03
進路調査票と書かれた紙を見つめながら、頬杖をついた。どうする?と囁き合うクラスメイトに、担任の先生が静かにしなさいと叱る声を聞きながら、私の将来を想像してみたけれど、何も思い浮かばなかった。
けれど、蓮二くんの元から離れたいという思いだけが、心の中で燻っていた。
「あぁ、進路調査ね」
灰色のマフラーを解きながら、注文を聞きに来たウェイトレスさんにホットコーヒーを頼んだ幸村君が、テーブルに置かれたプリントを引き寄せた。店内では軽やかなジャズが流れ、制服姿の私が浮いているように見えた。肩を竦ませて幸村君の方を窺い見ると、彼はプリントを片手に、顎に手を置いて文字を追っていた。
「懐かしいなぁ。俺もこんなの書かされたっけ」
就職と、進学。進学の項目は枝分かれしていて、大学進学と、専門学校の欄がある。その先も枝分かれしていて、大学進学にあたっては内部か外部、短大か四年制、県内か県外、などなど細かいことまで書かなければならなかった。
大きな木を、下から煽いでいる気分だった。先は全然見通せないのに、目の前には大きな幹が立ちふさがる。選べと突き付けられる枝は、どれが正解かなんて分からない。もっと慎重に考えたいのに、木は懐中時計を持ちながら私を急かす。
「蓮二に何か言い難いことでもあるの?」
運ばれて来たコーヒーのカップに口を付けて、一呼吸置いた幸村君が穏やかな笑みを浮かべて尋ねる。戸惑いながら小さく頷くと、幸村君は、そう、と言ってカップを置いた。その声音は咎めるようなものではなく、心地良いほどにどこまでも穏やかだった。
不意に泣きたくなって、誤摩化すようにオレンジジュースのストローに噛み付いた。
蓮二くんと私は、本当の家族じゃありません。
けれど、私は、蓮二くんが大好きです。
何の脈絡も無く、ただ蓮二くんのことばかり書き連ねてある、小学生の頃に書いた文集を読み返しながら、さっき作ったばかりのココアに口をつけた。
マシュマロを入れるのは、昔から蓮二くんが私にココアを作ってくれる時は、マシュマロを入れていたから。これがないと、なんだか物足りない気持ちになってしまう私は、蓮二くんの面影が染み付いているようにも思えた。
蓮二くんが、私を呼ぶ声が好きです。
好きです、と、大好きです、のオンパレードな文を読みながら、これにコメントをするのは大分難しかったんじゃないか、と小学生の頃の担任を心の中で哀れんだ。
腫れ物を扱うように、私を扱う大人が大嫌いだった。余計惨めになるのに、私の気も知らず、過剰に優しく接する自分に酔っているとしか思えなかった。そんな大人をみて、子供も真似をし、いつの間にか私の周りには分厚い壁が出来ていた。それは見えないから、壊す事も出来ない。どれだけ叩いても、自分の声が跳ね返ってくるばかりで、項垂れていた私に、手を差し伸べてくれたのは蓮二くんだけだった。
蓮二くんの笑顔が、私は大好きです。
蓮二くんの笑顔をみると、私も心がぽかぽかして、幸せです。
だから、蓮二くんには、いつも、幸せでいて欲しいです。
ドロドロに甘いココアが、喉を通り、痛んだ。文集を捲っていた手に力が入り、端がくしゃりと歪んだ。皺が寄り、文字が曲がる。醜く歪む文章は、まるで。
いつからか、蓮二くんの幸せを心から願う事が出来なくなった、私の心に巣食う真っ黒なシミのようだった。
「なまえ、今日の晩飯は俺が作ろうと思うのだが、何か食べたいものはあるか?」
目元に陰を落として、努めて優しい声を作りながら、蓮二くんが私に尋ねる。私は見ていたテレビから顔をあげ、エプロンを身に付ける蓮二くんに、メモ帳に書いた文字を差し出した。
「オムライスか。分かった」
くしゃりと私の頭を撫でて、キッチンへ向かう背中を追い、エプロンをつけると、蓮二くんは目を丸くした。伝わらないのか、と慌ててメモ帳を出そうとすると、彼はそれを押し止めて、優しい目をした。
「では、なまえはサラダを作ってくれるか?」
出来上がったオムライスに、ケチャップでうさぎの絵を描いた。メモ帳に出て来る、愛想の無いうさぎ。あのメモ帳はもう直ぐ無くなりそうだった。私の声が消えて、一週間経った。
この一週間、蓮二くんは真っ直ぐ家に帰って来るようになった。嬉しい筈なのに、素直に喜べないのは、蓮二くんが無理をしていることが分かるようになってしまったからだ。甘いバニラの匂いは、私がケーキを吐いてしまってから、幻のように跡形も無く消えていた。
スプーンを突き刺して、卵を裂いた。中からオレンジ色のライスが顔を覗かせ、半熟の卵に絡めて食べた。懐かしい、優しい味が口に広がる。
自然に顔が綻んだ私を見て、蓮二くんはほっとした様子で食べ始めた。オムライスではなく、サラダから食べ始めた蓮二くんを見て、ごくん、と鶏肉を飲み込んだ。
「なまえは料理上手だな」
サラダなんて切って盛りつけるだけなのに、目を細めて褒めてくれる蓮二くんに、無意識に照れてしまった。こくこくと数度頷くと、蓮二くんはドレッシングに手を掛けた。
彼の手元を見て、表情が凍り付くのが自分でも分かった。
あんなにも優しかったオムライスは、砂を噛んでいるように固くなった。無理矢理飲み込み、混乱する思考を追いやるように、機械的に掬っては、飲み込む。
このサラダに、蓮二くんは、いつも青いキャップのドレッシングを振りかけていた。白いキャップのドレッシングを、彼が使っているのは十年以上経った今まで、見た事が無かった。思考が凍る。手が震えそうになるのを抑えて、熱い卵を無理矢理飲み込んだ。
「美味いか?」
ドレッシングのキャップを締めながら、蓮二くんが尋ねる。それに笑顔を作りながら、大きく頷いた。
満足そうに、そうか、と呟いた蓮二くんが、遠くの人のように感じた。
蓮二くんと私は、血が繋がっていません。
お父さんと、お母さんの幼なじみという、友達でした。
蓮二くんは、事故で死んでしまったお父さんとお母さんの代わりに、私を育ててくれています。
蓮二くんはとても優しいです。
だから、私は、悲しくありません。
毎日が、とても、幸せです。