を空けようとしてしまうのは、この劣等感のせいかもしれない。けれど、そんな私に精市が頼ってくることで、この嫌な気持ちが薄まっていくことも知っていた。 「はい、終わった。これからは自分で持っときなよ。使い差しだけど、これあげるから」 「ん、どーも。でもいらないよ。なまえに会いに来る口実にも出来るし」 満足そうに手を眺めていた精市が振り返った。目を三日月のように細めた彼に見つめられ、嫌な予感がして思わず後ずさると、精市は口角を上げてじりじりと距離を詰める。これではイタチごっこだ。観念して後ずさりをやめると、精市は、おや、と不思議そうに首を傾げた。 「なに、何なのいったい!何でそんな近づくの!」 「最近、なまえが遠くにいるような気がするんだ。けど、別に俺が嫌いなわけではないんだね」 「疑問系じゃないわけ!?」 「ふっ。なまえが俺のことが嫌いなんて言ったら、俺はお嫁に行く前にお前と心中するからね」 「……精市、心中の意味分かってる?相手の合意が無いとそれは無理心中って言って、」 「大丈夫だよ。なまえは俺のことが好きだし、俺はなまえのことが好きだから何も問題はない。そうだろう?」 「はぁ!?」 好き、という言葉に過剰に反応してしまい、つい大きな声が出てしまった。熱くなっていく頬を悟られないように、下を向きながら反論するための言葉を考えた。 「でも、私が精市のこと嫌いって言ったら、心中するんでしょ?矛盾してるよ」 「世の中矛盾だらけなんだから気にしてても仕方がないよ。まぁ、前提からして有り得ないことだしね、お前が俺を嫌いなんて」 「……なんで言い切れるの」 「なまえは俺を見る時、目の色が変わるってしってた?」 「なにそれ、そんなわけ、」 「あとね、頬に桃色が差すんだ。これは、言い逃れできないだろう?」 下を向いていた頬を包まれ顔を上げられた。「ほらね」と悪戯っぽく笑った精市の端正な顔が、ゆっくりと間近に迫る。けれど、金縛りにあったみたいに体が動かない。精市の手はさほど拘束力も無く、私の力でだって充分振りほどくことができた。でも、しなかった。本当はこうなることを、ずっと前から待ち望んでいた私がいることに、気が付いていたから。 指の先から頭まで痺れるような感覚に包まれて、唇に当たる柔らかな感触を享受していると、精市の瞳の中に映る、淡くとろけるような薄桃の色を宿した私の目が、見えた。気がした。 |