14
目隠しの世界はどこまでも優しかった。けれど、それがいつまでも続かないことは分かっていた。私が蓮二くんを好きだと自覚したときから、ずっと。それでも見えないフリをしていれば、親子のようなこの関係が半永久的に続くと信じていた。私の彼に対する恋愛感情に蓋をして、彼女の娘であり、彼の娘であり続ければ、彼は私を捨てることが出来ないと知っていた。だから、卑怯な私は彼の側に居続ける為にずっと演じて来た。傷付いたとしても、蓮二くんが居なくなってしまうより、ずっとマシだった。
そう、思っていたのに。
「……なまえ?帰っているのか?」
ソファの上で考え事をしていたら、いつの間にか眠っていたらしい。玄関先から響く心地良い声に、意識がふわりと浮き上がる。側にあった携帯の時計を見ると、帰ってきてから随分と時間が経過していた。ぱちん、と電気が付けられて眩さに目が眩んだ。ネクタイを片手で解こうとしていた蓮二くんは目を見開いて、困ったように眉を下げた。
「また制服のまま寝ていたのか」
「……ダメ?」
「ダメではないが、制服が皺にな……る、」
がたん、と音がして彼の持っていた鞄が床に落下した。中の書類が散らばって白い海が広がる。駆け寄ろうとした蓮二くんがそれに足を取られて転びそうになり、思わず小さく笑うと、やっとのことで辿り着いた蓮二くんはソファに手をかけて存在を確かめるような手つきで私の頬を撫でた。くすぐったくて目を細めると、蓮二くんはそのまま私の頭を抱くように包み込んだ。ひさしぶりに嗅ぐ彼の匂いは、私と同じ洗剤の匂いがした。
「よか、った、本当に、」
耳元で零れ落ちる粒のような彼の声に、罪悪感で胸が痛んだ。甘い匂いがしないことにホッとしていた自分が急に汚いものに思えて、彼の背中に腕をまわすことが躊躇われた。胸の奥から、ドロドロとした体液が溢れて、指先から垂れ落ちる。そんな気がして、距離を置きたいのに、久しぶりに触れた体温が心地良くて祈るように目を瞑った。
「蓮二くん、」
今だけだから、と言い訳をして、縋るように彼のシャツを握ると、奥底に仕舞っておいたものが溢れそうになった。けれど、その気持ちはもう彼に伝わることはないのだろう。彼が私の名前を呼んでくれる度に生まれて来るこの愛おしさは、これから先もずっと胸に隠しておく。だから、どうか、今だけは、許して欲しい。彼の優しさに付け入る狡い私を。彼の全てが欲しいと思ってしまう、傲慢な私を。
「どうした?」
私の気持ちを知らない彼は、慈しむように私を見つめる。真っ白なシーツに包まれているような安心感に私は懐かしい気持ちになった。けれど、あの頃に戻るには私は色んなことを知り過ぎてしまった。後ろめたくて、堪らなくて、でも伝えたくて、目を瞑って彼の頬に小さくキスをした。これで最後だと、自分の気持ちに言い聞かせるように。彼の表情を見ることが怖くて、唇を離して俯いて立ち上がろうとすると、左手首を握られて、くん、とつんのめった。
「……いかないでくれ、」
聞き逃しそうなほどか細く呟かれた言葉に振り返ると、蓮二くんは表情を歪めていた。何も見えていないような彼の目を見て、ぎくり、とした。これ以上、彼に近づいてはいけないと本能が告げる。今度は声を失うだけじゃ済まされないと言った仁王君の言葉が頭に鳴り響く。それなのに、手を振り払うことも、逃げ出すことも出来ないでいた。
先ほどよりも強い力に引き摺られて倒れ込むと、視界が反転した。顔の側で縫い付けられた手首が、熱を孕んでいるようにじりじりと痛んだ。何が彼の気に触れたのだろう。ガラガラと、積み木が崩れる音を聞きながら、鼻の奥がツンとした。泣きたいわけじゃない。悲しいわけでもない。けれど、まだ、必死になって彼との関係を紡ぐ手段を探している自分が悲しかった。
蛍光灯の光を背負った蓮二くんの髪が静かに私の首筋へ、触れた。
何を言えば彼女を傷付けずに済むのだろうか。
そればかりを考えている俺の方が、きっと、傷付きたく無いのだろうけど。
「……サボりか、」
「仁王君こそ」
夏休みが過ぎ、数ヶ月ぶりに声をかけた俺に対して、なまえは目を細めて答えた。日傘をくるくると回す彼女の肩に、傘の縁に舞う透かし模様が揺れる。
「暑いの、嫌いなんだよね」
「図書室好きじゃの」
「涼める場所、あそこしか知らないから」
たん、となまえの上履きが地面を蹴る。ぺたん、と俺の上履きが鳴く。この道は図書室までのショートカットができるが、屋外のせいでこの季節に通るやつは少ない。なまえは小さな文庫本を手に持って、くるくると日傘を回し続ける。
「……俺と話すの、嫌か」
「別に。なんで?」
「いや、」
「反対、でしょ。仁王君が私と話すの嫌なんだよ」
「……え、」
「そういう顔、してる」
目を伏せて歩くなまえの体が小さく見えた。たった数ヶ月、話さなかっただけで、彼女と俺の間には小さなヒビがそこかしこに生まれていた。突ついたら割れそうな、卵の殻より脆い膜。
「……俺は、」
「馴れてるから、大丈夫だよ。無理しなくても」
「は、」
「大丈夫」
拒絶されるような物言いに堪らなくなって日傘を掴んでいた手を掴むと、肩を揺らしたなまえが顔をあげた。ゆれる瞳は、さきほどの透かし模様を連想させる。儚くて、脆い、消えてしまいそうなそれに、指先に力が籠る。底のなしの不安と矛先を見失った怒りが胃でとぐろを巻く。
「なんでそんな自分に言い聞かせるように言うんじゃ。なんで、そんな顔して大丈夫なわけが、なか、」
「……じゃあ、どうして、あの雨の日から仁王君は私に近づかなくなったの」
「それ、は、」
彼女の質問の鋭さに、思わず身を引いて怯んでしまった。手先が凍えているように震えていた。懺悔にも似た気持ちは拭っても吐いても溢れてくるのに、彼女を前にすると途端に何も言えなくなってしまう。
気まずい空気から逃れるようになまえから目を逸らすと、少し遅れて傘がスローモーションで地面に落下した。
「どうして、」
俺はまた選択を間違えてしまったようだ。そう、悟ったのは傘が落下してしまってからだった。顔をあげると、小さな彼女の姿がうつる。ぽたぽたと涙を流しながら首を擦る彼女は項垂れていて、表情は見えなかった。けれど、その声音が全てを物語っていた。
ぐらり、となまえの体が傾く。
傘よりも醜く、彼女が落下する。
俺はその瞬間を、スローモーションで送られる映画のワンシーンを見ているように、助けようともせず、ただ、傍観していた。
酷いことだとは思わなかった。けれど、触れ合う肌の温度が冷たくて、凍えてしまうかと思った。こんなにも近くにいるのに、こんなにも強くお互いを認識しているはずなのに、どうして果てがないほど寂しいのだろう。霞を抱きしめているようなこの実感の無い幸福を、私は求めていたわけじゃないのに。
蓮二くんが触れた首筋は冷たかった。彼の濡れた唇を伝って、ひやりとしたものが首筋を通り過ぎてゆく。一緒に零れ落ちた熱を孕んだ名前は、私のものじゃなかった。波紋のように広がる急速な寒さは、心を凍らせるには充分だった。蓮二くんの髪に指を這わせ、軽く抱きすくめると、心の棘が目の奥に刺さって涙腺を刺激した。だから、ぼたぼたとみっともないほど流れる涙は、蓮二くんの所為じゃ無い。そう言いたいのに、滲む視界の先で呆然とした表情で私を見ている蓮二くんに、何も言うことができない。息を吸うのがやっとな私を、蓮二くんは曖昧な距離から見つめている。震える指先が彼のシャツの袖を掴んで、置いて行かないでとワガママを言っている。それに気付いた蓮二くんが、ゆっくりと口を開いた。けれど、それは私の欲しかった言葉ではなかった。
「すまない、なまえ、すまない、」
蓮二くんは、私へと伸ばした指先を触れる直前で引いて俯いた。それが合図だった。目を細めた蓮二くんが、諦めたように笑う。そうして、シャツを掴んでいた私の手を優しく解いた。皺が寄ったそこは、私と蓮二くんの心のようだった。隙間だらけで、ぐちゃぐちゃな、修復不可能な関係。
「すまない、」
視線を合わせないよう努める蓮二くんの拒絶に、私は目の前が真っ暗になってしまった。全ての景色が色を失い、静止する。その景色から切り取られたように静かに立ち上がって自室へと戻る蓮二くんの背中は遠く、引き止めることも許されないような気がした。
そうして、数日、数週間、数ヶ月と、すれ違う日々を過ごしてしまい、話し合うタイミングも、数ヶ月前から楽しみにしていた彼の誕生日も過ぎてしまった。
家に帰ってもあの冬と同じ暗闇が広がっていて、また彼を見失ってしまったのだと自覚した。私が眠る頃に帰宅して、私が起きる前に出て行ってしまう蓮二くんに、何をどう言えば許してもらえるかも分からず、何を許して欲しいのかも分からず、ただドアに耳を付けて彼の静かな足音とドアの閉まる音を聞く日々が続いた。
それでも、晩ご飯を作ることだけはやめなかった。蓮二くんは何も言わず、置いてある料理を残さず平らげてくれていて、それはまだここに居ても良いと言われているようで、たったそれだけのことで泣きたくなるほど嬉しかった。
けれど、ある日を境に、蓮二くんは帰ってこなくなった。
なまえは重かった。体中の線が切れた彼女は、泥人形を抱いているみたいに生きている感触が無かった。それはとても、恐ろしいことのように思えた。
「貧血……」
「みたい。勉強の頑張りすぎかしら?栄養バランスの良い食事を取って、健康に過ごさないと本番で熱が出たら元も子もないって、仁王君から言ってあげなさい」
「はぁ、」
「もうすぐ職員会議が始まるから、ちょっとの間見ててあげてくれる?あと、起きても安静にしているように言い聞かせてね」
普段おっとりとしている保健室の先生がこんなにも頼もしく見えたのは初めてだった。彼女の白い背中を見送った後、ベッドで眠るなまえの顔を覗き込んだ。シーツに埋もれてしまいそうなほど白い顔は、何かあったのだと知るには充分すぎるほどだった。それなのに、俺はずっと気付かなかった。いや、気付かなかったというよりも、気付かないフリをしていたに等しい。狡い駆け引きをして、結局俺はなまえが倒れるまで何もしなかった。彼女が手を伸ばせば、助けてと言えば、手を差し出す準備はできていた。それなのに、敢えて何もしなかったのは、俺が彼女にとっての"柳蓮二”のような存在でありたかったからだ。彼女から頼りにされないと意味が無いと、余計な意地を張った結果がこれならば、責任は俺にもあった。あの冬の日のように、雑踏に紛れて泣きそうな顔をしていたなまえを助けた時のように、手を伸ばしてやれば良かった。
傷付けたいわけじゃない。幸せになって欲しい。笑って欲しい。心からそう願っている。それなのに、全てが雁字搦めになってしまって、上手くいかない。
「……なまえ、」
手の甲で彼女の頬を擦ると、少しだけ深い呼吸をした彼女が、唇を緩めた。小さく漏れたあいつの名前を呼ぶ声は切なげで、胸の痛みを誤摩化すようになまえの手を包み込んだ。
「今度こそ、」
そう言いつつも、あの人の言葉が鮮明に甦る。ぐっ、と奥歯を噛んで、違うと言い聞かせるように頭を振る。けれどそれはじわじわと呪いのように俺の思考に侵入し、耳元で小さく囁く。
『可哀想な境遇の人間に弱いものね?』
違う、そうじゃない、そんなこと思っていない。本当に好きだった。どれだけ傷付けられても、踏みつぶされても、嬲られても、好きだった。どうしようもなく、恋い焦がれていた。本当に大好きだった。
膝を折って、ベッドの縁に腕を預けて、目を瞑った。ずっと昔、まだあの人が学生だった頃の柔らかな思い出が瞼の裏に甦って、じわりと熱を孕んだ。優しい記憶の中で、俺を呼んでいる。
「俺がなまえの幸せと引き換えに手にしたのは、一体何だったんじゃろうな、」
ただ、あんたの笑顔が見たかった、それだけなのに。