17
蓮二くんの傷付いた顔を見るのは、声が出なくなって病院に連れ回された時以来かもしれない。言葉を詰まらせた彼はひどく弱々しく、手折られた花を連想させた。
乱暴な心が獲物を見据えた獣のようにじっと息をひそめているのを私は知っていた。彼の一番になれないならいっそ、傷付けた私を憎んでどうか忘れないでいて欲しいと子供じみた欲望が爪を立てる。本当は今直ぐにでも謝りたいのに、彼の手首にちらつくブレスレットの存在が私を押し止める。惨めだった。傷付けたいわけじゃないのに、傷付けないと蓮二くんの心を引きつけることさえ出来なくなってしまった私の存在は、ひどく愚かで恥ずかしいものだった。だから、彼が何かを言う前に、その先の現実が怖くなった私は彼の前から逃げ出した。
彷徨い歩いて辿り着いた先は彼を失ってしまった私に唯一残る居場所のように思えた。座り込んだ足から容赦なく熱が奪われ、徐々に感覚が失われていくのを他人事のように感じながら、このまま石畳と同化してしまうんじゃないかと、願いにも似た馬鹿みたいなことをぼんやりと考えていた。冷たく固い石になったら、もう傷付かずに済む。血も涙も出なくなって、そのうち何も感じなくなって、この心も無くなってしまえば、きっと。あの人と寄り添う蓮二くんを祝福してあげれる。
時折吹く冷たい風に乗って、目の前にある百合の花と線香の煙が揺れて香る。私の悲しみを象徴する匂いは、あの灰色の日を思い出させる。冷たい思い出でしかないあの日を辛うじて苦に思わなかったのは、私を見つけてくれた蓮二くんとの思い出があったからだ。けれどもう、彼との思い出は大した効力を発揮してはくれず、私はまたあの日に一人取り残されてしまった。
行く宛もなく、縋るようにお父さんとお母さんの墓前に来てしまったけれど、ここからどこへ向かえばいいのか分からなかった。明日から学校もあるし、試験の日だって近いのだから勉強もしなくちゃならない。そう頭では分かっているのに、中身が空っぽになってしまったように思考が鈍くなる。このまま眠ってしまえば、楽なのかもしれない。心を見透かしたように灰色の線香の煙が私を誘うように燻る。目を細めてその様を見つめていると、瞼が重くなってきた。もうどうでもいいや、と微かに抵抗する震える睫毛を宥めて委ねるように目を閉じると、暗闇の先で呆然と立ち竦む蓮二くんが映った気がした。
瞬きをすると、辺りは一転して明るくなった。馴れない眩しさに目を細めていると、遠くで、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。私はこの声を知っている。知っていながら、目を逸らす。来ないで、と距離をあける。真っ白な白線を引いて、これ以上踏み込まれないように、これ以上傷付かないようにしっかりと防御線を張る。するとその声は線を越えずに、踵を返す。だんだんと遠のいてゆく声に安心しながら、果てのない虚無感に襲われた。三角座りをした視界の先に見える真っ白な線の先に、彼の後ろ姿が見える。振り向かないでと願いながら耳を塞いで小さく蓮二くんの名前を呼ぶ。矛盾している私の行為に気付かない彼は、何かを見つけたように駆け出した。その瞬間バニラの匂いが混ざる突風が吹いて、弾かれるように顔を上げた。私の背を向ける彼の側に、寄り添う影が一つ。視線の先で白線がぐにゃりと歪んだ。呟く言葉は一つだけ。「置いていかないで、」
視界が揺れる。心無しか、体も宙に浮いて揺れている気がする。先程まで冷たかった体が、少しだけ温かい。温もりが心地良くて頬を擦り寄せると、鼻先に香った匂いの懐かしさに思わず彼の名前が溢れた。
「あ……。気が付いた?」
ゆっくりと開けた視界に、影が出来た。ぼんやりとした輪郭が鮮明になるにつれ、どこか気の抜けたような顔をした真田さんの顔が映った。懐かしい匂いに思わず蓮二くんの名を呼ぼうとしたけれど、それがただの畳の匂いだということに気が付いて口を噤んだ。誤摩化すように体を起こして辺りを見渡すと広い和室が映り、見慣れない場所に無意識に眉を顰めた。
真田さんは苦笑いを零し、垂れた髪を耳に掛けながら視線を部屋へと移した。
「ここ、私の家なの。あ、寒くない?生姜湯をお母さんと作ったんだけど、どうかな?温まるよ」
「……真田さんの家、」
「あなたの倒れていた所から、近かったから」
「誰がここへ連れて来たの?」
ある予感が私の脳裏を掠め、考えるよりも先に口が動いた。ぱちり、と目を瞬いた真田さんは視線を落とし、布団の上に置いた私の手に自分の手を重ねた。
「連れて来たのは……私のお父さん。見つけたのは通りすがりの人、だけど」
伏せた瞼を縁取る睫毛が微かに揺れていた。小さな予感は瞬く間に消失し、「そう」と呟き、曖昧に頷いて重なっている手と彼女の顔へ視線を彷徨わせていると、視線を上げた彼女は先程と一転して強い怒気を孕んだ目をしていた。
「心配した、本当に。幸村さんなんか、直ぐに見つかると思ってたのに見つからないんだって、軽くパニックになりながらお父さんの携帯に電話してきたのよ。時間が経つにつれ何か事件に巻き込まれたんじゃないかって本格的に慌て出して、宥めるのに苦労したんだから。仁王と柳生も探してくれたし、今度会ったらお礼言っときなさいよ」
話しを聞きながら、大袈裟だなと他人事のように思っていた私の心を読み取ったのか、真田さんは重ねていた手をぱちりと叩いた。
「ふざけないで」
「…ごめん、」
「……何も無くて良かった。仁王なんか話しの経緯聞いて縁起でもないこと言って、」
そこまで言ってから、しまった、と口を手で覆った真田さんを見つめて、今度はこっちが冷静になった。小さく笑みを零して両手を広げて手の平の皺を見つめた。
「冬の海に身でも投げたって言ってた?」
「……睡眠薬飲んで海に沈んだんじゃないかって」
「似てるね、」
「冗談じゃないって、私と柳生が叱りつけたけど、仁王の目が怖いくらいに澄んでて言葉が詰まった。そんな私を見て今度は私が柳生に怒られたけど」
そこまで言って言葉を区切った真田さんは、ぐっ、と唇を引き結んで眉を顰めた。彼女の険しい表情に、何を言われるか大体の想像がついた。
「……ねぇ、なまえ。そんなに柳さんが好きなの?」
覚悟は出来ていたのに、息が詰まった。
「……そんなにって、死にたくなるほど?」
「そこまでは言ってない。けど、それに近い事をしたって自覚はあるの?」
身を乗り出して鋭い視線を突き付けた真田さんに、嘘を吐くことは出来なかった。澄んだ黒い目に、青ざめた私の顔が映る。逃げるように視線を移し、下を向いた。口を開いてはいけないと思っているのに、ずっと考えて溜めて来た言葉たちは私の意思を無視して、重力に従うように舌先から零れ落ちた。
「あるよ。私は蓮二くんが居ない世界なんてどうでも良いし、蓮二くんが私を突き放した現実を認めたくなくて何もかもがいらなくなったの。この、お母さんそっくりな顔も、声も、彼が愛している残滓全部が憎くて仕方が無い。だって、私はここに居て、こんなにも蓮二くんがすきなのに。でも、これは正しく無い。だから、蓮二くんは煩わしくなって私を捨てたの。分かってる。分かってるの。けれど、その正しさが私には受け入れられない。傷だらけになっても、心の底で彼の名前をずっと呼んでる、」
喉の奥が痛い。真田さんの顔を見るのが怖くて視線を上げられない。
諦めたと何度言い聞かせても無くならないこの心を異常だと罵って潰して欲しい。そう思っているのに、彼がいなくなってしまった世界の隅で、まだ彼が振り向いてくれることを願っている。
これ以上愛してなんて贅沢は言わない。だって蓮二くんはありあまるほどの愛情を私に注いでくれていた。それが親友と愛していた人の子供だからという理由でも、苦しくなんかなかった。彼の側に居れるだけで毎日が幸せだった。でも、彼が私から離れていってしまうことはどうしようもなく苦しくて、息を止めてしまいたくなる。愛さなくていいから側に居て欲しい。蓮二くんの他には何もいらないから、私から彼を取り上げないで欲しい。そう思ってしまう私は、ただの我が儘な子供だ。
「私、おかしいの。蓮二くんの幸せを願いながら、結局は自分のことしか考えてない。迷惑をかけたいわけじゃないのに、どうしてこうなっちゃったんだろう。本当に、好きなのに、大切なのに、どうして、」
「分かった。ごめんね、もう、いいよ。ごめんね、ごめん」
震える腕に抱きしめられて、泣いている事に気が付いた。自分のではない違う人の温もりが心地良くて目を細めると、先程の予感が脳裏を過った。
「……さっき、蓮二くんが、助けてくれた気がしたの」
真田さんの目が柔らかな色を宿していた。
「……どうして?」
「分からない。けど、私の願望だったんだろうな。真田さんのお父さんと蓮二くんは似てないし」
私の言葉を受けて曖昧に笑った真田さんはもう一度眠った方が良いと言った。本心を吐き出しすぎて疲れていた私は、彼女の言葉に甘えてもう一度布団に潜った。おやすみの言葉とともに消えた明かりの光を瞼の奥で感じながら、深い海に潜るように意識を手放した。