淡紅

(秋吉右京)


 猫が死んだ。寿命だろうか。

 特にかわいがっていたわけではない。むしろ世話が面倒で仕方なかった。それなのになぜか、どうしようもないくらい涙があふれてきた。


 白い毛に薄い赤茶色の縞模様がある綺麗な猫だった。名前は確か淡紅と書いてトキといったような気がするが、朧な記憶なので定かではない。名前をつけた本人は、夏目漱石の本の中にそんな読み方があって、それが気に入っていたからだ、と話していた。

 なぜ名前が曖昧なのかというと、俺の猫ではないから。いづみの拾ってきたもので、あいつが出て行ってから唯一残っていた、あいつの所有物だった。

 いづみと共に生活していた1年間、俺はただ、猫がそばに来た時になでてやる程度で、エサをやることもなければ、名前を呼ぶこともなかった。だからただ、いづみの猫、とだけ認識していた。


 いづみが出て行ったのは1年ほど前。いづみの幼馴染であり、俺の部活仲間でもある普が彼女に振られたとかで、塞ぎ込んでいた頃。

 普を、放っておけない。確かそんな理由だったはずだ。大学生にもなる人間に放っておけないという言葉も似合わないと思ったが、いづみにとっては当然のことのようだった。

 現に、俺を一人にしておくことも、いづみにはできなかったらしい。

「さびしいでしょ?」

 そういって、いづみは無駄な置き土産を残して出て行ってしまった。猫と俺だけを部屋に残して、そのまま帰ってこなかった。

 それから数日後、いづみから一本の電話が入った。

「ごめんね、右京君」

 第一声は、それだった。心底申し訳なさそうに言っていたその声を、今でも鮮明に覚えている。

「いや、俺は一向に構わない。いづみはそれでいいんだろ?」

「うん、右京君は優しいね」

 いづみの声は心なしか震えていて、どうやら泣いているようだった。しかし、電話線だけで繋がっている俺には、どうすることもできない。実際傍にいたとしても、もしかしたら力にすらなれないのかもしれないが。

 そのため、そのことには触れることもできず、俺は話を変えようと別のことを尋ねた。

「それより、猫はどうするんだ?」

「淡紅だよ」

「あぁ、そんな名前だったか」

 俺がさも興味なさそうにいうと、いづみはまた、申し訳なさそうな口調でいった。

「右京君が飼ってあげてよ。普ちゃん、アレルギーあるみたいだから」

 あいつも捨てられたか。
 ちらっとリビングに目をやると、当の本人はそんなことも知らずに、のんきに体を丸めて眠っていた。

 もう一つ、疑問に思うことがあった。もう一緒に暮らしているのか、ということだ。しかし、尋ねようとは思ったが、泣き止む様子にないいづみに、そのことについて話すことはできそうになかった。

「今までありがとね」

 そういい残して、いづみは電話を切った。

 暫く受話器から聞こえる電子音に、いづみの声の余韻を聞いていた。薄くなる余韻に受話器を置くと、ソファで眠っている猫の隣に座って、頭をなでてやった。

 それからずっと、俺たちは二人で暮らしてきた。今まで世話していなかったにも関わらず、猫はすぐにえさをやる俺になついたようで、数日ほどすると俺の帰りをわざわざ出迎えてくれるようになった。現金な奴だと思いつつも、そのたびになでてやっていた。


 それから一年程が過ぎた。また、あの冬がやってくる。いづみと出会い、一緒に暮らすことになった季節。

 十二月の初めだというのに、その日は少し肌寒く、粉雪が舞い、うっすら地面を白く染めるような日だった。大学から帰り玄関を開けると、いつもの鳴き声が聞こえてこなかった。不思議に思い、辺りを見回しながらリビングへと進むと、俺の探していた生き物は、両手足をだらしなく投げ出した格好で、フローリングの床の上に横たわり、冷たくなっていた。

 その姿を見た瞬間、浮かんできたのはいづみの姿だった。これで二人の繋がりは全くなくなったということになる。ようやく世話から開放されると思っていたが、少しばかりさびしい気持ちもあった。

 猫を見るたびいづみを思い出さずにはいられなかった。しかし、今更捨てられるはずもなく、貰い手も見つかりそうになかったので、諦めて黙って飼い続けた。

 けれどもしかしたら、それを口実にしていたのかもしれない。そうだとするならば、この気持ちも、未練ということになるのだろうか。


 いづみはどうしてこんな厄介なものを拾ってきたのだろう。理由は聞いたはずだが、あの時からずっと、その真意は理解できないままだ。

 あの雨の日、鳴り響くインターホンに、目をこすりながら玄関を開けると、足に怪我をした汚れた毛並みの虎猫を抱きかかえていづみが立っていた。朝帰りのことなんか一言も話さず、いづみは「病院にいこう」と繰り返した。

「まだ病院は開いてないだろ? 死ぬような病気でもないだろうし、とりあえず風呂に入れ」

 猫を手放そうとしないいづみを無理やり猫から引き離して、そのまま風呂へ押し込んだ。

 いづみが風呂に入っている間は、当然のことながら俺は猫と二人きり。暇を持て余し猫を観察していると、初めのうちは傷口を丹念に舐めていたが、痛みが引いたのか、はたまたその行為自体に飽きたのか。猫はソファの上をさも自分の居場所であるかのように陣取ると、体を丸めて眠りに入ってしまった。

 病院が開くのを待って猫を連れて行ってみると、数分の診察で痛いくらいの診察料を取られた。ケガの方はというと、幸いケンカか何かが原因のようで、心配するほどのものではなかった。

「どうしてそんな拾い物をするんだ」

 帰り道に俺が尋ねると、いづみは「ほうっておけないでしょ?」と、たった一言いったきりで、その後ずっと、飽きるのではないかというくらい、その猫の模様に沿って身体をなでていた。

 家について猫をソファに寝かせると、いづみは隣に座って再び猫をなで始めた。俺が黙ってその光景を見ていると、ふと顔をあげていづみがいった。

「ねぇ、捨てるわけにはいかないよね?」

 その言葉を否定することなどできるはずがなく、俺は猫を飼うことを承諾するしかなかった。


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