もう少し右向いて、と指示すると、彼、平和島静雄は微かに眉を寄せ、電気のついていない月明かりだけの部屋で、椅子に座ったまま、俺の言った通り首を動かした。 ……向きすぎだっての。まあ、いいか。 むしろこのほうがいいかも、と自得し、紙と彼とを交互に見つめ、手を動かす。 白い紙に、彼の姿を描いていく。服の奥の、足、腕、肩。写真よりも、精密に彼を描く。 「シズちゃん、もっと笑ってくれないかなあ」 ずっと仏頂面じゃん、と笑うと、彼は更に鋭くこちらを睨んだ。言うことを聞きそうにもない。 「なんで手前なんか相手に笑わなきゃなんねえんだよ」 「だって、俺は画家。シズちゃんはそのモデル。モデルは笑ってなくっちゃ」 「……元はといえば、臨也、手前のせいだろ」 まあ確かに、彼の言うことにも一理ある。 噂で聞いていた喧嘩人形が、ファミレスで働いていると聞いたから、見に行ったのだが、煽り過ぎたのか、彼がぶち切れ、テーブルを剥がして店内をめちゃくちゃにしたせいで、ファミレスをその場でクビになってしまった。 そこを、俺が拾った。モデルとして。もちろん、給料だって出している。 描きたかったのだ。 気分的には、そう、美しい人間を。 池袋の喧嘩人形と畏怖される男。俺はその噂を聞き、常々、そんな奴の絵を描きたいと思っていた。静物であり風景であり何であり、画家がモデルを求めるのは当然だ。しかもその喧嘩人形が、どんな巨漢で厳つい奴かと思えば、こんな、一見は穏やかそうで、整った容姿、慎重は高いが剛腕というのではなく、すらりとした奴ときた。 描きたい、と思うのは、当たり前。むしろ、彼を描かずに誰を描くというのだ。 俺は、人間が好きだ。愛している。誰よりも、人間を愛している。人間は面白くて仕方がない。だから、描くものも人間だけだ。美人に始まり醜女から平々凡々な奴、あらゆる人間を、その中身を、描きたい。人物画なら、そこそこ名も知られている。 しかし、問題があった。 ファミレスで暴れた平和島静雄は、何人もの店員によって止められようとしていた。止めようとする者の中には、彼よりも体格のいい男もいたのだが、そんな男たちを、彼はその細腕で投げてしまった。 一人相手には十分な人数だと思っていたが、浅はかだった。全然駄目だ。全く相手にならない。どこのヒーローだと思ってしまうほどの爽快な勝ちっぷり。ああ、綺麗な暴力とでも言おうか、遠くから鳥瞰していた俺も、恍惚としてしまうほどだった。 しかし、それは化け物だ。人間じゃあない。そして、俺が愛しているのは、人間だ。化け物なんて、面白くない。だが、そうと気付いたのは、俺が彼を描き始めてからだった。 「とんでもないモノ拾っちゃった感じ? まあ、見てくれはいいんだけど」 「あ?」 「いーや、何でも。あ、ちょっと上向いて」 ぶつぶつ文句を言いながら、彼は俺の言う通り、僅かに顎を上げた。 彼も、俺のモデルという仕事がなければ、無職になってしまうから、一応は指示を聞くのだろう。 手元にある紙と、少し上を向く彼を見比べて、嘆息した。 違う、違う。違うんだ。何かが違う。 今までと同じように、人を描こうとして、実際そうしているつもりなのに、どうも上手くいかない。 一枚の紙に、何人もの平和島静雄がいるが、そのどれもが平和島静雄にならない。 月明かりに揺れる金髪も、細い腕も肩も、麗々しい顔も苛立ちの溢れたその表情も、全部、俺に描けないというのか。 「シズちゃんさあ」 立ち上がり、彼の顔を至近距離で覗き込むと、鋭い眼光が俺を捉えていた。 「もう、ほんっと最悪。なんで上手く描けないんだよ。ムカつく」 死ねばいいのに。そう呟き、彼の唇と重なると、目の前の瞳が見開かれた。一瞬触れただけだったが、離れ際に、ポケットに入れていたナイフで彼の胸を横に真っ直ぐ、えぐるつもりで裂いた。ついでに、彼の唇を思い切り噛んでやると、彼は小さく呻いた。 確認すると、彼の胸に食い込んだはずのナイフには、僅かに鮮烈な血がついていた。 「思いっ切り刺したつもりだったのに、全然切れてないし。気持ち悪いな」 「手前……」 口元を押さえながら、彼は俺を穴が空きそうなほどきつい目で見上げている。 その視線を受け流し、ナイフについた鮮血を指先で掬い取った。化け物でも、血は赤いのか。 指先についた血を、片手に持っていた、平和島静雄だらけの紙に、もっと言えば彼の顔の一つに、塗り潰すようにこすりつけた。 「あは、このほうが上手いな」 化け物を紙に閉じ込めようなんて、無理だったのかもしれない。その強さは、紙なんて物はやすやすと破ってしまう。 彼を描けないのは、彼が化け物だからだ。 心底、嫌になった。 |