04
声を失ってしまった人魚姫の末路は、恋も実らず泡になって溶けてしまうという不幸なものだ。
図書室で人魚姫の絵本を手に取り、眺めながら、喉に手をあてる。絵本の中では、海の魔女に自分の声を捧げて、足を手に入れようとしている人魚姫の、必死な顔が描かれている。
喉を震わせ、愛しい人の名前を紡ぐ。
人魚姫が、自分に気付いてくれない王子様に絶望している場面が現れる。
喉に手をあてながら、上半身を折り畳んだ。絵本を額に当てて、大きく息を吐く。
きっと今の私も、この人魚と同じ表情をしているのだろう。
絵本を閉じて、椅子の上で体育座りをして、太股とお腹で本を抱きしめるように体を折り曲げる。そして、額を膝にぴたりとつけた。ひんやりと冷えたスカートの温度が、額から浸透して、昂った感情を冷やしていく。
そう、これでいいんだ、と、自分に言い聞かせながら目を閉じた。
「ピヨピヨ。そんな格好じゃぁ、スカートの中が見えるぜよ」
降ってきた声に顔を上げると、前のときと同じように、ジャージを着て、チャックを一番上まであげた仁王君が居た。ジャージの襟を通して出たくぐもった声で、ひよこのように鳴いた仁王君が、隣の空いたスペースにしゃがみ込んだ。
「おまんはいっつもここにおるのう」
上ジャージのポケットに手を突っ込み、前に伸ばし、出来た隙間に折り畳んだ足を入れ、丸くなった仁王君が、前にある棚をぼんやりと見ながら興味が無さそうな温度で呟いた。
その呟きに、何か返さないと、と思い、メモ帳を出そうとした私に気付いた仁王君は「いや、ええ。ただの独り言じゃ」と不思議な方言で押し止める。行き場を失った手を、足とお腹で出来た斜面に置いておいた絵本に掛けると、仁王君はそれで良いと頷いた。
「聞き流してくれて、構わん」
どこからか出してきたカイロを私に放り投げて寄越した仁王君が、ポケットから両手を出して祈るように唇に付けた。瞼を伏せる。睫毛が細かく震えて、陰を落とした。
深淵を、覗くような。
「……おまんが、一緒に住んどる男。どんな関係か詮索はせん。けど、」
ゆらりと、深い池の中で泳ぐ魚のように、仁王君の後ろ髪が泳ぐ。
誘うように、手招くように。ゆらゆらと、何かを、チラつかせるように。
「……このまま、あいつとおったら、ダメじゃ。何でかは、今は、言えん。けど、」
銀の鱗を掴むように、手を伸ばす。ずるりと、体が引きずり込まれる。あっという間に、目前に迫った水面に目を見開いた私が映る。水面の奥で、銀の鱗が桜のように散って行く。
「今度は、声を失うてしまうだけじゃ……済まん」
ぼちゃん、と鈍い音が、した。
私はずっと、蓮二くんの側にいたかった。
後にも先にも、私が一番望むものは蓮二くんの隣、ただそれだけ。けれど、私の願いは、大人になると溶けてしまう魔法のように脆く儚いものだった。知っていた。けれど、まだ子供で居たかった私は、目を逸らして、永遠に続くと信じていた関係に、ヒビが入る音を聞きながら、耳を塞いで目を瞑った。そうして、大丈夫だと言い聞かせるように念じながら、冷たいカギをお守りのように握りしめる。私と蓮二くんを繋ぎ止める、魔法のカギ。
これさえあれば、どこへ行っても帰って来れると、信じていた。
「肉まんとあんまん、どっちが良いんだ?」
幻聴が聞こえた気がして顔をあげると、眉を下げて首を傾げる仁王君が居た。あぁ、やっぱり、と少し落胆しながら、首を捻る。甘いものを食べるとしょっぱい物が食べたくなるし、しょっぱい物を食べると甘い物が食べたくなる、と迷いに迷って、結局両方を指差すと、仁王君は困った顔をして「欲張ると晩飯食えんくなるじゃろ」と言い、少し思案した顔をした彼が、待ってて、と言ってレジへ向かった。
「こうすればええんじゃ」
もちもちの肉まんを、熱い熱い!と言いながら手で裂いた仁王君が、同じようにあんまんも器用に半分に裂き、二つの片割れを私の方へ寄越した。慌てて財布を出そうとすると、仁王君は笑って奢りだと言った。
「律儀な奴じゃのう。この間なんて、真田が丸井に当然のように奢らせとったんに」
真田、とは女子テニス部の部長の真田さんの事だろう。あまり知らないけれど、顔が美人で、運動神経が良いとは聞いた事がある。相槌を打ちながら、肉まんとあんまん、どちらを選ぶのだろうと思いながら、真田さんと丸井君を勝手に想像した。
仁王君の手を引いて、白い彼の手のひらに、ありがとう、と書くと、仁王君は眉を下げて、私の手を引いた。
「どういたしまして、っと」
その感触がくすぐったくて、白い息が漏れた。
学校のコンビニの近くにある公園のブランコに揺られながら、肉まんとあんまんを交互に食べていると、それを見た仁王君が、まるで小動物じゃの、と目を細めて言った。もう食べ終わった仁王君が立ち上がり、私の髪を乱暴に撫でた。驚いて必死に腕で防御すると、彼は肩を揺らして小さく笑った。そしてまだ食べている私を置いて、ゴミ箱に近寄った仁王君が小さく呟いた言葉が、私に聞こえる筈も無く、私は濃紺が浸食してゆく空をぼんやりと仰いでいた。
「……こんくらいしか、出来ん」
一番星が、東の空で小さく輝いていた。
「…………」
仁王君と別れて、駅のホームで携帯を開いてみたけれど、いつもの着信もメールも何一つ無かった。今日はいつもより帰りが遅いのに、どうしてだろう、と不安が募る。泣きそうになる目を擦って、重い足取りで家路を歩いていると、地元の駅前のロータリーで、一人の人とすれ違った。
すれ違う瞬間、あの甘い香りが漂い、反射的に振り返る。
けれど、その人は雑踏に紛れ、見えなくなっていた。
ごくりと唾を飲み込む。目を見開く。どれだけ凝らしてみても、何も見えやしない。ただ、灰色の景色が、私を排除しようと、肩をぶつけて通り過ぎるだけ。
駅のロータリーから全力疾走をして、見慣れたマンションのエントランスに滑り込んだ。エレベーターに乗り込み、行き先ボタンを押し、閉めるのボタンを意味も無く連打した。上昇するこの感覚は、いつまで経っても慣れやしない。酸素の足りない頭が、この浮遊感のせいで、余計ふらつきそうになるのを、こめかみに手を当ててやり過ごした。
目的の階についた事を知らせる無機質な音が小さな箱で鳴り響く。ぼんやりと明るい廊下を静かに走り、ポケットに入れておいたカギを取り出して差し込んだ。回して、ドアノブを下げるけれど、拒絶される。混乱する頭でもう一度差し込み、回すと、カギが外れる音がした。
息を呑んで、ドアを開ける。音を立てないように、そうっとローファーを脱いだ。玄関には、きちんと揃えて端に寄せられた蓮二くんの靴があった。
吸い寄せられるように、リビングへと足を進めると、ドアから明かりが漏れていた。廊下は氷みたいに冷たく、ナイフの上を歩いているかのように足が痛んだ気がした。
ドアノブを下げて押すと、ソファの端から柔らかな茶色が覗いた。それを見た途端、胸の辺りが温まり、引き摺るように足を進める。コートがはだけ、マフラーの端も垂れて、髪もぐちゃぐちゃな私が窓に映ったけれど、構わずに肩で息をしながら、ソファの前に立った。
クリーム色のソファで、穏やかな寝息を立てる蓮二くんを見た途端、足の力が抜けてへたり込んだ。
心が震えて、視界が歪む。棺桶に縋るように、ソファの縁に手を掛けると、抗議するように小さく軋んだ。
鼓膜を揺らすのは、背徳の音。
触れる事なんて、出来やしない。
そっとのばした指先は、彼に触れる事無く彷徨い、スカートの端を弱々しく掴んだ。
口の中は、海の味が、した。