それは私にとって何よりも鋭利で、恐ろしい程の殺傷能力を秘めた言葉だった。 宝石を食べる金魚 「……どうした、人の顔をじっと見て」 柳君は不審そうに眉を寄せて、まとめていたプリントの端をホッチキスで束ねながら私の方をチラリと一瞥した。その、流れるような無駄のない所作に、溜息が漏れそうになるのをぐっと堪えた。 「……綺麗な顔だなぁって」 素直に思ったことを口にすると、柳君はさらに眉間の皺を深め、相手にするのも馬鹿らしいと言いたげに溜息を吐いて、たった今出来上がったばかりのプリントの束を白い山に積み重ねた。 本当は違う事を考えていたけれど、先程の柳君の姿に見惚れていたのは事実だった。初めて会ったときから、私は彼に心を奪われていた。まるでそうなることが当然だったように思える程、それは私の中へすとんと落ちて来て、心の大半を占領した。一日中彼の事を考え、一瞬でも姿が見れると、たとえそれが後ろ姿だろうが横顔だろうが浮かれるほど嬉しくなり、逆に会えない日はかなり落ち込んで未練がましく後ろを度々振り返りながら下校することもあった。 遠くから見るだけでよかった。あわよくばという気持ちは無かったといえば嘘になるけれど、彼には他にそのうち恋仲になるだろう噂されている人がいた。それを耳にした時はとても悲しかったけれど、彼が幸せなら、と見守る事を決めた。はず、だった。 「チューリップが今年も咲いたそうだな」 トン、と最後のプリントの束を整えた柳君は、背筋をピンと伸ばしながら表情を変えずに呟いた。彼の言葉が鈍くなっていた思考に染み渡り、こくんと首を縦に動かした。と同時に、今朝のあの出来事が、火花を散らして瞼の裏に鮮明に甦った。 「別れてよ」 そう言い捨てた彼女の目には、たった今踏みつぶされたチューリップの色と同じ真っ赤な炎が揺らめいて、風に靡く髪は生き物のように蠢いていた。まだ静けさの残る、澄んだ朝の匂いとは不釣り合いなその雰囲気に気圧され、如雨露を持ちながら呆然と彼女を見ると、それが気に障ったのか、今度は黄色のチューリップが踏みつぶされ、伸びて来た右手にネクタイを引かれた。驚きのあまり手を離してしまった空の如雨露が、虚しい音を立てて落ちる音が聞こえた。 「聞こえてるんでしょ?そうやって言い返さないし抵抗もしないのが聞き分けの良い良い子ちゃんだとでも思ってるの?ばっかみたい。単刀直入に言うけど、アンタのせいで柳は最近笑わなくなったし、生徒会での付き合いも悪くなった。それに無理してるようにも見える。彼女のくせに、そんな事にも気付けないの?」 少しだけ閉まった首元を、彼女のとは違う力がじわじわと締め付けてるみたいだった。私の揺らいだ目を見た彼女は鼻で笑い、優越感を含んだ声で私の心を刃物みたいに鋭い言葉で突き刺した。 「彼女失格なんじゃないの。どう見ても、あなたじゃ柳に釣り合わない」 その言葉はじわじわと毒が回るように体内を巡り、気付かなかったのかと指摘された彼の硬い表情や、付き合って一ヶ月が経とうとした今でも絶対に私に触れない彼との時間を過ごした事を思い出し、それはじわりじわりと痛み出した。私の顔を見て勝ち誇ったように笑みを浮かべた彼女は、言い返す事すら出来ない惨めな私の影を踏んで去って行った。 「待たせてすまなかった」 委員会の仕事が一段落した柳君が立ち上がり、私も鞄を持って立ち上がった。いつの間にか生徒会室は茜色に浸食されつつあった。 帰り道を並んで歩きながら、いつものように一定の距離を保つ影を見つめて、気付かれないように小さく息を吐いた。本当は手を伸ばしたいけれど、手を振り払われたらと思うと怖くて仕方がない。本当に私が彼女で良いんだよね、と確かめるのも、否定をされるのが怖くて言い出せずにいる。けれど、今朝の彼女が言う通り私が彼の負担でしかなっていないのならば、早く別れた方が良いと頭では理解も納得もしていた。ただ、心がそれに追いつかなくて、気持ちが宙に浮かんだままだった。「またな」と言って何もせずに駅で別れる柳君の背中を、姿が見えなくなるまで見つめていた。 どうすれば良いんだろう、と不安が駆け巡りよく眠れなかった。けれど何もしないとどんどんと暗い方へ考えてしまいそうで、いつもより早く花壇へ行って、水やりの準備をするべくホースと如雨露を倉庫から出して運んでいると、目の覚めるような鮮やかな黄色が花壇の前に佇んでいた。風を孕んで靡くジャージの裾で、それが幸村君だと遠目からでも分かった。 「随分と重い猫が通ったようだね。ダイエットの必要がありそうだ」 踏みつぶされたチューリップを悲痛そうに見た後、困ったように微笑んだ幸村君に何も言えなくなった。早く他の場所へ移して目に触れないようにしておくべきだったのに、昨日の私は何をしていたのだろう。 「それにしても、今日は早いね。蓮二には会ったかい?」 「……ううん、まだ。柳君ももう来てるの?」 「うん。さっき部室の前ですれ違ったから、もうじき来るんじゃないかな」 幸村君は目を伏せて踏みつぶされたチューリップを撫でた後、そっと土を掻いて球根を出し、労るように両手で持ち上げて私に手渡そうとした時、幸村君はぎょっとした顔をした。 「何かあったのかい?それともどこか痛いの?」 「え?どうして?」 「どうしてって……」 困惑した表情をした幸村君は、ジャージのズボンで指に付いた土を払い、私の目元に手を伸ばした。優しく掬い取られたのが涙だったのだと気付くのにそう時間はかからなかった。 朝の湿った土の匂いに涙腺を刺激されたのだろうか。それとも、横たわるチューリップが昨日よりも黒ずんでいた事が悲しかったのだろうか。どちらも正解ではない事を知りながら、ひっそりと柳君の事を想った。 愛しさと痛みが入り混じり、心の中を掻き回す。それに呼応するように、涙が溢れて来る。どれだけ拭っても止まらない涙を、何も言わずに見て見ぬフリをしてくれる幸村君が有り難かった。 「精市と……みょうじ?」 「あ……蓮二、」 聞こえた声に驚いて肩が不自然な程大きく揺れた。いつもの不機嫌そうな表情をしているのだと、声だけで容易に想像がついてしまい、振り返るのが怖くなった。 「みょうじさん、ちょっと目にゴミが入っちゃったみたい。水場まで連れて行ってあげて」 「……そうか、分かった。迷惑をかけたな」 「そんな事はないよ。じゃ、真田には俺から言っておくから」 トントン拍子に進む会話に固まっているうちに、拉げたチューリップを見えないように後ろ手に隠した幸村君は去ってしまった。代わりに近づいて来た柳君の影が足元に映り込み、滲む視界の中で白いシューズの輪郭が淡く揺らめいた。 「……ゴミ、か」 ぽつり、と呟いた柳君の声は薄らと影が差していた。涙を拭っていた方とは反対の手首を掴んだ柳君は、そのまま無言で歩き出した。私は顔を上げる事が出来ずにそれに従い、ただ過ぎ去る地面の模様を見つめていた。 足を止めた場所は水場なんてない体育館横のベンチの側だった。腰を下ろした柳君が隣を叩き、私も腰を下ろすと肩が触れ合いそうになる距離の近さに呼吸が浅くなった。 「何かあったのか」 柳君はいつもの淡々とした声をしていた。義務的な色を孕むそれに、言葉が詰まって息を飲んだ。何度も言えずに飲み込んでいた言葉を吐き出す勇気はまだ足りない。 「……精市には言えて、俺には言えないのか」 その声に驚いて顔を上げると、柳君と今日初めて目が合った。たった一日、それだけなのに、何故だか凄く懐かしく感じた。 彼は私の顔を見た後、不機嫌そうに眉を寄せてポケットからハンカチを取り出し目元にあてた。その所作は、不機嫌そうな顔と声とは裏腹にとても優しいものだった。 「……泣きたいのはこっちの方なのだが」 短い溜め息を吐いた後に降ってきた彼の声の弱々しさがとても愛おしいもののように思えた。 「……柳君」 「なんだ」 「私、柳君のこと、好きだよ」 「……あぁ」 「だから、手を繋いだり、したいなぁって」 「……そんな事で泣いていたのか?」 「うん」 「そう、か」 どこかホッとしたような、気の抜けた声で言った柳君はいつものように眉を顰めたと思えば、彼の指が私の指の間を割って入り、包むように丁寧に指を折り畳んだ。想像していたよりも高体温な彼の手に握られ、毒素のように纏わりついていた不安がたちまち霧散していくのを感じた。そうして最後には、彼に対する愛おしさが残った。 つい嬉しくなって彼の方を見つめると、見るなと言って顔を逸らされてしまった。仕方無く肩に頭を預けて見上げると、そっぽを向いた柳君のほんのりと色付く耳が見えた。 |