06
※オリキャラ注意
終礼を終えて荷物を持って立ち上がると、入り口の戸の前に凭れ掛かっていた仁王君が戸から背中を浮かした。
「付いて来んしゃい」
気怠げに歩き出した仁王君の後ろを付いて行くように足を踏み出した。ふと廊下の窓の外を見ると、部活動に勤しんでいる生徒が楽しそうに走っていた。そして視線を前に移し、揺れる白い尻尾を見ながら今日はテニス部は部活が無いのかなと首を捻った。
どんどんと人気の無い方へと進んで行く仁王君に黙って付いて行くと、いつしか空間には私と仁王君だけになっていた。しんと静まるこの場所が校舎のどこあたりに位置するのか、もう分からなくなっていた。
「こっち」
声を掛けられて地面から顔を上げて彼の指先を辿ると、その先には達筆な字で「書道室」と書かれた立て札が掛かっていた。中からは明かりが漏れ、誰かが話している声が聞こえる。仁王君はノックもせずに遠慮なく戸を開け、中にいる人達に声を掛けた。
「おや、仁王君。遅かったですね」
「終礼長引いての。あとあいつ連れて来た。前言ったこと忘れとらん?」
「そこに居るの?」
「おん」
聞こえてきた凛とした声に背筋が伸びる。視線を彷徨わせていると、部屋の中へ入れていた体を戻した仁王君が、苦笑いを浮かべて私を見た。
「すまんの。おっかない奴じゃが悪い奴じゃなかよ。こっち来てくれんか」
渋々頷いて、彼に引かれるように部屋に入ると、段差が付いた畳に腰掛ける眼鏡の人と、その畳の上で白い紙と向き合う人がいた。その背筋が何故か蓮二くんと重なって、目を瞬いた。
「こちらへどうぞ。今座布団をお出ししますね」
「おーおー柳生。女子には紳士じゃのう。俺の分も出してくれんか」
「それくらい自分で出しなさい」
「ピヨ」
おかまいなく、という意味を込めて手を横に振ると、柳生と呼ばれた眼鏡の男の子は、遠慮なさらずに、と朱色の座布団を出してくれた。仁王君は慣れた手つきで同じ場所から抹茶色の座布団を二枚出して私の隣に並べて、その上にごろんと寝転がった。正座をしている私をみて、もっとリラックスしんしゃい、と自分の家のように振る舞う仁王君に相槌を打ちながら、辺りを見回す。墨の匂いと畳のが微かに香るこの場所は、昔の蓮二くんを思い出させた。
「仁王。ここは休息所じゃ無いんだけど」
奥で筆を走らせていた女の子がゆらりと動いた。凝ったのか肩を軽く回してこちらにやってくる。仁王君が面倒くさそうに身を起こす気配を感じながら、私はその人の顔に釘付けになった。ついこの間、仁王君が話してた人が目の前に居る。ちょっとした有名人の彼女を私は間近で見た事が無かったけれど、その顔に既視感を覚えた。そういえば、彼女の名前は。
「私は真田。あなたがなまえ、でしょ。柳さんがよく話してた」
彼女の口から紡がれた名前に目を見開いた。筋肉が引き攣ったように体が固まる。彼女は何を考えているかわからない表情で、私を射るように見る。その目に吸い込まれそうになる錯覚を覚え、何故か逃げ出したくなって、鞄の取っ手を強く握りしめた。
―――まるで私の心を見透かすような、
「あんまり苛めんといてやってくれるか。怖がっとるじゃろ」
白い手が伸びて来て、私の手に重なった。視界を横切る白い尻尾に、真田さんが隠れた。
「苛めてるつもりは無いけど?」
「おまんは自分で思っとるより自分の顔が怖いって気付いた方がよかよ。おまんの親父も怖いがな」
「っな!誰が怖いのよ、誰が!」
「おまん」
煩いわよ仁王のくせに!と彼女が怒鳴るのを聞きながら、内心でホッとした。けれど、彼女の言葉が頭の中を駆け巡る。あれは、昔から蓮二くんと関わりがあるような言い方だった。一つの不安が頭に過る。伺うように彼女を見るけれど、彼女からバニラの香りはしない。
「ちょっと柳生!こいつ黙らせて!」
「すみませんが今は手が離せません」
「お茶なんて後でもいいでしょ!」
もう、と言って仁王君の肩を掴んで押しのけた真田さんが、ずい、と私の前に顔を近づけた。その迫力に思わず腰が引けた。けれど彼女はそんな事にも動じず、じっと私の顔を見て、目を細めた。
「……似てるのね」
懐かしそうに、そう呟いた彼女に、誰に、と問いかけたかったけれど、そう言った彼女の目が寂しそうな色を落としたので、聞けなくなってしまった。
「驚かすつもりは無かったんだけど、怖かったならごめん。よく顔が恐いって言われる。多分親譲り」
言い難そうにそう言った彼女へ視線を上げると、口元を歪めて眉を下げていた。まるで苦虫でも噛み潰したような微妙な表情に、思わず笑ってしまった。
「おーおー真田。おまんの百面相がやっと受けたようじゃ。よかったの。紅白饅頭でも買って帰るか」
「ちょっと、笑わないでよ。あと仁王、二度とその減らず口を叩けないように縫い付けてやろうか」
「おーこわ。柳生、こいつどうにかしんしゃい」
「今日は普段よりも饒舌ですね仁王君」
「余計な事は言わんでええから」
柳生君に差し出された湯のみを礼を言って受け取り、口をつけると、上品なお茶の香りがした。茶菓子もありますよ、と差し出された豆大福は、ほどよい甘さでついつい手が伸びてしまった。
「なまえ、アンタそんなに食べると夕飯食べれなくなるよ」
面倒見がいいのか、口の端に付いていた粉をハンカチで拭き取られた。目を閉じてそれを享受しながら、至って普通に名前を呼ばれた事に目を数回瞬いた。
「……いきなり呼び捨てか、真田」
私の気持ちがバレたのかとドキリとした。仁王君は目を細めて大福を頬張り、ごくんと飲み込んでそう口にした。真田さんは彼の言葉に眉を寄せて、あぁ、と口元を抑えた。
「幸村さんが良くあなたの事を話すから、つい」
「ゆきむら?」
「お父さんの友達」
仁王君の質問に淡々と述べる真田さんに目を丸くしていると、それに気付いた彼女が私の頭を撫でた。
「嫌だった?」
寂しそうに笑う彼女に首を振って否定すると、真田さんはそう、と言って撫で続ける。仄かに耳が赤くて、それが可愛いと思った。
ずっと撫で続ける真田さんに、どうかしたの、と聞くと、彼女は何でも無い、と小さな声で告げて、離れて行く。その撫で方が、あの日の警察の人のそれと被り、私はそっと目を伏せた。
家に帰ると、蓮二くんはまだ帰っていなかった。明かりをつけて、制服から普段着に着替える。その際に落ちたメモを慌てて拾い上げ、屈みながらその中に連なる綺麗な文字を見つめた。真田と書かれた下には、電話番号と住所が書いてある。何かあったらいつでも掛けて来て、と言われて握らされたそれに目を丸くすると、真田さんは困ったように笑うだけだった。
エプロンを付けながらキッチンに立つと、そこには一つのお鍋が置いてあった。中を覗くと好物のクリームシチューが入っている。はて。蓮二くんが会社に行く前に作ったんだろうか、と不思議に思いながら、顔が綻ぶのが自分でも分かった。そっと蓋を閉じて、辺りを見回す。パンが無い事に気付き、時計を見上げた。この時間なら駅前のパン屋さんはまだ開いてる。よし、と手を握りしめてコートとマフラーを取りに行って身につけた。ポケットの中に携帯と、財布を入れ、鍵を掴んで家を出た。丁度来たエレベーターに軽やかに乗り込んで1のボタンを静かに押した。
帰り道は気付かなかったけど、よく見たらシンプルなイルミネーションが街灯や街路樹に施されていた。そのお陰で日が沈んでも明るかった。少しの間見とれていたけれど、早く行って帰って来ないと蓮二くんが帰ってきてしまう。足取りを速めて駅前のパン屋さんへ向かうと、目当てのお店がようやく見えて来た。明かりが付いているのが見え、まだ開店中だ、とほっと胸を撫で下ろそうとした時に、見慣れたトレンチコートが視界を横切った。
それが蓮二くんだ、と認識した時には、嬉しくて体が半歩前に出ていた。手を挙げて側に近寄ろうとした。その時、丁度彼の陰に隠れて見えなかった人物が現れ、足が凍り付いたように動かなくなった。それまできらびやかだった周りの景色が、急に殺風景なモノクロの景色に変わる。頭が心臓になったみたいに、鼓動がガンガンと響いて煩かったけれど、頭の中はひどく冷静だった。目を見開いて、遠くに居る二人を見つめる。そんな私に、二人は気付かない。
蓮二くんが隣の人に優しそうに微笑むのを、まるで夢の中にいるみたいに見つめる。彼があんな風に笑っているのは、いつぶりだっけ。そう考えて、思い出そうとしても、私の記憶の中の蓮二くんは目元に陰を落とした曖昧な笑みばかりで、私がそうさせているのだと気付き、心が押し潰されそうに痛んだ。
気付いて欲しい気持ちと、気付かないで欲しい気持ちが混ざり合って気持ち悪い。ぼんやりとした景色の中で、蓮二くんが幸せそうに笑っている。私には蓮二くんを笑顔に出来ないという現実が目の前に突き付けられて、喉の奥が引き攣り、焼けてしまいそうな痛みが走った。それを認めたく無くて、無意識のうちに去って行く背中に一歩近づく。距離があるのに、蓮二くんだけが淡い光に包まれたように周囲の景色から浮き立つのは、
「…れんじ、くん、」
振り向いて。私に気付いて。どうしたんだって駆け寄ってきて。私を見て。私に笑いかけて。
願いは届く筈も無く、淡い光は消え、目の前の景色がぼろぼろと滲んで溶けていく。外気に晒されて頬が冷たい。遠くに離れていく蓮二くんの後も追えずに残ったのは、惨めな私と小さな鍵だけ。