You are far. | ナノ
13

 私が幼かった頃、お母さんに教えて貰ったことがあった。絶対に秘密よ、と囁かれたその言葉を、私は今までどうして忘れていたのだろう。この大雨のせいか、水に溶けて効力を失った封筒の糊が剥がれるように、本当にするりと、記憶の底にしまってあったものを思い出したのだ。
 


 あいつの瞳に影が差すようになったのは、間違いなくあの時からだった。
 高校二年の秋、確か金木犀の匂いがしていた日の放課後。彼女の両親の命日であるその日は、一年の内で、おそらく自分の誕生日よりも大切にしている、彼女の特別な日。あの柳とやらと毎年過ごすという話しは、一年前に偶然聞いていた。そしてその時に、彼女が何者なのか。彼女が大事な宝物の名前でも言うかのように呟く柳という名を持つ男が、あの写真の中の人物である事を知った。
 俺は彼女が腹立たしかった。八つ当たりだとも分かっていた。友人に、楽しそうに柳との事を話すなまえと、あの人に告白の返事も満足に貰えず適当にはぐらかされ良いように振り回される俺。同じような立ち位置の筈なのに、彼女は俺と違ってとても幸せそうだった。目の前に暗闇しか広がっていない俺は、寂しくて、憎くて、半ば自暴自棄になっていた。

 ―――だから、あの時も。
 
「ここに連れて来て二人で話すほど仲が深まっているなんて聞いてないわ」
 はぁ、と溜め息を吐いた彼女は、目を細めてテーブルの上で溢れて溶け掛かっている氷を人差し指で小さく弾いた。
「……いつまでこんな事するつもりじゃ」
「はぐらかさないで。どうして、あの子と仲良くしてるの?」
「クラスメイトじゃって言うとる」
「ふーん……」
 彼女の手が伸びて前髪に触れる。するりと頬を伝った白い手からは、微かにメロンソーダの甘い人工的な匂いがした。
「可哀想な境遇の人に、雅治君は昔から弱いものね。もしかして、情でも湧いた?」
 彼女はゆったりと言い聞かせるように声を出し、眉を寄せて俺を見た。俺は鼻で笑って、彼女へ笑みを浮かべて首を傾げる。
「……まさか」
 何もかもを閉じ込めて、蓋をして。あの教室にいた時のなまえの顔を払拭するように、口角を引き上げて笑うように言った。金木犀の香りが、鼻先を掠めた気がした。
 彼女は訝しげに目を細めて俺を見つめた。ぴくり、と体が竦む。こういう目をする時の彼女は、俺を傷付ける言葉を平気で使うのだ。そしてそれは例外無く今回も訪れる。
「ふうん。真田君の娘さんも私に敵意を剥き出しにしていたから、団結して守ってるのかと思って驚いちゃった。けど、そんな事出来るわけないわよね。あなたさえ居なかったら、あの子はこんな事にはならなかったんだもの。今さら虫の良い事なんて、言えるはずないよね」
 切り揃えられた指の爪に白い粉が詰まっているのが見えた。伸ばされた手に頬を撫でられ、そこから皮膚が冷たく凍っていく。表情を無くした俺を、満足そうにみる彼女を見ながら、いつからこんな風になってしまったのだろうと、ぼんやりと考えている自分が居た。
「可哀想な雅治君に、良い事を教えてあげる」
「なんじゃ、急に」
「どうして私が柳君と関係を続けていられるか、知りたく無い?」
 コン、と低いヒールの踵がフローリングを鳴らす。激しくなる雨音と彼女のわざとらしい笑みが不快で眉を寄せると、彼女はきゅう、と目を細めて、鞄の中から少し色あせている小さな手帳を取り出した。そして慣れたようにページをめくり、首を傾げて俺の方へと差し出した。そこには小さなプリクラが数枚貼られ、その隣には簡素な日記が綴られていた。見た事がある四つ並んだ顔は、見慣れてしまったあの憎い写真の中の住人達だった。
「何?これ」
「……その日、大学に献血の車が来ててね。献血した記念にその後四人で撮りに行ったの」
「で、これとアンタらに何の関係あるんじゃ?」
「ポイントはその落書きのとこよ。私はO型、柳君はA型。それは置いておくとして、残りの二つが問題であり鍵なの」
「はぁ?こんなもんの何が……」 
 パン、と頭の中で閃光が走った。まさか、と記憶を辿り、あの時偶然聞こえた彼女の言葉を思い出す。手が汗ばみ、息を飲んだ。無言になった俺から手帳を抜き取った彼女は、それを大事そうに鞄にしまい込んだ。そうして、猫のように目を細めた彼女は俺を上目遣いで見つめながら、震えそうになる手に冷たい手を重ねた。

「乾君は君と同じAB型。そして珂那子はA型。でも、なまえちゃんの血液型は……」

 ねぇ、知ってる?と意味深な笑みを浮かべて俺を見遣る彼女の目は、深紅を帯びていた。
 
 カンカンと警報機が鳴り響く。遮断機の先で、なまえは首を傾げている。あの教室に居た時と同じ、大きめのセーターを羽織って、裸足のまま。その口が薄く開いたかと思えば、憎いあいつの名前を象る。見たく無くて文庫本を投げると、金木犀の香りが混じる突風が吹いて、あの時みたいにページが勢い良く翻る。墜落して止まったページには、色あせた写真が栞のように挟まっていて。

 教室の外で丸井と話していた時に聞こえたくだらない会話が頭の中に、ひびく。女子は占いとか好きだよなぁ、と言ってガムを噛む丸井に相槌を打ちながら、O型とは予想外だったな、と考えていた。自分と同じ匂いを感じていたからか、勝手にAB型だと思っていた。それなら、どれだけ良かっただろう。
 
「……なんちゅう話しじゃ、」
「ふっ。声が震えてるわよ、雅治君」
 自分の勘の良さを恨めしく思ったのは初めてだった。何故だか俺が泣きそうになってしまった。嫌になって目を固く閉じると同時に、放課後の暗い図書室で、俺の目を不思議そうに覗き込むなまえが思い浮かんだ。

 ―――あぁ、なんて。



 蓮二くんの部屋に無断で入ることは、この年齢になるとほとんど無かった。彼に遠慮をしていたのか、それとも嫌われるのが怖かったのか。多分、どちらも正解で、どちらも不正解だ。蓮二くんの顔がちらつくと、胸が小さく呻く。視線の先を辿ることが怖くて、何も見ないフリをし始めたのはいつからだっけ。
 彼の部屋の前に立つと、心臓がひと際大きく跳ねた。何度もノックをして、ドアに耳をぴたりとつけて、彼がいないことを確かめる。今日は残業だとこの間から言っていたので、いないと頭では分かっている筈なのに、もしかすると、という不安が拭えなかった。
 遠くで雷鳴が響いて我に返った。いい加減入らないと、と覚悟を決めてドアノブに手を掛けた。思ったよりもすんなりと開くドアを開けながら小さく謝罪をして、部屋に踏み入った。久しぶりに入った彼の部屋は相変わらず物が少なくて、目当てのものを見つけるのにそう時間は掛からなかった。
 ウォールナットで出来た一番古い本棚の、上から四段目の左から三冊目の本を引き抜くと、薄くて小さな鍵がフローリングに滑り落ちた。鈍く蛍光灯の光を反射するそれを拾って見つめていると、頭の奥でお母さんの声がひびく。

『良いことを教えてあげるわ、なまえ。あなたの父さんと蓮二はね、本棚の四段目、左から三冊目辺りに大事なものを隠すのよ。昔三人で読んだ本にはそこに秘密の部屋への入り口があったのだけれど、そんなこと出来ないから大切なものを隠すことにしたみたい。小さい頃から、ずっとよ、ずっと。呆れちゃうわよね。でも、これは二人には内緒にしておくのよ』

 小さなそれを彼の机の引き出しへ差し込んで回すと、呆気ないほど簡単に開いてしまった。その引き出しに手を掛けると、みっともないほど手が震えはじめた。何度深呼吸しても収まる気配は無い。
 無理に開く必要はないんだと言い聞かせても、手は引き出しを離そうとはしなかった。そこに意思があるみたいに、頑に答えを求めていた。疑いは膨らむばかりで、そのせいで蓮二くんとの距離も開くばかりで、それを塞き止めるには、もうこれしかなかった。何か些細なことでいい。蓮二くんを引き止められる何かがあれば、それだけで。他には何も望まないから。

 指先に力を入れて、ぐ、と少し固い引き出しを引くと、小さなファイルとノートが出て来た。側にはお父さんとお母さんの遺品である汚れた文庫本。そして、薄水色の、封筒の束。少しの好奇心が働いてしまい、思わず丁寧に重ねられたそれを手に取って宛名を見ると、そこには見たことがある名前が、お母さんの字で丁寧に書かれていた。お母さんとあの人に接点なんてあったのだろうか、と不思議になってそれを見つめる。それにしても、どうしてこの手紙を蓮二くんが持っているのだろう。宛先不明で送り返されているその封筒に並ぶ字は、確かに近所の子供に習字を教えていたお母さんのものだった。どういうこと、と消印が一番古い物を手にとって封を開くと、一枚の古びた写真が紙に引っ掛かって滑り落ちた。まさか写真が入ってると思わなかった私は慌ててそれを掴もうと膝を折った。けれど、そこに写っている人物を見た途端、指先がぴたりと止まった。戸惑いを孕んで早くなる心臓を落ち着かせようと胸に手をやって、深呼吸をする。それでも震えが止まらない指先を叱咤しながら、縋るように手紙を読んだ。それなのに。
 読み進むにつれ、それが救いを差し伸べるものではなく、私を深い沼の底へ引きずり込むものだと気付いてしまった。本当は、そんな予感がしていたのに、まだ私は、何かに期待していたのか。一体、何に。
 
 蓮二くんが私を遠ざける理由も、真田さんが憎そうに私を見つめる理由も、バニラの香りのするあの女の人が蓮二くんを私から取り上げた理由も、私の両親が死んでしまった理由も。

 あの人が、私のことを、誰よりも分かる、理由も。

 そしてそれら全部を、大人達が私に隠していた、理由も。

「……なんだ、」

 乾いた笑みがもれる。無理矢理に絞り出した声は不快な物だった。けれど、笑っていないとどうにかなってしまいそうだった。真っ暗な底なし沼に沈んでいくこの感覚を、私は知ってる。世界中でひとりぼっちになってしまう、そんな予感がするこの感覚は、とても懐かしく、香しい金木犀の香りがするのだ。どうせなら、匂いのない季節に取り残してくれれば良かったのに。死んでもなお、私を呪いたかったのだろうか、あの人は。ずっと、怨んでいたのだろうか、私を。あんなに大事にしてくれていたのに、ずっと、憎んでいたのだろうか。

 そして、それは、きっと、蓮二くんも、同じで。

 


「……あいつの本当の親は」
「さぁ?でも、珂那子が母親なのは間違いないわ。柳君は父親が誰かも知ってるみたいだったけど、私にはそこまで関係無いから良いの。まぁでも大方の目星は、」
「良いわけあるか!」
 つい大きくなった声に呼応するように大きな雷鳴が響いた。眉を顰めた彼女は大きく溜め息を吐き、腕を組んでテーブルに腰を浅く掛けた。
「……怖い顔。あの時の柳君みたい」
「それであいつを脅したんか」
「人聞きの悪い。きっかけを作った雅治君も同罪じゃないの?」
 そう言われると何も言い返す事が出来なかった。口を噤んで視線を逸らす俺を見て満足そうに笑った彼女は、つい、と一枚の写真を目の前に掲げた。その中では、嬉しそうに微笑むなまえと照れくさそうに笑う柳が腕を組んで写っていた。まだあどけなさが残るなまえの笑顔は、見た事がないほど幸せそうで。
 その写真を摘んでいた彼女は、俺の視線の先を見て、愉快そうに笑みを深めた。その笑顔に嫌な予感が背筋を伝い、つい上擦った声が出てしまった。
「……何をする、つもりじゃ」
「んー?……雅治君が、まだ自分の立場を理解してないみたいだから、君のやった事を再現してあげようと思って」
「やめ……っ!」
 俺の静止も聞かず、彼女は指に力を入れてその写真を引き裂いた。ビリッ、と不快な音を立てて呆気なく二つに千切れた写真は、伸ばした手をすり抜けて床に落ちていった。あの時は感じなかったはずの痛みが、肺に流れ込んで体を蝕む。目の前がぐらぐらと揺れて、立っていられなかった。
 暗闇で埋め尽くされた沼の真ん中で、なまえが静かに佇んでいる。
「……あの時と同じ事をしただけじゃない。なのに、どうしてそんな顔をするの?」
 彼女の両手に頬を包まれる。その手は心まで凍ってしまいそうに冷ややかだった。床に膝をついた俺を抱きしめた彼女は、耳元へ唇を近づけた。

「あの子にとって雅治君は憎い対象でしかないのよ。勿論、私の方が殺したい程憎いでしょうけど。でも、あの時の真実を知ったら、彼女はもうあなたの事を見向きもしなくなるわ。親しくなって傷付くのは、嫌でしょう?それなら、今まで通り、何も知らないフリをしておけば良いの。ねぇ、そうでしょう?」

 甘いバニラの匂いに包まれて、頭の中がぼんやりとする。クスクスとさざ波のように聞こえて来る小さな声を、雨音が消し去ってくれれば良いのにと、柄にも無い事を思った。