You are far. | ナノ
09

 シャンパングラスに入れられたピンクグレープフルーツジュースはソーダ水が入っていて、口に含むと舌に柔らかな刺激が走った。視線を上げて辺りを見回すけれど、知っている顔がそう直ぐに見つかる筈も無く、つま先に引っ掛けていたミュールをとうとう脱いでしまった。小指の辺りが赤くなっているのが見え、大人になりきれない自分を恨めしく思った。
 グラスを腰掛けていた階段に置いて、膝に頬杖をついてフォーマルな服に身を包んだ大人達を観察する。どことなく気品が漂っている人達はみな一様に笑みを浮かべている。祝いの席なのだから、その表情が普通。それなのに私の頬は感覚が無くなったように信号を受け取らない。そんな私を見ても、幸村君は怒るどころか、ありがとうと言ってくれた。幸せそうに緩む目元と口元に笑みを浮かべて。




 本当は六月にしたいんだけどね、と眉を下げた幸村君から招待状を渡されたのは1ヶ月前の事だった。蓮二くんの前で幸村君と会うのは久しぶりだったから、そういう風に振る舞った。彼に対する隠し事は止まない雪のように降り積もっていく。底の方のものは溶けて、凍って、鈍器みたいに固くなっていた。
 あのクリスマスの朝から、蓮二くんに対して大きな期待をしなくなった私は、喉につかえていた膜が剥がれ落ちたように自然と声が出るようになった。けれど、それを蓮二くんに教えなかった。教えてしまったら、蓮二くんは今以上に私を気に掛けてくれなくなる。それが何よりも怖かった。

「なまえ、ドレスを買いに行こう」
 春になって、桜が散り始めた頃、幸村君からの招待状を見つめていた私に、蓮二くんが振り返りながら言った。
 私は流されるように月日を費やし、いつの間にか最終学年になっていた。二年の終わりに理系のクラスを選んだら、仁王君と一緒になった。彼は困った顔をしながら、また一年よろしくな、と言ってブリキの人形みたいに歪に笑った。
 彼が私に何かを言う事は、あの冬以来無くなっていた。まるで、初めから何も無かったかのように。冬の図書館での出来事も、街の中で突然現れた事も、全て私が作り出した幻想のように思えた。

 てっきり制服で行くのだと思っていた私は首を傾げた。結婚式は制服で行くものでは無いのか。そんな常識すらも、私には分からない。狭い世界で生きているのだと、こういう事に直面した時にだけ実感したりする。蓮二くんはソファに座る私の頭をゆっくりと撫で、目を合わせるように少しだけ屈んだ。
「今日は久しぶりの休日だからな。買い物ついでに出掛けよう。何、遠慮する事は無いさ」
 シャツから見えた手首に光る、金色の糸みたいなブレスレットが、私の視界の端でチラつく。蜘蛛の糸みたいに繊細なのに、異様な存在感を放つそれ。クリスマスの時から、何度か見かけるようになったそれを、蓮二くんは気付いて無いと思っている。だから、私も見えないフリをしてやり過ごす。もう、こんな事にも慣れてしまった。
 蓮二くんの目を見たく無くてゆっくりと頷くと、彼はもう一度私の頭を撫で、出掛ける用意をしなさいと静かに言った。



「なまえ!こんな所に居たの?」
 階段に座り込んでぼんやりと色とりどりのドレスや飲み物を眺めていると、視界に鮮やかな赤が割り込んで来た。慌ててやってくる彼女の着物の袖がひらひらと舞うのを見ながら、蝶みたいだと思った。
「……乱れるよ、着物」
「大丈夫、気崩さないように走るのは慣れてるから。自転車も乗れるのよ」
「うそー」
「本当。慣れればどうってことは無いわ」
 真田さんは悪戯っぽく笑いながら黒く長い髪を耳にかけた。薄らと首筋に張り付く髪が色っぽい。潔癖でウブな彼女にそういう俗っぽい事を言うと怒られるから、黙っておくけれど。
「……なまえ、まだ柳さんに秘密にしているの?」
「うん。だから、今もあなたの陰に入りながら話してるんだよ。それが?」
「……ううん、何でも」
 表情を強ばらせ、身を固くした彼女が、カニのように横に数歩移動し、私の正面に立った。視界を覆っていた芝生も、白いテーブルも、カラフルなドレスも飲み物も、彼女の赤に遮られる。真っ赤な世界は、彼女なりの気遣いが作り上げた世界。彼女の着物には、蝶ではなく鶴が描かれているのだと、目の前に現れた白い鳥と目が合ってから初めて気付いた。
「ねぇ、なまえ、」
「……どうしたの、泣きそうな声で。珍しいね」
 眉を下げた真田さんに首を傾げた。それにしても、足の小指が痛くて仕方が無い。なんとなく下を向くと、膝の辺りで曲線を描いて萎むピンクのスカートが目に入る。落ち着いたサーモンピンクのこのドレスは蓮二くんに見立てて貰った物なのに、何故かクリスマスの日に仁王君に貰ったガーベラを思い出す。
 あのガーベラは、数日後、色付いていた花弁を涙のように零れさせて枯れていった。けれど、花に結ばれた赤いリボンだけが、血のように生々しく茎に纏わり付いて生きていた。
「私、」
「おい、そこで何をしているんだ」
 真田さんの言葉を遮るように、低い男の人の声が聞こえた。その声を聞いて目を見開いた真田さんが勢い良く振り返り、彼女の髪が鼻先数センチのすれすれのところを横切った。危ないなぁ、と思いながら、いい加減ミュールを履こうと屈んで手を伸ばそうとするのと、上から灰色のジャケットが落ちて来るのは同時の事だった。
「誰だか知らんが、女子がそのような無防備な格好をするものではない」
「お父さん!」
 真田さんの悲鳴に近いような声に目を見開いて顔を上げた。巻き戻される白い病室と灰色の風景が、彼の背後で移ろいゆく。彼もきっと同じだったのだろう。私の顔を見て目を見開いていた。戸惑いと、驚きと、その奥に見え隠れする血のように、炎のように赤い憎悪。隠しきれないのは、彼の性分なのだろうなと、あの頃と同じ気持ちで他人事のように思った。
「……君は、」
「真田?どうかした?大きな声を出し…て…」
 真っ白のタキシードに身を包んだ幸村君が、驚いたように顔を覗かせた。私を真っ直ぐに見下げる真田と呼ばれたあの刑事さんと、その娘である真田さんと、本日の主役である幸村君の視線を受けて、私は視線を彷徨わせていた。落ち着かない。喉がカラカラと乾涸びていく。それなのに、手はじっとりと湿っていて気持ちが悪い。
 その状況にいち早く救いの手を差し出したのは幸村君だった。
「真田、なまえが驚いてるから。ちょっとあっちに行っててくれる?」
「幸村、だが、しかし、」
「話しは後で聞くから。ほら、お嬢ちゃんも」
「あ、はい…」
「ん、良い子。ほら、真田も見習いなよ」
「……後で必ず聞くからな」
 差し出した灰色のジャケットを掴んだ刑事さんは、眉を寄せて背を向けた。去って行く赤と灰の背中はしゃんと伸びていて、親子なんだと実感した。羨ましくて目を伏せる私の頭を、幸村君はゆっくりと撫でた。たぶん、この人には全てお見通しなのだろう。
「なまえ、蓮二はここに居ないよ」
「…………バレてたんだ」
「君は隠し事が下手だね」
 鼻の奥がツンとした。耐えきれなくて手で顔を覆うと、幸村君はよしよしと頭を撫でてくれた。どうして私の一番欲しい言葉が、幸村君には分かってしまうのだろう。なのに、どうして一番近い筈の蓮二くんには伝わらないのだろう。
「真田を、許してやってくれるかい?あいつも、不器用な奴なんだ。……ごめんね」
「……知ってる。大丈夫だよ」
「……ありがとう」
 その声の温度が心地良くて、ゆっくりと手を放すと、開けた視界の中は白昼夢のように柔らかな色をしていた。急にお腹が空いた気がしてそっと手をやると、それを見ていた幸村君がくすりと笑った。
「さっきローストビーフが出ていたよ。あと、サーモンのマリネ。それから、小さいケーキも」
「ほんと?」
「あぁ。フォアグラとかもあるけど、俺はサーモンのマリネが美味しかったかな」
「ふぉあぐら…」
「なまえにはまだ早いかもね」
 子供扱いしないで、という意味を込めて立ち上がってこれ見よがしにミュールを見せつけると、幸村君は目を細めて立ち上がった。二、三度頭を撫でて、じゃあね、と去って行く幸村君は大人だった。悔しくなった私は柔らかい芝を踏みしめて、料理があるテーブルの方へと大股で向かった。
 蓮二くんが、私の好きな笑みを浮かべて褒めてくれたドレスを靡かせて。

 頬を掠める風は夏の気配を滲ませていた。