07
ざわめきが遠くに聞こえる。ざりざりと耳障りな音が嫌で、しゃがみこんだまま両手で塞いだ。両手の指に髪が茨のように絡み付き、このまま全部閉じ込めてくれればいいのにと思った。もう私には何もない。蓮二くんと私だけの小さな世界すら壊れてしまって、私はどこに帰ればいいのだろう。
「何しとるん」
突然視界に現れたのは、温かそうなダッフルコートに身を包んだ仁王君だった。しゃがみ込んで顔を覗き込んだ彼は、当然のように私の手を包み、耳から引き剥がすように下ろした。呆然とする私に、彼は小さく息を吐く。魂みたいな白い息が漏れ、仁王君は私をじっと見つめた。
「…帰らなあかんよ」
どこへ、と口を動かしたけれど、さっきみたいに声はでなかった。ただ、空しく口が文字をかたどるだけ。けれど仁王君には伝わったようで、彼は私の手を赤ちゃんの手を握るように、ぎゅっぎゅと握りながら、あやすように少し振った。
「おまんがあいつの元を離れる気がないなら、知らんフリをして過ごすしかない。今日あった事も、見た事も、全部。あいつに気付かれんように今まで通り振る舞えば、まだ壊れんよ。まだ、帰れる」
そう言って仁王君は瞼を閉じた。街灯が彼の髪を照らし、応えるようにぼんやりと光る。
「ただ…」
手を引かれ、両手を合わせて挟まれる。目を見開いて仁王君を見つめるけれど、彼の瞼は閉じたまま、私を見ようとはしなかった。いつかの図書館で会った彼が、静かに重なる。
「もう、あいつを好いたらあかんよ。これ以上好いたら、もう戻れん。……気付いとるんじゃろ?」
見透かされたような声の温度に指先が震えそうになって、逃げるように手を引くけれど、仁王君は放してはくれず、薄らと目を開いて私を見た。その行為は、逃げるな、と怒鳴られるより遥かに効果があった。息が止まり、腕からだらりと力が抜けた。抜け殻みたいに暴れるのをやめた私の手を、仁王君は確かめるようにぎゅっと握りしめた。まるで、私がここに居ると言いたげに、力強く。
「……帰りんしゃい。あいつもなまえのことを待っとうよ」
その声の温度があまりにも優しすぎるから、私は何もかもを投げ出して泣いてしまいたくなった。
仁王君に手を引かれて、家の前まで帰って来ると、私の気も知らずにエントランスは煌々と光っていて、こっちへおいでと私を手招く。不安になって隣の仁王君を見上げると、彼は小さく口角を上げて、持っていたパン屋の袋を差し出した。
「そんな不安そうな顔せんでも大丈夫じゃ。おまんならできる」
ぐしゃぐしゃと髪を撫でられて、眉を下げた。俯いて享受すると、仁王君は私の頭を両手で包んだ。エントランスの光りで伸びる私達の陰が重なっている。
「……俺も、付いとる」
聞き逃してしまいそうな小さな声は、けれど私にしっかりと届いていた。顔を上げると、何を考えているのか分からない仁王君の顔が映る。どうしてそこまでしてくれるの、と問いたくなって、携帯のメモ帳を開こうとする私の手を、仁王君がやんわりと押し止めた。
「また、今度な」
ぐっ、と私に携帯を押し付けて、仁王君は踵を返した。暗がりに溶けるように消えて行く背中が、どこか寂しそうに見えたのは、私が寂しいからだろうか。
携帯の画面に視線を落とすと、新着メールが三件着ていた。10分おきに届いたメールの中身は、開く気にもなれなかった。そっと携帯を閉じてポケットに入れて、光の中へ足を踏み出した。
玄関で私を出迎えた蓮二くんは、いつもと変わらないあの笑顔で、私に微笑みかけてくれた。私は痛む心に蓋をして、にっこりと笑顔を作った。ただいま、と口を動かすと、蓮二くんは静かに頷いた。
「おかえり、なまえ。制服はあるのにお前が見当たらなかったから心配したんだが…。あぁ、そうか。パンを買いに行っていたのか」
私の手元を覗き込み、そっとパン屋の袋を掴んだ。手を洗っておいで、と言われて、コートとマフラーも外される。大人しく洗面所に向かい、水を出して目の前の鏡を覗き込むと、いつもの顔をした私が居た。その目を見つめて、大丈夫、と心の中で唱える。並んだ歯ブラシも、私の髪ゴムの束も、ちゃんとここにある。
鏡の中の私の頬に触れると、つぅ、と泡を孕んだ液体が伝った。
「朝の会議が無くなってな。暇になったからクリームシチューを作っていたんだ」
カチカチとコンロの火を点けながら蓮二くんが言う。彼の背中に、相槌を打った。ランチョンマットにスプーンを置きながら、コップに水を注いだ。クリームシチューを盛った器が、彼の手によって机に置かれる。その拍子に、シャツの袖からチラリと赤い模様が覗いた。ケガだろうかと心配になって手を伸ばそうとすると、それに気付いた蓮二くんが、そっと腕を引いた。
「少し、虫に噛まれただけだよ」
先程薬も塗ったし、大丈夫だ。そう言って席に着いた蓮二くんに何も言えなくなり、伸ばした手を引いてスプーンを持った。手を合わせて、少しだけ頭を傾けた後、シチューに手をつける。同じようにシチューをスプーンで掬った蓮二くんは、いつものように私に声を掛けた。
「美味いか?」
私は頷きながら、じっと無害そうな白い液体から目を逸らさなかった。
「そうか。良かった」
そう言った蓮二くんの声はいつも通りで、心の中で、嘘つき、となじった。白いシチューとは反対にドロドロと黒ずんでゆく私の心の変化に、蓮二くんは気付かない。
いつもなら美味しく感じるシチューも、今日は全く美味しく無かった。吐いてしまいたかったけれど、そんな事をしたら崩れてしまう。危ういバランスで崩壊しつつある天秤の傾きを、自分で突つきながら調整する私はとても滑稽だ。それでも、まだ側に居たいと願ってしまう。
「パンも美味し…」
おかわり用に置いてあったパンに手を伸ばした蓮二くんがハッとしたように手を止めた。けれどそれはほんの一瞬の事で、うっかりすると見逃してしまいそうなほど些細な出来事だった。私が表情を変えずに蓮二くんに首を傾げると、彼は取り繕ったように微笑み、何でもないと首を振ってパンを一切れ取った。私も不審に思われないよう、星形にくり抜いてある人参を掬った。
沈黙が続く食事は、いつからだったっけ。昔は学校であった事や新しく出来たお店の事、友達に教えて貰ったアイドルの事、服の事。何でも蓮二くんに話したくてたまらなくて、食事の時間も煩い鳥みたいに喋り続けた。口に物が入っていないときは、ずっと喋り続けていた。蓮二くんは相槌を打つ事が多かったけど、今よりももっと素敵な笑顔で笑っていた。たまに口を挟んで、また相槌を打って、笑う。私は蓮二くんの笑顔が好きで、面白い話しを聞き逃してしまわないように頭をフル回転して友達の話しを聞いていた。
なのに、いつの間にこんな隙間ができてしまったのだろう。
思い出そうとしても、もう思い出せない。
秘密を覆い隠そうと氷付けにしてその上に立っても、足元は刺すように冷たくて心許ない。中身が詰まり過ぎた氷は、段々と薄くなってヒビが入る音がしている。
無機質な、悲鳴みたいな、金属的な音。
―――私の分身。
「なまえ、来週の事なんだが、」
カチカチと底に当てていたスプーンから顔を上げて蓮二くんを見ると、彼は言い難そうに眉を下げて、その、と言葉を濁した。来週、と聞いてカレンダーに視線を移すと、赤い文字で数字の24が書かれていた。
「仕事で遅くなるんだ。きっと、泊まることになる。だがクリスマスは過ごせるから、一緒に夕食を食べに行こう。良いレストランを予約しておく」
いつもより速いスピードで紡がれる言葉は、彼の心の内がするすると溶け出しているようだった。蓮二くんは器用そうに見えるのに、こういう所は不器用だなと思う。静かに湧く感情を投げつけてやりたいけれど、小さく息を吐いて、視線を蓮二くんに戻した。こくりと一つ頷くと、蓮二くんはホッとしたような、寂しそうな顔をした。
「すまない、な」
ずるい人だと思いながら、行かないでと言い出せない臆病な私は、ただただ蓮二くんの細い声に頷く事しか出来なかった。