You are far. | ナノ
10

 するすると人の間を縫って料理を吟味していると、幸村君が言っていたサーモンのマリネが目に付いた。確かに美味しそう、とつやつやと光るサーモンピンクを見つめる。シャキシャキのタマネギ、色とりどりのパプリカを侍らせたサーモンが、私を選んでと誘惑する。しょうがないな、と満更でもない気持ちでお皿を取ろうとすると、反対方向から誰かの腕が伸びてきて、同じ皿を掴んでしまった。
 驚いて顔をあげると、相手の人も同じタイミングで顔をあげた。その人の顔を見て、手から力が抜けそうになった。慌てて指先に力を込めて耐えたけれど、胸が早鐘を打つのは止められない。嫌な汗が背中を這うように流れ、鼻腔を掠めた甘い匂いに泣きたくなった。
「……もしかして、あなた、なまえちゃん?」
 どうして、と掴み掛かりたかった。その胸元にある糸みたいに細い金色のネックレスを引きちぎって、シャンパンゴールドのお酒を掛けて、サーモンのマリネが几帳面に並べられたテーブルを引っくり返す事が出来たら。けれど、そんな事が出来る筈も無い無力な私は、凶暴な思考回路を焼き切りながら、息を飲んで立ち竦む事しか出来ない。
 ―――バニラの香りに眩暈がする。
「懐かしいね。……私の事、覚えてる?」
 口元に弧を描いて、彼女は笑みを浮かべた。
 忘れられるなら忘れてしまいたかった。
 崩れ落ちるあなたの手を支えながら、真っ白な空間に取り残されている私を忘れられる事が出来たら。
 あの時、彼に縋って甘く名前を呼ぶあなたの声を忘れる事が出来たら。
「目元が珂那子……お母さんそっくりになったわね。あぁ、でも……瞳はお父さん似なのね。ふふ、変わらない」
 遠慮なく伸ばされ、輪郭をなぞるように這った手は生暖かく、気持ちが悪い。避ける術を知らない私は石像のように固まるしかなかった。呪いのようだ、これは。甘いバニラの匂いが、私の足首を地面に縛り付けて離さない。頭の奥で、古い記憶の箱が、彼女の香りに呼応するようにカタカタと震える音がした。
 彼女は私の瞳をじっと見つめ、目を細めた。何かを思い出すように、遠くを見るように。彼女の瞳の中で、先生、と赤いなわとびを持った私が呼び掛けた気がした。
 つやつやとグロスが光る彼女の唇が、ぷつ、と開いた。
「……やっぱり、珂那子と、」
「何をしている!」
 ぐん、と強い力に引き寄せられ、肩が軋んだ気がした。どちらともなく離された皿は、支える力を失って静かに落下していった。サーモンが鮮やかな緑に体を横たえる音は、不快さを滲ませる生々しい音なのだろう。
 きっと、緑のドレスを着た彼女に沈んで死んでいくのは、ピンクのドレスを着た私。馬鹿みたいな事を考えながら、蓮二くんに掴まれた手首が熱い事に安心して息を吐いた。前を向くと、目を見開いた彼女が、あら、と呟いた。
「柳君、どうしたの?怖い顔」
「……なまえには近づくな」
「……随分な言い方。偶然会っただけよ、ね?」
 早口で捲し立てられる言葉は遮る事を許さない圧力があった。彼女と睨み合っていた蓮二くんが私の手首を引いて、背を向けて歩き出した。
「またね、なまえちゃん」
 ひらひらと振られる手は繊細で、あっさりと折れてしまいそうだった。私の手首を掴む蓮二くんの指とは正反対なようで似ているそれ。私の知らない場所で、あの手が彼の手と繋ぎ合っているのかと思うと、息が詰まりそうになった。
 披露宴をしていた中庭から、式場の方へ歩き、建物の中に入って側にあったソファへ連れられ、促されるまま腰を下ろした。離れて行く手を引き止めたい気持ちを、スカートの裾を掴んでやり過ごした。
「なまえ、何もされなかったか?」
 蓮二くんはネクタイを少し緩め、眉を下げて私の顔を覗き込んだ。蓮二くんの言っている意味が分からなくて首を傾げると、彼はバツが悪そうに下を向き、いや、と首を振った。
「何も無かったのなら、それで良い。……すまなかった」
 零れ落ちるように紡がれた謝罪は何に対するものなのだろう。天窓から差し込む光が、キラキラと埃に反射して輝くのを見ながら、蓮二くんが私にしている数々の隠し事の事を思った。
 私も彼に対して隠し事をしている。そうやって、いつの間にか出来た溝に、隠し事を投げ入れて二人の隙間を一生懸命埋めようとしている私達は、端から見れば滑稽なのだろう。真田さんの哀れみを帯びた視線が溝に落とされるのを見ていながら、今さら掘り返すことなんて出来ないと当事者である私達は目を背ける。底に溜まった嘘は、腐敗が進んで今にも崩れ落ちそうになっているのに。
 一昨年の誕生日にあげた、蓮二くんが身に付けているネクタイが、私が蓮二くんの側に居る証のように思える。友達に誘われて短期のアルバイトをして、初めて貰ったお給料で買ったネクタイを、蓮二くんは泣きそうになりながら受け取ってくれた。彼の顔を見て、大袈裟だなぁと笑っていたあの頃は、確かに幸せだったのに。
「……戻ろうか。そろそろ、式も終わりだろう」
 もう戻れないのに焦がれてしまうこの気持ちを、綺麗に消す術を私は知らない。



「……のう、」
 うっかりすると聞き逃してしまいそうな声で引き止められ、帰ろうとしていた私の足が止まった。振り返ると、仁王君が気怠そうに鞄の上に手を組みながら、じっとこちらを見つめていた。私の横を通り過ぎて行くクラスの子に義務のように手を振り返しながら、仁王君の真意を探るように目を瞬いた。
「……ちょっと、付き合ってくれんか」
 教室から人が居なくなったのを確認した仁王君が呟くように言った。制服は衣替えをして、すっかり夏の雰囲気を身に纏っている。窓から入って来る風は生温く体にまとわりつく。けれど、彼の声は雪みたいに冷たい。
 顔を上げた仁王君は、眉を潜め、目を伏せた。半ば無意識に手を伸ばして背中を擦ると、仁王君は目を見開き、猫みたいにゆっくりと瞬きをした。
「……なん?」
「……苦しそうだったから、」
 何かあったの、と言いかけて、やめた。踏み越えてはいけない線を、本能が告げていた。仁王君は私の手を嫌がる事も、煩わしそうにする事もせず、されるがまま、目を瞑って顔を伏せた。私は彼の背中を擦り続けた。野良猫の背を撫でるように、彼の微かな温度を確かめるように。
「……おまんは、俺を怨んでええよ」
 耳に届いた言葉が理解出来ずに、擦っていた手を止めた。仁王君は伏せていた体を起こし、隣の席に座っていた私の方へ体を向けた。
「嫌われとう無かったから、ずっと言い出せんかった」
「……何の話し?」
 思考回路が仁王君の言葉を拾って縺れていく。仁王君はバツが悪そうに下を向き、項垂れるように肩を落とした。サラサラと肩から滑り落ちる髪は雪のように白い。
「……おまんに、話さなあかんことがある」
「だから、何の、」
「あの女の事」
 顔を上げた仁王君が間髪を入れずに答えた。彼の瞳がゆらゆらと不安げな色を落とし、力強く発した声は虚勢のように思えた。複雑な表情を見せる彼に戸惑い、今度は私が俯いた。ソックタッチが剥がれたのか、靴下が左右で不揃いなのが見えた。
「……あの女?」
 掠れた声はこの季節に似合わないものだった。疑問系だけれど、頭の隅で誰の事かよく分かっていた。認めたく無くて、否定をして欲しくて、縋るように付けた疑問符を彼はゆっくりと取払い、私に突き付けた。冬のあの日の事が、脳裏にそっと甦った。
「おまんが結婚式で会った女。あの人と、おまんの大事にしとるあいつを会わせたのは、」
 聞きたく無くて耳を塞ぎたくなった。けれど、私の指先は凍ったように動かない。

「他でもない……俺じゃ」