01
今日は雨が降ると天気予報で言っていた。はず。
低気圧の所為で重い頭を、机上で組んだ腕の上に持ち上げて、少しの期待を込めて窓の外を窺い見る。けれど、空模様は先程見たときと変わらずにどんよりと暗い表情をしていた。
窓に雨粒が当たり、音を立てる。風がそれに合わせるように息を引き攣らせる。
まるで世界の終わりを覗いたような顔をしている自分が窓ガラスに映り、息を吐く。いつの間に冷え込んだのか、吐く息は白かった。
それを見た途端、なんだか肌寒く感じ、机に掛けてある鞄からマフラーを引き抜いた。ぐるぐると無造作に巻き付け、顔を埋めて机に伏せる。目を瞑り、手のひらの中で光る携帯を意識から遠ざけた。
今日の晩ご飯は何にしよう。一人だし、小さなお鍋でも作ろうか。彼も羨むような、豪華なお鍋。空っぽになったそれを見て、食べなかった事を少しは後悔すれば良い。でも、帰ってくるのはどうせ朝方だ。洗い終わった食器は、整理整頓が好きな私の手によって片付けられてしまう。放置なんてこと、したくない。どうせ気になって眠れやしないのだから。
薄らと瞼を開く。視界に、明日の日直の名前が連なっているのが見えた。息を吐く。まだ、白い。手の感覚が寒さで無くなりそうだ。仕方無く体を起こし、ピカピカと光り続ける携帯を開けた。着信は数十件、メールも数十件。こんなもので愛を計るなんて愚かだと思いながらも止められない。彼が止めないのが悪いと、責任を他所へ押し付けて、一つずつ開いていく。しっかりと目を通し、次のメールを開く。段々と心配が滲む文章になっていくのを読みながら、自然と口角が上がるのが自分でも分かった。
いつの間にか鉛を入れられたように重かった厄介な頭痛は消え去り、手をすりあわせて、最後のメールへの返信画面を開いた。カチカチ、とキーを押す音が、雨の音と混じり合い、響く。メールを無事作成し終え、送信ボタンを押した。欠伸が漏れ、目尻が滲む。視界の端で、直ぐに光る携帯を見て、安堵の息が漏れた。
携帯を机に置き、ぐるりと腕を回し、投げ出していた上履きをつま先で探り寄せてきちんと履いた。横に掛けてあった鞄を持ち、立ち上がる。マフラーの端が前に垂れたので、後ろでリボン結びをした。教室を出る前に、柱に掛かった鏡で髪の毛の乱れを整え、ボタンを上まで留めて、襟を正す。よし、と鏡の中の自分を睨みつけて、教室を後にした。
廊下の窓には、誰かが置き忘れた絵筆が桟の所に置かれていた。
「蓮二くん」
雑踏の中でも、彼だけ淡く光って見える事がある。周りはひっそりと陰を落とし、彼だけが自然と浮かび上がっている、不思議な光景。学校の前のコンビニで買ったビニール傘は、目立つようにピンクを買った。人工的な、少し下品な色の傘を揺らして声を掛けると、改札口の前の広場で立っていた蓮二くんが一瞬だけ眉を顰めた。
「あれほど雨が降ると言っていただろう?」
「うーんと、傘持って行くの面倒くさくて。降水確率60%だったし」
「……ならば折り畳み傘を買えば良い。今、買ってやるから」
だからその傘は捨てろ、と言いたいのであろう蓮二くんの気持ちを察し、傘を畳んだ。萎んだピンクは、ひっそりと息を顰めるフリをしているけれど、浮いたように目立っている。
「じゃあ蓮二くんが選んで」
「どうした急に」
「んー。別にぃ」
最近一緒に買い物に行ってないから、と言おうとして、止めた。はぐれないように蓮二くんのトレンチコートを軽く掴んだ。
少し歩くと、可愛らしい小物やちょっとした化粧品を売っているお店を見つけた。つん、とコートを引くと、それに気付いた蓮二くんが振り返った。そして私の視線を辿り、あぁ、と納得したように呟き、足を向けた。
店に入ると、蓮二くんが合成写真みたいに浮いていた。彼は構う様子も無く、真っ先に傘が並んでいる棚の前に向かった。そして私を振り返り、首を傾げた。
「どれが良いんだ?」
「蓮二くんが選んで」
「お前は……。これでいいか?」
薄い水色の傘を指差した蓮二くんに、笑みを浮かべながら頷いた。俺が選んで本当に良いんだな?と念を押して来る蓮二くんに、それが良いと頷くと、彼は眉を少し下げてレジの方へ消えて行った。
店先で彼を待ちながら、チラチラと蓮二くんの方を意味ありげに振り返る女の人を睨みつけて撃退していると、ふと昔やった戦闘機のゲームの事を思い出した。
淡々とボタンを押して撃ち落とす、簡単なのに気を抜くとうっかりこっちがやられてしまう、少し面倒だけど面白かったゲーム。あの頃の私は、彼の膝に無邪気に乗ってあのゲームで遊んでいたのに、今ではもう触れる事すら怖くなった。
「なまえ」
店から出て来た蓮二くんに、テープだけが付いた水色の傘を差し出され、お礼を言って受け取った。撃ち落とした女の人達からの視線を受けながら、彼の隣に並んで微笑んだ。醜い優越感に浸りながら、透明な包みを剥がしていると、私の腕に掛けてあったピンクの傘を、蓮二くんがそっと奪い取った。
「俺が捨てておく」
「いいよ、それに勿体無い」
「どうせ使わないだろう?あっても無意味だ」
頑に捨てたがる蓮二くんに、分かったと頷くと、彼は私の頭を一撫でして、側にあったゴミ箱にピンクの傘を捨てた。行くぞ、と彼に腕を引かれながら、視界の端で捉えた傘は、まるで私のようだった。
「戸締まりはしっかりと確認して、火の元も注意するようにな。あと、風呂は眠くなる前に入って、夜更かしはしないように」
「分かってるよー。そんなに言わなくても、もう子供じゃないんだし」
改札口の前で蓮二くんが、薄く目を開け、それもそうだな、と少しだけ陰を差して笑う。その顔をみながら、大人ってなんてずるいんだろう、と思った。
「気をつけてね」
「あぁ、すまないな」
私の頭を撫でて言った蓮二くんの言葉に、俯きながら一瞬だけ顔が強ばった。慌てて口角を上げて顔も上げると、彼はそうだ、と思い出したように呟き、コートのポケットへと手を入れた。
「カイロを貰ったんだ。少し使ってしまったが、家までは充分持つだろう」
渡されたカイロを受け取る時に、微かに女物の香水がの匂いがした。
「わ、温かい」
「それは良かった」
満足そうに言う蓮二くんに、子供っぽく笑ってみせた。
「いってらっしゃい」
背を向けて遠ざかる蓮二くんの姿が見えなくなるまで、カイロを握りしめながら見送った。雑踏に紛れて消えてしまった彼を名残惜しく思いながら、先程傘を捨てたゴミ箱へと近づいた。
ピンクの傘が、灰色の景色に混じって、淡く光る。捨てられた花のような哀れな傘を一瞥し、腕を大きく振りかぶった。
手を放すと、ばすん、と鈍く小さな音が響いて、白いカイロは暗闇に吸い込まれた。手のひらに残る温もりと、微かに香る甘い匂いに吐き気がした。
スカートの裾で手のひらを乱暴に擦り、定期を取り出して改札を抜けた。ふと立ち止まって振り返る。私を探す、優しい目はどこにもない。ただ、急に立ち止まった私を邪魔そうに見る視線だけが突き刺さり、マフラーに顔を埋めて歩き出した。
家に着いて、鞄からカギを探し出す。鈴の音を頼りにしながら引っぱり出すと、ちりん、と音が鳴った、ちりめんで出来たウサギのキーホルダーが付いたカギが出て来た。擦り切れてしまって、少し黒ずんでいるそれは、私の陰を映しているようで、目を伏せながら鍵穴に差し込んだ。
手探りで電気をつけようとして、玄関の段差に足を引っかけてしまい、そのまま転んでしまった。同時に、ドアが勢い良く閉まり、暗闇が広がる。玄関の床は冷蔵庫の中みたいに冷たかった。
立ち上がる元気が出なくて、そのまま膝を抱えた。
暗く、冷たい。
深海のような常闇が、息を顰めて私に寄り添う。
顔を埋めたスカートの裾から、微かに甘い匂いが漂った。
手元にあったカギが、存在を訴えるように、一つ、鳴いた。