水の妖精
Fairy of water
(榎本真乃)

ひなのちゃんがうちに帰りたいって言い出してからどれくらいたっただろう。はじめはあんなに楽しそうにしていたのに、今のひなのちゃんは昔みたいな笑顔を浮かべてくれることはない。

仄かに光が差し込むだけの静かな水の底で、ひなのちゃんに必要だったのは空気なんかじゃなかった。空に浮かんでる太陽でもなかったし、地上でできる美味しい食べ物でもなかったし、もちろんオレなんかでもなかった。

「みんなに会いたいな……」

ふと、遊んでいたオモチャから顔を上げて、ゆらゆら揺れる水面を見上げる。それからオレに「帰りたい」と、告げたのだ。

もちろんオレは嫌だって言った。だって、そうしたらまた、オレはひとりになっちゃうから。

小さな湖の底で、オレはずっとひとりだった。話す相手も、遊ぶ相手もいなかった。
妖精ってそういうものなんだって。この湖を守るのがオレで、それは一人でしなくちゃいけないんだって。
昔ここにいた妖精が教えてくれた。
オレが力を使えるようになると、彼は仕事を終えて消えてしまった。
それから、ずっと、ひとりきり。

それでもたまに、本当にたまに、子供がやってくることがあった。だけどみんながみんなオレの声が聞こえるわけでも、遊んでくれるわけでもないから、オレがひとりじゃなくなることは、長い年月のあいだのほんの一瞬のこと。

ひなのちゃんも、そうしてここに来てくれたうちの一人。

「オレもいるから、ひなのちゃんはひとりじゃないよ?」

「そうだけど……」

「オレのこと、嫌い?」

「ううん、大好き」

だけど……と、何か言いたそうなひなのちゃんの声を「じゃあずっと一緒にいようね」という言葉で遮った。
ひなのちゃんは、困ったように笑ってくれた。

けれどそれから、ひなのちゃんはみるみるうちに元気がなくなっていった。人間の時間は、オレたちにはとても早く感じるから、それは本当にあっという間だった。

「真乃くんとわたしは、お友達でしょ?」

「そうだね」

「わたしはまた会いに来るし、また一緒に遊べるよ。それに、離れてても、お友達だよ」

人間の世界ではそれが当たり前なのかな。みんな必ずそういうんだ。

何度も何度も、そんなことがあった。帰ってからも会いに来てくれた子も、たしかにあった。
だけど、それはほんの一瞬。子供である時間だけのこと。
人間の時間では長い間なのかもしれないけれど。

ひなのちゃんだって、そのうちそうなってしまうんでしょ?
オレの存在だって、遠い過去へと成り下がってしまうんでしょ?

忘れないっていってくれても、会いに来てくれなきゃわかんないよ。
良い思い出になってるのは君たちだけで、オレにとっては裏切られた辛い記憶でしかなくなるんだよ。

「ねぇ、真乃くん、お願い。わたし、お父さんにもお母さんにも、お兄ちゃんにも会いたいの」

もうオレは君を喜ばせることなんてできないのかもしれない。だけど、オレがいなくても笑ってられる君の姿なんて、見たくないんだよ。

それに、今更もう、遅いでしょ。ひなのちゃんだってきっと、今は逃げたい一心なんだ。

だから、ひなのちゃんが帰ってしまっても、逃げてしまっても、それからここでこと切れたとしても、もう、悲しい結末しか迎えられない。

「ごめんね、ひなのちゃん。お願いは聞いてあげられないよ」

だって、オレのお願いだって、きっと聞いてもらえないんだから。

ほんとはね、オレも一緒にいきたいんだ。ひなのちゃんが心から笑ってられるところに。

おしまい

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