05
※死ネタ表現あり。
たゆたう意識の中の、無邪気な私が蓮二くんに手を振る。転けるぞ、と遠くの方から叫ぶ蓮二くんに構わず、砂浜に足跡をつけていく。吹いた風はじっとりとしていて、心地良いものではなかったけれど、記憶の中の私は大層楽しそうだった。
追って来る蓮二くんを待とうとしゃがみ込み、目を凝らした。視界に捉えた、輝くような桜色の貝殻を拾い、つまみ上げて片目を瞑って日の光に透かした。ピンク色に染まる景色は非現実的で、可愛くて、幸せの色だと思った。夢中になっていた私は、後ろからやってくる彼には気付かない。
「なまえ」
呼ばれて振り向こうとした私を、浮遊感が襲った。慣れない感覚に思わず目を瞑って、後ろから抱き上げた彼の両腕にしがみつくと、蓮二くんはくつくつと笑いながらもう一度私の名前を呼んだ。
誘われるように目を開くと、優しい笑みをした蓮二くんが視界いっぱいに広がる。
桜貝を通して見た桃色の景色の中で、そっと私の頭を撫でた蓮二くんが、滲んで、消えた。
「ん……なまえ?」
普段よりも低い声の蓮二くんが私の名前を呼ぶ。もやもやとしたものが張り付いてるような、寝起きの跡が残る声に誘われ、顔を上げると、上半身を起こした蓮二くんが私の顔を覗き込んでいた。
「コートも着たままで……そんなに疲れていたのか?」
どうやらあのまま眠っていたらしい私は、ソファに預けていた体を起こし、自分の服装に目をやった。はだけたままのコートも、ボサボサみ乱れた髪も、不格好に垂れたマフラーもそのままだった。慌ててコートのボタンを留めようとすると、蓮二くんは小さく笑って、着る必要は無いだろう?とハンガーを指差した。私は頷き、彼に背を向けてハンガーまで歩いて行った。重いコートを丁寧に掛けて、マフラーも解いて一緒に掛けた。髪を手で少しだけ梳かし、ソファの方へ向き直る。
「いつの間にか眠っていたようだ。なんだか懐かしい夢をみた気がするよ」
体を起こして、読みかけの本に栞を挟んでテーブルに置いた蓮二くんが、そっと表紙をなぞった。何度も見た事があるその本は、蓮二くんのお気に入り。
「……これを読んでいた所為かもしれないな」
そして、私のお父さんとお母さんの、お気に入り。
あの時、行かないで、と私がもっと縋っていたら、こんな事にはならなかったのだろうかと、供えられた渋い色の花を見ながら、小さな脳みそで考えていた。
お父さんとお母さんは、二人がお母さんの実家へ向かう途中に、車の事故で死んだ。葬儀で慌ただしく行き交う大人達の声に耳を澄ませると、私の母親が自分の親と不仲だった事や、両親が駆け落ち同然で結婚した事、二人が親戚とほぼ絶縁状態で、音沙汰もなかったことなどが囁かれた。
この日両親は、二人の仲と私の事を認めてもらおうと、実家を訪れる予定だったらしい。その道中で事故に遭い、息を引き取った。ひそひそとした、けれど聞こえる声量で話される噂話は、今思えば、わざと私へ聞かせていたのだろうと思う。
小学校へ警察から連絡が来て、担任の先生が血相を変えて私を呼びに来た時、私は友達となわとびをしていた。蓮二くんがくれた赤いなわとびは跳びやすく、とても気に入っていた。
担任の先生が早口で捲し立てた事は、理解出来ずに耳を通り抜ける。ただ、お父さんとお母さんが死んだという言葉だけが、通り過ぎずに耳の奥にこびりついた。
担任の先生に連れられるままに病院へ行くと、渋い顔をした、厳しそうな男の人が立っていた。彼は私と担任を見て、病院の簡素な椅子から立ち上がる。リノリウムが鈍く光を反射し、きゅっ、と音が鳴った。
「その子が?」
「ええ、そうです。乾さんの……。なまえちゃん、こちらの方が警察の人。何かあったらこの人に尋ねるのよ」
「……はい」
頷いて担任を見上げると、彼女は赤い目をして、神妙な顔で頷いた。そして私の手を引き、彼の前へ行くように視線で促した。私は彼女の手を放し、渋々彼の前に立った。険しい顔は、少し、怖いと思った。
「真田、だ」
「……さなだ、さん?」
「あぁ」
それだけ言った真田さんは、何かを言いたそうに口を開いたけれど、首を振って何も言わずに閉じた。それから病室の方を振り返り、顔を顰めて担任の方へと向き直った。
「事故だったので……彼女に見せるのは酷かと」
「ええ、ええ、分かっています。顔を見せずに、焼香だけでもあげさせるべきでしょうか?」
「……そうですね」
ゆっくりと歩き出した真田さんの後を担任に連れられて歩いた。厳かに開けられた病室は白いのに暗く、不思議な色をしていた。中心に並ぶ、白い細長い塊が、溶けるように空間と同調していた。
担任が隣で崩れ落ち、私は彼女の手を支える形になった。真田さんが険しい顔のまま、彼女の肩を抱き、私に目配せをした。どうやら、一旦病室の外に連れ出して落ち着かせるらしい。その意図を汲み取って彼女の手を放した。彼女が細い声で、私のお母さんの下の名前を呼ぶのを、聞きながら。
二人が出て行ったあとの空間は、とても寂しいものになった。色が無いのだ、と気付いた私は、真ん中の白い塊に近づいた。白い布を被せられてる、この二つの塊が、私の両親。
縋りたかったのかもしれない。
震える手で、布を少しだけ捲った。そこから覗いた指が、ありえない方向に曲がっているのをみて、目の前が真っ白になった。そこから先の記憶はひどく曖昧なものしか残っていない。たぶん、気を失ってしまったのだと思う。
目を覚ました時に、真っ先に映り込んだのは、大好きな蓮二くんの顔だった。私の顔を覗き込んだ蓮二くんは、心底ほっとしたように私の額を優しく撫でた。
灰色の景色の中で、慌ただしくする遠い親戚の人が集まる中に居る自分に違和感を覚えた。無理矢理着せられた黒いワンピースは、カビくさくて、ダサくて、丈が短くて最悪だった。鏡に映る不格好な姿を見ながら、お母さんの買ってくれたピンクのワンピースが恋しくなった。恋しくて、恋しくて、もう二度と会えないという現実が、とても理不尽なものに思えた。静かな私を、親戚の人達は聞き分けの良い子と言っていたけれど、私はただ現実を認めたくなかっただけだった。口を噤んで、息を止める。けれど苦しくて、口を開けて大きく息を吸ってしまう。死にたかったのかもしれない。無条件で私を愛してくれていた両親と同じ場所に行きたかった。
ひっそりと、大人達がいない場所で、洗面器にたっぷりと水を入れて、顔を付けた。数十秒で苦しくなって、こぽ、と小さな泡を吐くのと、肩を強く掴まれて引き戻されるのはほぼ同時の事だった。
「何をしている!」
「……れん、じくん、」
怒られる、と思って咄嗟に目を瞑ったけれど、痛みも怒声も飛んで来なかった。代わりに頭の後ろを押さえつけられて、彼の胸板に顔を押し当てられた。ぎゅっ、と背中に回された手が、震えているのが背中越しに伝わって、私の中に罪悪感が芽生えた。
「僕が引き取ります」
親戚中が面倒な私を他所へと押し付ける話し合いをしていた時、蓮二くんが私の手を握って一歩出た。彼からはっきりと紡がれた声に、大人達は顔を見合わせ、渋るように顔を顰めた。血も繋がっていない彼に任せて落ち度があった時に、もっと面倒な事になると思ったのだろう。
「お願いします。何かあったときの責任は、全て僕が取ります」
身を低くして、ゆっくりと額を畳に付けた彼に誰もが息を飲んだ。その姿があまりにも美しい物だったので。添えられた指が綺麗に揃っているのを見ながら、私は彼の肩を小さく揺すった。
「……れんじくん、」
「大丈夫だ、なまえ」
あやすように言う蓮二くんに、私のためにそこまでしないで、と泣きたくなった。視界が水の中にいるみたいに歪み、溢れそうになる。蓮二くんに寄り添って彼の体に抱きつくと、それを見ていた大人達が溜息を吐いて承諾した。
空にたなびく白はお父さんとお母さんの成れの果て。私と蓮二くんが煙突を見上げていると、小さく風が吹いた。それに乗って金木犀の匂いがした。煙突から途切れた白を見つめながら、もう手の届かない場所に行ってしまったのだと実感した。それは蓮二くんも同じだったようで、彼は汚れるのも厭わずに、地面に膝をついて灰色の空を背に、私を抱きしめた。
私と蓮二くんは、お互いの存在を確認し合いながら、息をするように、ゆっくりと、泣いた。
「のう、今日暇か」
いつもは図書館でしか話しかけて来なかった仁王君が、私の机の前に立ってそう言った。クラスメイトのりっちゃんが「ちょっとなまえ、あんた仁王君と仲良かったの?」と囁くのを聞きながら、小さく頷くと、仁王君はホッとしたように目を細めた。
「ほうか。おまんに会いたい言うて煩い奴がおっての。じゃ、また放課後にな」
それだけを言い残して、仁王君はさっさとどこかへ行ってしまった。私に会いたい人とは誰だろうと首を傾げると、掃除時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
終礼の時に、担任が進路調査票を集め始めた。ざわつく空気の中で、私もファイルに挟んでおいたそれを抜き取り、前へと持って行く。
進学の欄の隣に書かれた項目に、一晩悩んだ末、暗い気持ちで丸を書いた。外部進学(県外)の文字の隣に並ぶ歪な丸を、窓から差し込んだ朝日が照らした。
私は声を殺して、少しだけ、泣いた。