それが彼らの愛なのでした | ナノ

あれはきっと深夜のことだったと思う。だんと廊下になにかが飛び乗るような物音がしてそれから、戸がかっと勢いよく開いた。逆光のせいでそこに立つ人物の顔があまりよく見えず、一瞬だけ侵入者かとも思い身体を強張らせたが、すぐに月明かりによって落とされた影の形で影の主が彼であることを理解した。彼は暗闇のなかぎらりとした目でこちらを強く睨むと、低く呻くような声で出て行け、と言った。彼が強いことはよくわかっている。あの状態なら尚更だ。だからぼくは歯向かうことなく大人しく身体を起こし、眠たい目を擦りながら部屋を出た。戸はもちろんきちんと閉めてやった。やさしさなんかじゃない。それがぼくの、滝に対する、せめてもの同情だ。
実習明けの彼はいつもああだ。ほとんど飛びかけた理性と誰だって感じることの出来るほどの大きな殺気を持って帰ってくる。そうなるともう普段のやさしい、かどうかはわからないけれど、子どものような笑顔の彼ではない。やさしさと愛情の欠落した、ただ一匹の獣だ。ぼくは寝巻きが汚れるのも気にせず、直接地面に腰を下ろした。本当はここに彼に対する憎悪を突き落とすための穴を掘りたいのだが、生憎道具がない。全てを部屋のなかに置いてきてしまった。出て行けって、あそこはぼくの部屋でもあるのに。

「お疲れさま」
「…ああ」

しばらくして部屋に戻ると滝夜叉丸はぐしゃぐしゃになった布団に埋もれるように天井を見上げていた。乱れた寝巻きの間から露出する肌に内出血するほど強く噛まれた跡があるのには、見ないふりをする。滝夜叉丸は見ているだけでぎしぎしという音が聞こえてきそうな体を起こすと、ぐしゃぐしゃになった布団をきれいに直し始めた。滝は、辛くはないのだろうか。もちろんいつも彼がああなわけではない。でもそれに似たものがある。滝は、その彼の強引さに、嫌気が差すことはないのだろうか。

「追い出すような真似をして、すまなかったな。外は寒かっただろう?」
「…滝、はさ」

七松先輩のこと、嫌いになったりはしないの。滝夜叉丸はぼくの突然の問いに一瞬だけ怪訝そうな顔を見せ、その何秒後かにはなにかに裏切られたような、いまにも泣いてしまいそうな表情でこちらを見つめ返した。あっ、と思う。戸を開けっ放しにしたせいで、月明かりが滝が顔に写す心情のひとつひとつを鮮明に切り取って映し出していく。いつもぼくが開け放した戸を閉めるのは、滝の仕事だった。しかし今日の滝の手は、滝の膝の上で死んだように動かない。代わりに滝の唇が、ゆっくりと動いた。

「…嫌いだよ」
「だったらなんで…」
「あんなに酷いお方を、嫌いだと思えない自分が、大嫌いだよ」

そう言うと滝夜叉丸は、喜八郎、戸を閉めてくれ、寒いと言って乱れた寝巻きを慣れた手つきで整え、ぼくに背を向けるようにして何事もなかったかのようにまた布団に横になった。ぼくは、うん、おやすみとなんでもみたいに返事をしたけれど、ぼくに背を向けて、顔を隠すようにして眠る滝夜叉丸を見て、もしかしたら泣いているのかもしれないと思った。それとほぼ同時に、滝夜叉丸を傷つけてしまったのだという深い罪悪感がぼくを襲う。ぼくは滝にあんなことを答えさせるためにあんなことを問うたわけじゃない。ぼくは、滝にあんな顔をさせたかったわけじゃないよ。

「ごめんね」

後悔と罪悪感に冷やされた喉がやっとのことで零したのは、なんとも頼りないそれだった。本当に眠ってしまったのか滝はなにも答えない。こうもなんの音も聞こえないと世界にたったひとりになったような感覚に陥る。いや、ぼくはひとりだ。だから滝と彼の世界には入れないし、無理に入ろうとすれば滝を傷つけ、やがて自分で自分の身を滅ぼすことになるだろう。いままでそれに気づけなくて、ごめん。先程戸が開いたとき彼が立っていたところに自分も同じように立ってみると、彼より幾分か小さな影が床からこちらを見上げている。ぼくは、彼にはなれない。思わず零れ落ちた二度目の謝罪は、滝夜叉丸に届く前に、ぼくの手によって閉められた戸によって、すとんと噛み砕かれあっけなく消えた。

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