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守り抗うことは困難だったが、両の手を差し出して抱えていたものたちを手放すと、笑えるほど呆気なく零れ落ちていった。どうして今まで大事にしていたのだろうと疑問を抱くほど、あっさりとした別れだった。足元で壊れ崩れた残骸に埋もれるようにして奈落の底まで落ちて行くことは簡単なことだった。彼女のいない世界は色がなく、辺りは灰を被っている。落ちた先が暗闇でも大差はない。そう、思っていたのだ。そう、思わないと、駄目だった。また、駄目になってしまうと。
違う、"また"、俺が駄目にしてしまうと。
「あの子には黙っていてあげる。その代わり、」
真っ赤に濡れたつま先が血の付いた刃物のように鼻先へ向けられる。人工的な匂いと甘いバニラの香りに気が変になりそうだった。数年ぶりに再開した二人の間には懐かしさも甘さもなく、冷凍されていた思い出が熟れ崩れ、互いの傷を舐め合って滴った血が零れ落ちるばかりだった。仄かに香る金木犀の香りは、部屋の窓から漂って来る。無意識になまえ、と呼んでしまいそうになる口元を無理矢理閉じると、目敏く見つけた目の前の女がにたりと笑った。
「ねぇ、"蓮二くん"?」
それは脅しを孕んだ合図だった。そのまま舌先を伸ばして、目を閉じて血の付いたナイフに舌を這わせると、痺れるような痛みが舌先に走った気がした。大事に抱えていた彼女との約束を踏みにじる自分が許せなくて、それならいっそ、このまま下賎なことをする舌を噛み切って死んでしまおうかという考えが頭を過る。
「ふっ、ふふ、」
耳障りな笑い声が不快で、彼女を引き摺り落としてベッドへ傾れ込んだ。手早くボタンに手を掛けてジャケットを脱いで床に落とし、次いでネクタイを緩めて抜き取ると、何故だかなまえを手放したように思えた。そしてはた、と気付く。連絡を入れ忘れた、と。それは俺の奥底に残った、最後の砦だった。
なまえに対する、俺のこの異様な愛情を押し殺す為の、最後の。
懺悔にも似た、俺の。
「きて、"蓮二くん"」
呪いのようになまえの真似をする悪趣味な女に苛立った。なまえを汚されないようきつく瞼を閉じて、彼女を忘れよることばかりを考えながら、噎せ返るほどきついバニラの香りに噛み付いた。
なまえの目を細めて笑うあの笑顔も、コートの裾を握る細い指も小さな手も、彼女に瓜二つの後ろ姿も、透き通るような声も、艶のある細い髪の毛も、日だまりのようなあの匂いも。なまえを象るもの全てを記憶の箱に押し込め、無理矢理に蓋をして鍵をかけた。思考を遮断して、ただ淡々と事を行えば、何もかもをそのままにして今まで通り日常を過ごす事が出来る。なまえを傷付けようとするものから守れるのはもう俺しか居ないと、真っ当そうな薄っぺらい理由をつけて彼女を裏切る自分に嫌気が差した。突ついたら途端に崩れ落ちそうになる心を押し止めようと、気付かれないように息を殺して奥歯を噛み締めた。
シーツに押し倒した女の散らばる髪の色素の薄さに、それがなまえではないと再認識すると、乾いた笑みが漏れた。狂っている、と苦言を呈した友人の顔が脳裏を掠める。狂っている。確かに、そうだ。なまえをこの手に閉じ込めておきたいと思うこの気持ちは、狂っている。唇を動かさずにその言葉を咀嚼すると、手先が凍えて震えそうになった。その事実を認めたく無くて、誤摩化すように女の首筋をゆっくりと舐め上げると、それは甘い匂いに反して ひどく苦い味が、した。
「もうすぐ蓮二が帰って来るね」
見ていたドラマが終わり、テレビがCMを流し始めたころ、幸村君が思い出したようにそう呟いた。私は微かな動揺を悟られないように両手で持っていたマグカップに口をつけた。どう返事をしようか思案しながら、ゆっくりとホットミルクを流し込むと、柔らかなハチミツの甘さが舌先に触れた。そうしているうちに、沈黙を破るようにわざとらしく幸村君が溜め息を吐いた。
「なまえが居なくなると寂しくなるなぁ、」
「じゃあまた結婚すれば良いんじゃない?」
「ふっ、手厳しい。もうしばらくは結婚は懲り懲りなんだけど、」
「……近い近い」
「良いじゃないか、これくらい。あ、もしかして照れてるのかい?」
「……はぁ」
左手で近すぎる距離にある顔を突っ張ると、眉を下げて幸村君は微笑んだ。最近、彼はこうやって顔をだらしなくさせて微笑むことが多いくなっている気がする。その原因をくすぐったく感じるせいで指摘は出来ないけれど、存在を肯定されているような気がして少しだけホッとしている自分が居た。
私を避けて仕事に逃げた蓮二くんは、果たして帰ってくるのだろうかと、ふと、目を逸らしている事実が頭を過る。期待して置いて行かれるならばいっそ、ここで幸村君に甘えて居座った方が良いんじゃないかと、傷付かない方法ばかりを探し続けている。
だって、まだ怖いのだ。彼を追った先でまたあの日のように拒絶されたら、と考えると、足が竦んで身動きが取れなくなってしまう。もう、どうすれば良いか分からない。ただ、足元が崩れ落ちていく恐怖ばかりが、蓮二くんの側で私を待っているように思えてならない。
それまで黙っていた幸村君がおもむろに腕を伸ばした。何だと思って見を竦めると、安心させるように二、三度私の頭を撫でた。突然のことに目を見開いて黙っていると、その優しさに固まっていた体がゆっくりと解けていった。けれど、それとは反対に、彼の大きい手に包まれていると、蓮二くんの手を思い出してしまって心が詰まる心地がした。
「さて、もう寝る時間だね。早く歯磨きをしておいで」
そう言った幸村君はおやすみと囁いて自室へと戻って行った。思考を読まれてる、と理解し、途端に恥ずかしくなった私は、誤摩化すようにマグカップを乱暴にシンクへ浸けてお風呂場へと急いだ。
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