15
辺りを見回すとおぼろげな輪郭を持つ部屋のクリーム色の壁がうつり、視線を動かすとキャラメル色のソファが鎮座していているのが見えた。一つ、瞬きをすると、まるでそこに始めからいたかのようにお父さんが新聞を広げて座っていた。彼は私の視線に気付き、眼鏡の奥で柔らかい笑みを浮かべて新聞を側へのローテーブルに畳んで置いた。手を広げ、低いけれどざらついていない、柔らかな声が私の名前を呼ぶ。立ち上がって駆け寄ろうとしたが、その視界の低さに驚いて立ち止まってしまった。慌てて自分の手を見ると、小さくなった手の平と短い指と爪があった。戸惑いながら視線をあげると、お父さんは不思議そうな顔をして腰を上げた。どんどんと近づく距離に比例するように、期待に胸が膨らんだ。なんだかもどかしくなって強請るように顔を上げて手を伸ばすと、彼は私の目を見て一瞬だけ視線を逸らした。見間違いかと思うほど短い時間は、けれど途方も無い時間のように思えた。それは深くて暗い溝になって私とお父さんの隙間に横たわり、抱き上げられても素直に喜ぶことが出来なかった。触れられない膜を通して触れられている感覚に堪らなくなって、泣きそうになった心を押し殺した。上滑りする感情を誤摩化してはしゃいだ声をあげると、お父さんは困ったように笑ってお母さんの名前を呼んだ。いつの間に居たのだろう、と振り向いた視線の先にはあの頃と変わらない姿のお母さんが立っていて、柔らかな笑みを浮かべて近づいてきた。無意識に、お母さんの方へ片腕を伸ばす。くすりと小さく笑って私の手を握り、顔を覗き込まれた。その際に髪の毛が揺れて微かに香ったバニラの甘い匂いにじくりと胸が痛んだ。嫌だ、と手を放して目を閉じて耳を塞ぐと、二人は消えて白い空間に一人で取り残された。浅くなる呼吸に、抗うように体を丸めた。見ないようにしていたものが、一人きりになるとどんどんと姿を現して私を苛む。それの正体を考えたくなくて、頭から掻き消したくて、溺れるように本を読み、勉強をした。眠るのが怖くて、明かりをつけながら蓮二くんが帰ってくるのをひたすら待った。捨てられたと、思わないように。色んな理由を付けて、冷たくなったご飯を捨てながら、これは私じゃないと言い聞かせて。
きっとこれは罰なのだ。
だってそうでしょう、蓮二くん。
ぎゅっと肩を抱いて踞る。ぐずぐずとクリーム色から暗闇に変化して行く壁から意識を遠ざけるように、肩を抱いて目を閉じた。その体勢のまま、長い時間が経った。手に力が入らなくて、そのまま床に横になると、固く冷たいそれに体温が飲み込まれる心地がした。もういいかな、と瞼を震わせる。もう、いいかな。そう思った瞬間、朦朧とする視界の中で、一筋の明かりが見えた気がした。
瞼を押し上げると白い天井がうつった。次いで消毒液の匂いがして、ここが保健室だということを理解した。どうしてこんな場所に居るんだろう、と体を起こしながら少し前のことを思い出そうとした。が、右手首をついた瞬間、鈍い痛みが走り、予想外の痛みに思わず呻くと、がたりと隣で金属が擦れる物音がした。
「なんじゃ、痛いんか、」
変わった訛りを持つ言葉でそれが誰かを瞬時に理解し、あぁそういえば、とさきほどの事を思い出した。かっこ悪いところを見られてしまった、と居心地の悪さを感じていると、仁王君の手が伸びてきて戸惑いも無く私の額に触れた。
「なっ、に」
「熱は無いようじゃな。それよりもこっちの方が重症か、」
すっと、空いていた右手で手首に触れられ、びくりと肩が揺れた。決して痛んだわけではないけれど、痛むかもしれないと、構えてしまった。それを知ってか知らずか、仁王君は直ぐに手を引いて立ち上がった。
「おまんの携帯から、柳に電話掛けて迎えに来いって言いんしゃい。俺は荷物取って来るから」
「大丈夫、一人で帰れるよ」
「その手首、念のために病院行って診てもらった方がええ。それに、担任も後で連絡しよるじゃろうから、先におまんから、」
「大事にしないで!」
迂闊だった。大声を出してしまった後に、そう気が付いた。仁王君は怪訝そうに眉を顰めた後、何で、と怒ったような声で尋ねた。蓮二くんと喧嘩しているから、と素直に言える筈のない私はもう一度、大丈夫だから、と呟いた。これだと明らかに何かあることを白状しているようなものだ。声が上擦って、手に汗が滲む。仁王君は、じっと見上げていた私の顔を見て目を眇めた後、はあぁぁ、と大きく溜め息を吐いて首の後ろを擦った。
「分かった。荷物持って来るけ」
「へ、」
「柳には連絡入れんように担任にも上手く言っとくから、俺が戻ってくるまで待っとくこと。分かったか?」
仁王君の問いに大きく頷くと、満足そうに目を細めた仁王君はわしわしと何度か頭を撫でた後、目元に触れた。じっと琥珀色の瞳に見つめられ、照れ隠しに首を傾げると、何でも無いと言って気怠げに保健室を出て行った。
自分の手首に視線を落として、右手を擦る。触れるだけなら大丈夫のようだ。調子に乗って右手首を少し振ると、じぃんと熱を孕んだような痛みが走り、奥歯を噛み締めて痛みをやり過ごした。
痛みが治まったころ、スカートのポケットに入れていた携帯を取り出して、画面を見つめる。けれど、青いライトは光らず、暗い画面に私の顔がぼんやりと映るだけだった。
「結局は一人かぁ」
やだなぁ、と呟くと、じわりと視界が滲んだ。押し殺していた数々の彼に対する気持ちが溢れそうになって、堪えようと奥歯を噛み締めた。期待するだけ、無駄なのに。そう、分かっているのに。仁王君に撫でられて、忘れようとしていた蓮二くんの優しい手の平の感触を思い出してしまった。
ぐずぐずと痛み始める心に、それは気のせいだと蓋をする。元から私と蓮二くんは血の繋がりも何もない、ただの他人同士だ。彼の弱みにつけこんで、一緒に居たいと願った私のワガママの期限が切れてしまったから、彼は去って行っただけだ。だから、傷付く理由なんて何もない。そうやって彼への気持ちを押し込めておけば、いつか忘れることができる。
さっきみた、夢みたいに。
捻挫ですねぇ、と言ったお医者さんは目を細めて数回頷いた。はぁ、と私もつられて頷き、看護士さんの手によって頑丈に固定された手首に視線を落とすと、ゆったりとした声で、全治一ヶ月というところかな、と診断された。一ヶ月、と呟いてカレンダーに視線を移しながら、その頃までには蓮二くんと話せるといいなと無意識のうちに考えていた。それを自覚した途端、つきん、とした痛みが走り、誤摩化すように手首を擦った。
診察室を出ると、仁王君がソファから立ち上がって欠伸を一つ漏らした。部活は良かったの、と尋ねると仁王君は夏で引退したから、とつまらなさそうに言った。湿布や痛み止めを処方されて病院を出ると、太陽が傾きつつあった。
自転車を携えた仁王君が私の鞄を奪ってカゴに放り込んだ。重すぎるんじゃなか、と鞄を差して言う仁王君の鞄は私の鞄よりも薄かった。仁王君こそ何も入ってないんじゃないの、と反論すると、仁王君は小さく笑みを浮かべて肩を竦めた。
「はよ乗りんしゃい」
「何で」
「家まで送る」
「電車だから大丈夫だよ、駅までで」
「ええから」
無理矢理腕を引かれて台車の上に乗ると、思ったよりも不安定なその場所に気後れした。そんな私の気配を察したのか、仁王君は左腕を掴んで自分の腰に回した。掴んでおけ、ということなのだろう。振り落とされるのを恐れて力を込めると、仁王君が笑った気配がした。ゆっくりと漕ぎ出した自転車はゆるやかな坂を滑り下りる。夏の名残を含んだ生温い風が頬にあたり、髪の毛が視界を遮ろうとする。振り払おうにも、右手は固定されていてそれは叶わなかった。
「もっと、頼ればええよ」
「え?何か言った?」
「……何も」
風に乗って微かに聞こえた声は耳まで届いていた。聞き間違えかと思ってしまったのは、仁王君の声が消え入りそうなほど暗く儚かったからだ。いつもの飄々とした何を考えているか分からない仁王君のものではない、違う器官から発せられたような声を聞くのは二度目だった。
仁王君の猫背に寄り添うように体を傾けると、棘だらけの心が少しだけ丸くなる心地がする。微かに感じる自分のものではない体温が心地良くて、そのまま、纏っている膜を剥がしてしまいたくなる。
なんて。
「寒く無いか」
「大丈夫。まだ生温いから」
「もう九月も終わるのにな」
「そうだね」
彼岸花が咲き誇る線路沿いを辿って、二つ目の踏切を渡ってしまえば、マンションのエントランスが見えて来る。くん、と仁王君のシャツを引っ張って降りたいと口にした。仁王君は足をついて自転車を止めた。聞き入れてもらえたのだと思って体を離すと、仁王君は私の左手を引いて押し止めた。
「なに、」
「それはこっちの台詞じゃ。なして、ここ?」
目を細めて尋ねる仁王君の語尾には苛立が現れていた。私は柳君が帰って来ないことを悟られるのを恐れて、咄嗟に思いついた言葉を口にした。
「もうすぐ家だし、仁王君の家はここの角を左でしょ」
「別に大した距離じゃないし、おまんを送って戻って来たらええ。だから、そうやってはぐらかすんは止めんか」
「はぐらかしてなんかない」
「柳」
突如発せられた名前に、反射的に肩が震えた。きゅ、と奥歯を噛んで吐き出しそうになる気持ちを塞き止めると、仁王君はつまらなさそうに溜め息を吐いた。ぐっ、と腕を引かれ、前のめりになる。
「あいつは帰って来んよ」
眼前に迫った仁王君が確信めいた様子で諭すように言った。どうして知ってるのかという疑問よりも、何よりも聞きたく無かった言葉を突き付けられた戸惑いの方が大きかった。そうやって人に言われると、蓮二くんに見捨てられたことが確定事項になったように思えて、このまま息が止まってしまいそうだった。
掴まれた腕を振りほどこうと力任せに抗っても、仁王君はびくともしなかった。むしろ、先程よりも指に力が籠り、怒気を孕んだ声が続いた。
「もう、止めろ」
「いや、」
「待ってても、あいつはなまえには振り向かんよ」
「や、だ、」
「これ以上期待しても傷付くだけじゃ。だから、」
咄嗟に掴んだ鞄を無理矢理引き寄せると、何かが千切れた感触がした。けれど、それに構っている余裕なんて無かった。この場から一刻も早く逃げ出したくて鞄を持って彼を振り払おうとしたけれど、彼の手は断固として離れる気配は無かった。そのゴツゴツとした力強い手は、あの時の蓮二くんの手を連想させた。仁王君の側に居たせいで気が緩んでいたのか、考えないようにしていた蓮二くんのことが溢れるように心に氾濫した。視界が揺れて、赤い世界が滲む。
目の前の仁王君がぎょっとして反射的に手を離した。おい、と狼狽えるように声をかける仁王君の声にはもう棘が含まれたものは無かった。けれど、もうダメだった。何もかもを投げ出してしまいたいと思ってしまった。こんなにも辛いなら、蓮二くんもいらないと、そう思ってしまった。そんな自分に愕然として、目の前が真っ暗になった。
「なまえ?」
この場には不釣り合いなゆったりとした声が、私と仁王君の耳に届いた。剥離しそうになっていた意識を戻そうとする、冷たい水のような声だった。聞き覚えのある声にゆるゆると顔をあげると、千切れ落ちたくまのキーホルダーを手にした彼が困ったように笑っていた。声で誰だか分かっていたにも関わらずその姿を確認した途端、心臓が早鐘を打った。目を見開いた私に、彼は小さく首を傾げた。
「ゆき、むらくん」
「うん、久しぶり。ちょっと痩せたみたいだね、夏バテかな?」
幸村君は近づいてきて、はい、とクマのキーホルダーを手渡した。仁王君の怪訝そうな視線を気にする様子も無く、髪も伸びたし、背も伸びたんじゃない、と軽い調子で話し始めた。
「三ヶ月くらい仕事であちこち飛び回っててたんだ。やっと落ち着いて帰ってこれたと思ったら今度は蓮二が出張研修だろう?国内外合わせて一ヶ月も仕事じゃ、なまえも寂しがってると思ってね。あ、そうそう。お土産もいっぱい買ってきたから、今から家で話そうか。なんなら俺の家でも良いけど、」
「おい、」
「それだとお泊まりの用意が必要だね。あ、でも前の奥さんが置いて行った着替えとかもあるからなまえさえよければそれを使ってもいいよ。そうだそうだ、言い忘れてたんだけどまた奥さんに逃げられてさぁ。もう結婚はこりごりだね、なにより、」
「おい」
ガン、と自転車のタイヤが蹴られた音で幸村君は話すのを止めた。仁王君は目を細めて、いつもよりも低いトーンで不機嫌そうに口を開いた。
「誰じゃ、おまん」
「そっちこそ誰かな。と、言いたい所だけど、俺は君を知ってるよ、仁王君」
「……へぇ、」
「真田の娘ちゃんが言ってた通り、食えない感じだねぇ……ふふっ」
「……何がおかしい」
「いや、想像していたよりも面白そうな子だなぁって」
「不愉快じゃ」
「俺は愉快だけどね」
にっこりと笑みを浮かべて仁王君の方をつい、と見た幸村君は、ま、いっか。と一人で納得してくるりと背中を向けた。反対に、仁王君は幸村君に何かを言いたげに口を開き、けれど何も発せずに静かに閉じて私の鞄を引っ張った。持つ、と小さく呟いて乱暴に鞄を入れられたカゴは、がしゃんと小さく呻きをあげた。
歩き出した仁王君に慌ててついて行こうとすると、幸村君が首だけで振り返って目を細めた。その目には先程とは違う鋭さを秘めていて、こくり、と唾を飲み込んだ。
「なまえ、後で迎えに行くから」
「え、」
「話しがあるんだ。君に、」
「話しって、」
なに、と言おうとしたところで仁王君に腕を引かれた。幸村君は首を傾げて、口角を上げた。分かっているくせに、と言いたげな仕草に、全てを見透かされている心地がして肩が震えた。
「なまえ。逃げちゃダメだよ」
「行くぞ、」
ぐい、と腕を引かれて転びそうになりながら足を踏み出すと、地面がぐにゃりとゼリーみたいに柔らかくなった。ズブズブと、何かに飲み込まれていく感覚は私の不安を駆り立てた。その感覚が急に怖いものに思え、"彼"に縋りたくなってしまった。けれど、辺りを見回してもあの背中はどこにもなく、半歩前を歩く銀色がゆらゆらと揺らめくばかりだった。
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