You are far. | ナノ
12

「……不味そうに食うのう」
 仁王君は似合っているようで似合っていないエプロン姿のまま、頬杖をついて不機嫌そうに言った。じっ、と真正面から見られ、口を動かしながら俯くと、今度は隣から真田さんが私の顔を覗き込んだ。
「そうなの?」
「熱かったのではないでしょうか?」
 柳生君は砂糖瓶を持ちながら首を傾げ、仁王君は目を細めてグラタン皿を見つめていた。
「……ふーふーしとったのが見えた気もするが、まぁそういう事にとくなり」
 3人分の視線を注がれ、居心地が悪いなぁと思いながら熱いグラタンを口に含んだ。優しいクリームソースを懐かしく思いながら噛み締めていると、隣に座った真田さんがティーカップを置きながら、それにしても、と口を開いた。
「私と柳生が見つけなかったら、引っ張ってでもなまえを連れて行く気だったの?」
「無理強いはよくありませんよ、仁王君」
「アホか。ちょっとした……まぁサプライズぜよ」
 言葉を濁した仁王君は、「まぁちょっとした詫びぜよ」とか言うつもりだったんだろうな、と察した。別に良いのに、仁王君って変な所で気を遣うよなぁと思いながらチーズをスプーンで掬うと、なかなか途切れなくて四苦八苦した。
「何のです?」
「……秘密」
「なまえに変な事してないでしょうね」
「しとらん。つか真田、最近小煩いぜよ。おまんはこいつの保護者か。しかも寄り道なんてする柄じゃ無かろうに一体どうしたんじゃ」
「良いのよ、ここはある意味仁王の家だしね。一応お母さんに連絡したら、稽古に間に合うように帰って来なさいとしか言われなかったわ」
 アールグレイの香りと石鹸の匂いがする真田さんは、それに、と何かを言いかけて口を閉じた。話しを逸らすように、小さめのスコーンを手に取り、アプリコットのジャムを付けて口に含んだ。唇に付いたジャムを丁寧に拭き取り、静かに嚥下しながら顔を上げて辺りを見回した。
「そういえば、おじいさまはいらっしゃらないのね」
「おじいさまって、むず痒い言い方せんでくれ気色悪い」
「イギリスへご旅行に行かれているそうですよ」
 ぽんぽんと弾む会話の内容が分からない私は、ただ黙々とエビグラタンを口に収めていた。不思議と疎外感を感じずに居られたのは、真田さんと柳生君から補足されるように話しを振られるからだ。
 ここのお店は仁王君のおじいさんが趣味で経営しているカフェ・バーらしいという事や、彼のおじいさんは旅行が好きだという事や、ここの仕事をたまに仁王君が手伝っている事などを、話しの腰を折らずに私に話してくれる真田さんや柳生君に相槌を打ちながら、だからコーヒーの匂いがしたんだ、と一人で納得していた。
「本当だ、眉間に皺を寄せて食べなくても」
 呆れたように真田さんが笑い、最後の一口を飲み込んだ後、そんな事無いよと反論すると、柳生君は微笑みながらティーカップを置いた。柳生君にはこの理由がバレているんじゃないかと、何の確証も無いけれど思ってしまった。
「真田」
 メロンソーダのコップに付いた水滴を指でなぞりながら、仁王君は視線を上げた真田さんの手首を指差した。彼女の視線が腕にある時計へと吸い込まれるのと、柳生君が荷物を持って立ち上がるのはほぼ同時の事だった。
「えっ!もうこんな時間!?」
「16分発の電車に乗れば間に合いますよ。それでは仁王君、なまえさん、さようなら」
「ちょっと柳生!分かってたなら早く言ってよ、もう!じゃ、なまえ、気をつけて帰るのよ」
「真田、俺には?」
「なまえに何かしたら承知しないから。紅茶美味しかったわ、ごちそうさま」
「どーいたしまして?」
 首を傾げた仁王君に口角を上げながら、長い漆黒の髪を靡かせて真田さんは嵐のように帰っていった。カランコロン、とドアに備え付けられたベルが、私と仁王君しかいない空間に響き渡る。
 手持ち無沙汰だったのか、ストローでグラスの中の緑を掻き回していた仁王君は、ふと思いついたようにメロンソーダの海で溺れていたチェリーを摘んで私の鼻先に突き付けた。人工的なピンク色は、あの捨てられた傘を連想させる。
「ん」
「……いらないよ?」
「まぁ、そう言わんと」
 唇に押しあてられ、渋々と少し齧ると、仁王君は目を細めた。
「なんかエロいのう」
「……真田さんに言いつけてやる」
「それはやめんしゃい」
 頬杖をついた仁王君は困ったように笑い、それから静かに表情を曇らせた。残念ながら、話しを違う方へ導く巧みな話術を持ちあわせていない私は、何を言われるのか察しがつきながらもただ黙っているしか無かった。
「……昨日は、すまんかった」
 小さな渦を作っていた海でストローが氷に挟まれてくるくると旋回していた。仁王君はテーブルの上で組んだ指を忙しなく動かしながら、視線をソーダ水へと注いでいた。視線が渦を描き、小さく揺れ動く。
「本当は、あんな事を言うつもりは、無かったんじゃが、急に怖くなってしもうた。だからって、おまんを傷付けて良い理由にはなっとらんのじゃけど……」
 カラコロと口の中でチェリーの種を転がしていた私に、仁王君は紙ナプキンを差し出した。吐き出した種を包んでお皿の端へ寄せながら、視線を彷徨わせる仁王君の方へ視線を投げた。
「怖い?」
「……おまんも怖いじゃろ、人に心の中を見られんのは。特にそれが、―――恋心、だったら」
 その口で言うか、と思ったけれど、それは仁王君も同じだったようで、彼は気まずそうに小さく謝った。私は、別に良いのに、と言いながら、自分の性格の悪さに嫌気がさしていた。黒い何かに心が蝕まれていきそうだ。元来性格は良くはない方だったけれど、最近は捻くれすぎていると自分でも思う。
 陰鬱な思考を払拭するように、側にあったグラスの水に口を付けると、仄かにレモンの香りがした。喉を通る爽やかなそれに幾分か気持ちが落ち着き、そういえばさっき、と違和感を覚えた彼の言葉を反芻し、え、と無意識に口に出していた。
「仁王君の、恋心?」
「……聞き逃したかと思ったんに、案外聞いとるんやのう」
 小さな舌打ちが聞こえ、次いでズズズと豪快にストローでソーダを飲み干した仁王君は、頬杖をついて窓の外へと視線をやった。それにつられて同じように視線を動かすと、眼下では色んな人が忙しなく行き交っていた。いつの間にか降っていた雨を拒絶するように色とりどりの花が咲いている。

「どうしようもなく好きで好きでたまらんくて、殺してやりたいくらいに憎い女がおったんじゃけど」

 仁王君の声は普段と変わらない平坦なものだった。窓の外に視線を預けたまま、世間話でもするような軽い言い方に違和感を感じつつも、うん、と相槌を打って頷いた。顔を上げた時に見た彼の横顔は、物騒な事を言った割には、触れると途端に崩れてしまいそうな脆さを醸し出していて、違和感の正体が薄らと分かった気がした。
「その人はヘタしたら俺の母親って言っても通じるような年で、それなのに顔だけは実年齢より若いかもしれん。8くらいはサバ読んでも多分騙せる。笑顔がチャームポイントとか言っておきながら、みっともないくらいに寂しがり屋で泣き虫なくせに、学校の先生をしちょる」
 暗唱するような勢いで紡がれた中の、先生、という言葉に思わずピクリと肩が動いた。それに気付いているのか、いないのか。どうでもよさそうに投げやりに言い切った仁王君は静かに息を吐き、指で窓に小さく丸を描いた。
「……大人は勝手じゃよ。自分が傷付くのは怖いくせに、人を平気で傷付ける」
 丸の左隣に三角を書き、その下に丸っこい花を付け足す。その花の下に星形を二つ。星形は線で結ばれていて、その線の上にハートが重ねられた。
「俺はあの人に何度もあいつの事を聞かされて来た。大事そうに手帳に仕舞ってある古ぼけた写真をわざわざ取り出して見せて、人の気も知らんとうっとりした顔で、何度も何度も呪文みたいに、この人が柳君、この人が乾君って」
 三角と星形の一つを順に指差し、仁王君は二人の名前を冷たい声音で紡いだ。
 突然降ってきた名前に目を見開くと、丸と三角の間に大きなバツ印を書いた仁王君は、眉を下げて寂しそうに笑った。その表情に喉の奥が詰まったように苦しくなってグラスへ口を付けると、仁王君は丸の下に歪な四角を書いた。
「……敵わんかった。思い出に生きるあの人の心に俺が入る隙間なんて欠片も無かった。そこで諦めれば良かったんじゃが、俺の心は引き摺られても抉られても踏まれても嬲られても決して白旗は上げようとせんかった。両足から底なし沼に沈んでいくのが分かっていても、まだあの人が振り向いてくれるかもしれないと心のどこかで信じとった。だから、」
 すっ、と仁王君は息を吸い込み、
「―――だから、俺はあの時、賭けに出たんじゃよ」
 手のひらで丸と三角を荒々しく拭った。結露が付いた手を拭おうともせず、仁王君は目を細めて、そして、
「俺があの日、二人を近づけたんじゃよ、なまえ。お前さんが嬉しそうに友人に柳君とやらと夕食を取るんじゃと話しとったのを知っとった上で」
 ストローを摘んだ仁王君が、目の前に空洞を突き出す。伸ばされたストローの先で、仁王君の琥珀色の瞳が炎のように揺れていた。
「そして、それがどれだけ二人にとって特別な日か、知っとった。俺も、あの人も、……もちろん、柳君とやらも」
 ストローの先から薄緑色の液体がポタリと溢れた。
 緑色の、粟立った、人工的な色。
 
「……蓮二くんは、悪く無い」
「……へぇ」
「あの時、どうして蓮二くんが来れなかったのか、知ってる。だから、大丈夫だよ」
 仁王君はストローを落とし、私の顎を掴んで視線を鋭くさせた。勢い良くテーブルに上げた膝にぶつかったグラスが倒れ、氷が溢れる音がした。急に上を向かされせいか、鼻の奥がツンと痛んだ。
 何が大丈夫なものか。虚勢を張って、これ以上傷付かないように防御線を張り巡らすので必死なのに。
 仁王君はそんな私を見透かしたように目を細め、呆れたように口角を上げた。
「そんな面して一体何が大丈夫なんじゃ」
「仁王君こそ、必死な顔だね」
「……何?」
「仁王君は、その沼に一人で沈むのが怖いんだよ」
 ピクリと神経質そうに仁王君の眉が動いた。構わずに口を開こうとすると、仁王君はぐっ、と右手でそれを遮った。
 その時、背後であのくぐもったドアベルの音がした。
 顔を上げる仁王君の髪が頬に掛かり、くすぐったくて身を捩るけれど、仁王君は退いてくれる気配を見せない。小さく溜息を吐いた仁王君は、ドアの閉まる音がした後、おい、と入って来た人物に声を掛けた。
「……CLOSEDの文字が見えんかったんか」
「見えたけど、明かりが付いて……あら、お取り込み中?」
 甘い声に、びくりと肩が跳ねた。背筋に嫌な汗が流れ、つま先から感覚が無くなっていくようだった。体が石みたいに固まって、息も出来なくなる。仁王君は私の変化に気付いたのか、顎に回していた手を頭の上にやり、あやすように優しく叩いた。
「おー、取り込んどる取り込んどる。さっさと出て行ってくれんかの」
「えー、どうしよう?ね、新しい彼女?紹介してくれないの?」
「また今度」
「そう言って、雅治くんは上手くはぐらかすんでしょう?」
 コン、とヒールがフローリングを鳴らす。徐々に近づいて来る音に息が詰まる。指の先が震え、全身があの人を拒絶していた。
 仁王君が舌打ちをし、テーブルから慣れたように素早く降り、近づいて来た足音の方へと駆け寄った。その途端、ハイヒールの音が止み、雨が窓を叩く音が響いた。
「必死だね、どうしたの?」
「止めてくれんか、そういうの。干渉されるのもいい加減迷惑じゃき」
「いつもなら勝手にしろと言わんばかりの態度なのに。そんなに大切なんだ、彼女のこと。なんだか妬けちゃうなぁ」
 柔らかい言葉は毒のようだった。先程の仁王君の表情が瞼の裏で再生され、心臓が掴まれたように痛み、息を飲んだ。彼女はきっと、悪意なんて欠片も無いのだろうけど、それは充分な殺傷能力を持っていた。
 もし、と考えた。もし、こんな事を蓮二くんに言われたら、と。
 頭の奥が痛み、雨音が大きく鳴り響く。目の前が真っ白になりそうになった時、勢いよくドアが開く音がして、ガラガラとベルが不満そうに鳴り響いた。
「仁王!」
 大きな張りのある声が割り込み、目を見開いた。空気が固まる気配がしたけれど、声の主は直ぐに現状を察したのか、高らかにローファーの音を響かせてこちらへ近づいて来た。
「忘れ物したの。突然ごめんなさい、直ぐに出るので。あと、この子も帰ります。じゃあね、仁王」
 視界が青に覆われ、ビニールの人工的な匂いに包まれる。被せられた合羽を下に引かれ、視界の透明な部分以外、すっぽりと青に包まれた。私の鞄を素早く持った真田さんが私の手首を引き、足早に二人の側を通り過ぎた。その時、伏せていた瞼のあたりに視線を感じた。
 とり憑かれたように顔を上げると、目を見開いたあの人と視線がぶつかり合った。相手の驚きが隠せない表情に、目が離せなくなる。サーモンピンクの唇をした彼女が、か細い腕を操られるように不自然な動作で手を伸ばした。
「……ねぇ、あなた、」
 しかし、その腕は私が纏った青を掠るだけだった。心臓の音が耳のすぐ側で聞こえているみたいに鼓動が早かった。もし、捕まっていたら。想像して、目を伏せる。
 蓮二くんを返して、とでも言うのだろうか。
 私はそう言う自分を想像し、下唇を噛んで瞼を震わせた。
 それは、泣きたくなるほど惨めで、悲しい想像だった。



 真田さんに手を引かれ、古びたドアを抜け出し、少し急な階段を手すりも使わずに下りると、目の前には雨によって輪郭が曖昧になった世界が広がっていた。真田さんは持っていた赤い傘を広げ、私の手を繋いだまま駅の方へと歩き出した。何も言わない彼女の背中をぼんやりと見ながら、心が落ち着くのが分かった。
 ありがとう、と言う代わりに、温かい体温を弱く握り返すと、それまで前を見据えていた彼女が急に振り返った。
「……こうなるかもしれないって、嫌な予感がしたの。仁王があなたに話したそうにしてたから二人きりにしたんだけど、どうしても不安で」
「……知ってたんだ」 
「……ごめんなさい」
 真田さんは感情を露にするのを厭わない。眉を下げて、唇を歪め、本当にすまなさそうに謝る彼女が羨ましいと思った。その素直さがあれば、蓮二くんを許してあげる事がもっと簡単に出来るんじゃないかと、そう思わずにはいられなかった。
 自分の感情が雁字搦めになって身動きが取れない。離れて行く蓮二くんを呼び止める事が出来たら、私は他に何もいらないのに。ただそれだけなのに、どうしてこうも難しいのだろう。
  真田さんは私の目を見据え、ぎゅうとより一層繋いだ手に力を込めた。く、と息が詰まり、目が離せなくなる。苦しそうに眉を寄せた真田さんが、あの時の刑事さんと被ってみえた。
「なまえ、今から私が言う事は、あなたにとって酷かも知れない。けど、今のあなたを見ていたら、言わなきゃいけないと思うの」
「なに、を……」
「……あなたは絶対に、柳さんを好きになってはいけない。だって、あなたは、」
 真田さんの口の動きがスローモーションになり、周囲の音が止んだ。思考の隅で、真っ白い部屋がフラッシュバックする。あの部屋で、真田という刑事の人が今の彼女と同じ表情をしていた。二つの白い塊。真っ白になる視界。その前に、私は何かを見た。折れ曲がった指?閉じられた扉?違う。

「なまえ……あなたは、」

 傘を落として私の両肩を掴んだ真田さんは悲痛そうに目を瞑り、震える唇で私の名前を呼んだ。
 その声を聞いたとき、パチン、と記憶の箱の扉が一つ開いた音がした。
 あの時。扉が開かれる音が静かだった部屋に響いた。真っ白な静寂と反対の、乱暴で荒々しい音だった。反射的に顔を上げて、振り返った私が見たものは、

「……あなたは、似すぎてるの。……柳さんが好きだった、あなたのお母さんに」

 掠れた声でお母さんの名前を呼びながら、膝から崩れ落ちる、蓮二くん、だ。