You are far. | ナノ
11

 夕日が傾くにつれ、空は夜に浸食されていく。
 だんだんと小さくなるグラウンドで部活中の陸上部の声も、補習をやっているクラスの先生の声も、水の中にいるみたいにもやもやと不安定な音をしていた。それなのに、仁王君の口から紡がれた音だけははっきりとしていて、世界はどうして私に優しく無いのだろうと恨めしく思った。
 仁王君は、何も言えずにただ呼吸をしようと必死な私から一度視線を逸らした。そして先程までの弱々しい態度も声の温度も表情も何もかもを綺麗にしまい込み、ニヤリと猫のように笑って私へと視線を戻した。その表情に、お腹の底が熱くなるのが自分でも分かった。
「……なーんて、冗談じゃ、じょーだん」
 おまん、普段は表情変えんのに、あの男の事になるとそんなにも素直なんやのう。喜怒哀楽がハッキリしすぎて正直つまらんぜよ。
 茶化すようにそう言った仁王君はゆっくりと立ち上がり、固まる私の肩に手を置いた。軽く叩きながら、もう下校時刻だから一緒に帰ろうと言葉を添えた。
 乾いた音が響き、右手が痛んだ。振り払われた手をポケットへと仕舞いながら、仁王君は黙った。
 息の仕方を忘れてしまったように、頭に酸素が回らない。けれど一刻も早くこの場所から出て行きたかった私は、ぼんやりと膜を張ろうとする思考を頭の隅に追いやって、痛む右手で鞄を掴んで勢い良く立ち上がった。顔を上げて仁王君を睨みつけると、彼は何を考えているのか分からない、無表情に近い顔をしていた。
「笑えない冗談は止めて。もう絶対にそんな嘘は私の前で言わないで」
「……おまんは何も分かっとらんし、学んどらん。何で傷付くって分かっとって、あの男をまだ好いとるんじゃ」
「好きじゃ無い。もう、諦めた。だから、声も出るようになったって私言ったよね?」
「いーや、違う。まだお前は愛されたがっとるよ、あの男に。その顔を見とったら手に取るように分かる」
「……そんな事無い。私は、」
「じゃがの、なまえ。あいつは絶対にお前を一番には愛さんよ」
「やめてよっ!」
 甲高い声で虚勢を張っても、握りしめた手は震えたままだった。踏み越えられるのが怖くて、彼を睨みつける。それなのに、仁王君は疲弊しきっていた私の心に無表情で踏み込んで来る。必死になって守ってきた聖域が踏み荒らされ、埃が舞った。そこで初めて、海で拾った貝殻や、初めてあげたプレゼントや、自慢げに見せた満点のテストや、二人で撮った写真や、甘すぎるココアといった彼との思い出達が、とっくの昔に埃塗れになっていたのだと気が付いた。
 それを認めた途端、目の前が真っ白になって体中の力が抜けた。つま先から背筋にかけて、ひやりとした何かが通りすぎ、重力に従うようにぺたりと床に座り込んだ。もうじき夏が来るというのに、教室の床はひやりと冷たかった。
 きっと私は冬に取り残されたままなのだ。蓮二くんを見失ってしまったあの冬から、私はずっと途方にくれている。どこにも行けずに、曖昧な笑みを浮かべて彼の隣に並ぼうと必死な私は、まだマフラーを巻いて、買って貰った空色の傘を握りしめて彼が振り返ってくれるのを待っている。冷蔵庫みたいに暗く冷たい玄関と、喉まで焼けてしまいそうなあの胸の痛みから目を逸らしながら。
 目の前にしゃがんだ仁王君は、呆然としていた私の腕を引き寄せて、額を肩に押し付けるように抱きしめた。仁王君の薄っぺらい背中は、内臓なんて入っていない空気人形のようだ。針で突ついたら途端に萎んでしまいそうなほど心許ない仁王君は、小さく「ごめん」と呟いた。「言い過ぎた」と、いつもより低いトーンで発せられた彼の声が耳を通り過ぎる。仁王君の肩口が段々と色濃くなるのを他人事のように見つめながら、蓮二くんが葬儀の後に抱きしめてくれた時の事を思い出していた。

 あのときは、誰よりも私に一番近いのは蓮二くんだと思っていた。そして、蓮二くんに一番近いのは私だと思っていた。大事な人を失ってしまった悲しみを、同じ痛みで共有出来るのは私達二人だけだった。だから、これからも私を一番に理解してくれるのは蓮二くんだと信じて疑わなかったし、私も蓮二くんを一番理解出来ると、信じていた。それは祈りにも似ていた。
 でも、私はもう蓮二くんを一番には理解出来ないし、彼も私を一番に理解してくれることは無いのだ。その事実を飲み込むのが怖くて、ずっと避けて来た。これ以上傷付きたくなんか無いから、ずっと無視して来た。まだ私が一番だと信じたかった。そんな不確かで不安定なものは、もうとっくに波に流されてどこか遠くへ行ってしまったというのに。
 信じていたものがくずれていくとき、ガラスの玉が粉々になるような、そんな荒々しいものだと思っていたけれど、実際は氷が溶けてゆくさまに似ていた。
 静かに溶けた水分は涙となって仁王君のシャツに濃い色の滲みを作っていく。私は声も出さずに、心の底で溜まっていた氷を溶かすように泣き続けた。仁王君は静かに肩を貸しながら、時々、小さな謝罪を零した。彼のシャツからは、微かにコーヒーの苦い香りがした。




「ねぇ、なまえ。あんた血液型何だったっけ?Aだっけ?」
 休み時間に雑誌の占いページを開いていたクラスメイトのりっちゃんが、紙パックジュースのストローを噛みながら視線を寄越した。なにが、と雑誌を覗き込もうとすると、ダメ!と言って雑誌を抱きかかえられてしまった。
「で、何型?」
「なまえはBじゃなかったっけ?」
「え?ABじゃないの?」
「ちょっと、誰一人当たってないし。Oだよ、O」
「あら、こりゃ失敬」
「へー。なんか意外。Aっぽいのに」
 三人の友人達は首を傾げながら私を見た。面倒だったので結果を催促するように雑誌を指差すと、そうだったそうだった、と言ってりっちゃんが雑誌を机の上に広げた。
「今週のなまえは……『懐かしい出会いがあるでしょう。家の掃除をすると思わぬものを発見するかも?ラッキーアイテムはクマのキーホルダー。付けていると気になる彼と偶然出会え距離が縮まること間違い無し!』だって」
「……ふーん」
「ちょっとなまえ、これ結構当たるって評判なんだよ。何てったって誕生日と名前の字数と血液型で出してるし」
「えー、なんか胡散臭い……」
「まぁまぁそんな事言わないの!ほら、クマのキーホルダーあげるから」
「え?何これ」
「クマモン。この間父親が出張で熊本行ってたらしくて買って来たの。丁度いいしなまえにあげる」
 りっちゃんがいそいそと制鞄に黒いクマらしきキャラクターのキーホルダーを付け始め、ちょっと、と抗議すると何故かウィンクを寄越された。顔を上げるとえっちゃんとしーちゃんまでニヤニヤと笑みを浮かべていて、眉を寄せると隣に座っていたえっちゃんが大袈裟に私の肩を叩いて、内緒話しでもするように耳に手を近づけた。
「あたしらには隠す事無いでしょ」
「何が?」
「に・お・う・く・ん。昨日の帰りに手繋いで帰ってたって、陸上部の子が目撃してるんだからね」
「は?」
「恍けようったってそうはいかないんだから。ネタは上がってんのよ!」
「本当に水臭いなぁ。なまえって大人しそうなのに意外と大胆なんだから!きゃっ!」
 どんどんと加速するテンションに付いて行けず、手なんて繋いでないと否定すると、じゃあ一緒に帰ったことは認めるんだね、と追撃され、言い訳が思いつかずつい口ごもると、三人はやっぱり!と普段よりもワントーン高い声を出して、辺りを見回した後に素早く頭を突き合わせた。腕を引かれ、無理矢理その輪の中に入れられると、えっちゃんは人差し指を私の目の前に立てて、いい?と真剣な表情で口を開いた。
「……私には丸井君紹介してね」
「……誰それ?」
「赤い髪の人。テニス部」
「はいはい!あたしジャッカル君!」
「私は柳生君ね。覚えた?」
「……だから、私と仁王君はそんな関係じゃ無いって」
「隠さなくてもいいじゃん。あ、もしかして照れてるの?」
「やだー!クールなフリして案外可愛い所あんじゃんなまえ!」
「だから違うって。それは誤解で、」
「あっ、噂をすれば仁王君」
 しーちゃんの声に顔を上げると、丁度仁王君が教室に入ってくる所だった。ドア越しに赤い髪の人に手を挙げて挨拶をした後、振り返った彼とばっちり目が合ってしまい、逸らすのも変だったので小さく微笑むと、仁王君は表情を変えずに自分の机の方、ではなく、何故かこちらに向かって来て、私は無理矢理上げていた口角を元に戻した。彼が近づいてくるにつれ、視線は徐々に上へと上がっていく。とん、と前に立った仁王君は私を見下げながら、今日、と小さく呟いた。
「待っとって。ミーティングだけじゃから、すぐ終わる」
 それだけ言った仁王君は私の返事も聞かずに自分の席へ戻っていった。えっちゃんがからかうように左から小突いてきたけれど、急に何もかもが面倒になってされるがままで居た。そんな私を嘲笑うように、鞄についたクマがこちらを向きながら揺れていた。