MY HERO ACADEMIA | ナノ


君と運命のハ短調

ベートーヴェンの『交響曲第5番』をどれだけ完璧に演奏してみせても、わたしは楽聖にはなり得ない。
同じように、どれだけその理想に近付こうと真似たところで、わたしは所詮“わたし”でしかない。つまり、“彼女”にはなれない。彼女であるのは、彼女だけなのだ。
『羨望』と『嫉妬』は似て非なるものなれど表裏一体であり、そんなどうしようもない絶望感を、覆すことのできない現実を突きつけられると、人の心は停止し、頭の中の思考という思考が絡まって『運命』が空回りする。

轟くんの胸に飛び込んだ綺麗な影を遠くから眺めて、わたしは、ぼんやりとそんなことを考えていた。


:: 君と運命のハ短調 ::


サポート科に、轟くんと仲の良い女の子がいるのは知っていた。仲の良い…というか、轟くんが頼りにしている子がいるというのは聞いていた。
同じヒーロー科のわたしには出来ない事を彼女は出来る。志同じくして、そっと寄り添うことが出来る。そういうのが『パートナー』なんだな…と、少しだけ羨ましく思っていた。
その曖昧な『羨望』が、確かな『嫉妬』に変わったのは、つい先日――週明けの放課後のこと。
忘れ物を思い出して教室に戻ろうとして、ふと廊下から窓の外に目をやった瞬間に、わたしは“決定的な場面”を見てしまったのだ。例の彼女が轟くんに抱きついて、所謂男女の――恋人同士の抱擁と呼べる光景を。
そこから先は見ていないけれど、頭で理解した事に対して気持ちが追い付かなかった。
出会ってから数ヶ月――轟くんには色んなことで助けてもらって、気に掛けてもらって、どちらかといえば仲がいい方だと思っていたのだけれど、どうやらそれは自惚れだったらしい。
あまりにも愚かで、乾いた笑いすら起こらなかった。
わたしは、勝手に好きになって、勝手に己惚れて、勝手に失恋した。

今だって――勝手に、傷付いているだけだ。

そういう経緯で、轟焦凍という級友と心の距離を測るようになり、今日で3日が過ぎようとしていた。
放課後、色々な用事を済ませたわたしは、すっかり静まり返った校舎を“morendo”で歩いて、鞄を取りに教室へと向かっていた。
ただ、一度狂った歯車は噛み合うに難しく、掛け違えたボタンは最後に必ず確かな違和感を残すもので、それを体現するかのように、あの日から何もかも上手くいかない。
今もそう、何の気もなく這入った教室の隅で、濃い橙色の光を、銀と赤の二色が反射するのを見た瞬間――わたしは再び自分の甘さを思い知ったのだ。
『飛んで火に入る夏の虫』とは、まさにこの事だと。


・・・


轟くんが、わたしの席に座っていた。
何を言っているのか分からないと思うけれど、わたし自身も何が起こっているのか分かっていない。簡潔に説明するなら、誰もいないと思っていた教室に轟くんがいて、その上、彼はわたしの席に座っていた。説明したところで意味が分からないのは同じだ。
とにかく彼は“絶対に逃がさない”という確かな意志を持って、わたしがいつも見ている景色を追うように教室の壁を眺めて、その席の主が呆然としていようがおかまいなしに、全くもって退こうとする様子もなく鎮座していた。
わたしが寮に帰るためには、机に置いた鞄を取る必要がある。鞄を取るためには、机に近付かなければいけない。そうすると、そこにいる轟くんに声を掛けないわけにはいかないわけで、つまるところ、わたしは逃げ道を塞がれていた。
でも…大丈夫な筈だ。昨日も一昨日も、わたしはちゃんと言葉を交わして、笑って、表面上はいつも通りに過ごした。きちんと、“級友”としての役目を果たした。だから同じように、いつも通りに笑えばいい――そんな風に己を鼓舞しながら、わたしは心の裏で覚悟を決めて、そっと彼に近づいた。そして、出来る限りの平静を装って、
「そこ、わたしの席だよ?」
と声を掛けた。
すると、遠くを見つめていた瞳がゆらりと此方を向く。ああ、これは随分と不機嫌だ。そんな顔、わたしの方がしたいのに…と、少しだけ不満に思う。
その一方で、不機嫌な轟くんは切れ味の鋭い視線でどこかを睨んでいた。何かを言いかけて、不器用な唇が一瞬の間に二度空振りした。
そうして、三度目にしてようやく、
「俺、なんかしたか?」
と、彼はそんな言葉を打ち返した。底とも呼べる、低い声で。
「…ううん、なにも」
強いて言うなら、わたしの席に座っていることくらいかな――なんて冗談っぽく笑ってみても、轟くんは眉一つ動かさない。
「じゃあなんで、おまえは俺を避けてんだ」
そして、ここまで言われてやっと、わたしはこの虚勢がバレてしまっていることに気が付いた。轟くんは、全部見抜いた上でここにいる。
じゃあ、わたしは今、何のために笑ってるんだろう。なんだか馬鹿みたいだ。
「…何なんだよ、おまえ」
その詰問するような双眸は、今まで見たことがないくらい冷たくて怖かった。
これはもう、嫌われちゃったかな…と思う。
どうしたって結局――わたしじゃダメだったんだな。

「…轟くん、彼女…いるんだよね」
わたしの中で何かが音を立てて崩れたのは、まさしくこの場所だ。
「月曜日、見ちゃったの。あの子と、その…抱き合ってるとこ」
「…は?」
朧げに甦る景色に、目の前の空間が滲んで歪む。
結局のところ、ハリボテの表情じゃ、ツギハギだらけの心じゃ、相手も自分も騙せない。一生懸命に誤魔化そうとすればするほど、いっそ嫌いになれればと耳を塞ぐほど、心が「そんなのは嫌だ」と叫びだして止まらなくなる。
わたしは我慢することを諦めて、机からもぎ取るように鞄を手にした。ポロポロと零れる涙を拭うこともせず、一寸の狂い無く真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。
どうにでもなってしまえと、胸を穿つ痛みに半ば自棄になっていた。
「だから、気持ちの整理つけたくて…ごめんね、勝手に距離置こうとして」
轟くんからしてみれば、突然どうしたのかと不思議に思うわけで、こうして問い詰めたくなるのも当たり前なわけで、つまり、全部わたしの身勝手だ。
何もかも全部、わたしの我儘だ。

「わたしは、轟くんのこと好きだったから…」

君の気持ちと噛み合わなくても――

そんな捨て台詞を吐き出して、驚いたように目を見開いた轟くんを置いて、わたしは踵を返した。彼の座っていた椅子が床を擦って音を立てる前に、彼が動き出す前に、今この世界の誰よりも速く駆けだした。
駆けだした――筈なのに、わたしの世界は呆気なく、すぐに停止する。わたしの動きを予測していたかのように、強制的に…物理的に引き止められた。
逃げようとしていた勢いを処理しきれず、肩に掛けていた鞄が掌まで落ちる。その衝撃に身体が揺れて、脳が揺れて、心が揺れた。
「待てって…!」
静まり返る教室に、重い気持ちを積んだ鞄が鈍い音を立てて落ちた。
「違う、バカ、勝手に終わらせんな」
強く掴まれた左手が、酷く冷たくて熱い。
「“だった”じゃ…俺が困る」
呟くように言った彼の声は、怖いくらいに淋しそうだった。
その憂いの音は、“困る”という言葉は、一体何を意味しているのだろう。ぐるぐると頭を駆け巡るわたしの疑問が整う前に、轟くんは話を続けた。
「…どうでもいい奴のために、こんな待つかよ」
彼が言っているのはきっと、今この瞬間のことだ。
放課後も遅い時間、わたしが用事を済ませるために空けていた数時間…轟くんはここでずっと待っていた。わたしの不自然さを問いただすために。
「そもそも、俺はみょうじじゃなきゃ…様子がおかしいとか気付かねえ」
そうだ…轟くんは、他の誰も指摘しなかったわたしの“ちょっとした不自然”に気付いていた。
なんだかおかしいな、と思う。
例えば、わたしが他の誰も気づかない彼の僅かな変化に反応できるのは、いつも轟くんを見ているから…いつも気にしているからで、もし轟くんの方もそうなのであれば、今ここに一つの矛盾が生まれる。
あれ、おかしいな――
見つけた矛盾と疑問に、わたしは思わず顔を上げた。そっと振り返ると、眉間に皺を寄せた轟くんの唇がまた空振りしている。
「だから、つまり…」
煮え切らない、“らしくない”轟くんの瞳は、見たことのない熱を宿していた。

「俺は、おまえが好きだから…」

瞬間、世界が反転した。
本当にあっけなく、たったその一言で、わたしの全てが反転した。
ああどうしよう。今度は、気持ちに頭が追い付かない。
「じゃあ、あれは…」
もし、轟くんの言葉が本当なら、わたしが見たあの日の光景は一体何だったのだろう。その真実を問おうとして身体の力を緩めると、ふわりと全身が軽くなった。
「…それは、後でちゃんと説明する」
力強く引かれた腕に、静まり返った教室の空気が温かくなって、太陽のような優しい匂いわたしを包み込んだ。
「おまえが納得できるまで説明するから…」
だから――と、轟くんの腕に力がこもるのを感じた。

「今、また、俺のこと好きになってほしい」

そして確かに、わたしの耳はその言葉を聞いた。
…正直、ズルいと思う。だって、わたしの見ている世界は、轟くんが黒だと言えば黒であり、白だと言えば白になる。つまり、轟くんが信じてと言うのなら、わたしはそれを疑わない。
こんな風に抱きしめられてしまったら、わたしは「YES」としか言えない。
どうしたって結局、わたしは懲りもせず、彼に恋してしまうのだ。
「じゃねーと、上手く説明できる気がしねえ…」
「…ずるいよ、轟くん」
ちょっと、ずるすぎる。
そう、広い背中をギュッと抱きしめながら呟くと、強張っていた彼の身体が少しだけ解けたような気がした。
「嘘ついて、ごめんね」
きっと、わたしも彼も臆病になっていた。
積み重ねた関係が崩れるのが怖くて、過去に傷が付くのを恐れて、本当の気持ちを隠し続けてきた。
だけど大丈夫。もう、勝手に傷ついたりなんかしない。
好き“だった”なんて大嘘だ。

「…ずっと、今だって、わたしは轟くんが大好きだよ」

噛み合った『運命』の歯車は、物悲しいハ短調は、何よりも愛らしく特別なメロディを奏でる。



Fin.


―― 一応、後日談として、あれは、相手が目の前で躓いて転んだために起きたことだったらしい。
「なんなら再現してもいい」
と、大真面目に両手を広げる彼に、わたしは思わず笑ってしまった。
轟くんは嘘が下手だから、もうちゃんと分かってる。
君が言っているのが真実だということ…君がわたしを本当に好きでいてくれていることは、もう、くすぐったいくらい、分かってる。


・・・


朱音 様より、100000hit記念にリクエストいただいたテーマを元に書きました。
勘違い/すれ違い系の切甘は大好物なのですが、こんなにも書くのが難しかったものかと…ご想像と違う感じだったら申し訳ございません(泣)
5万の時に書いたSSが轟くん視点だったので、今回は夢主さん視点で書かせていただきました。
原作の雰囲気をあまり崩したくなかったのもあり、轟くんの噂のお相手は既存のキャラクターではなく、誰でもない無色透明な人物にしております。
夢主さんの見た“決定的瞬間”の時、彼女が躓いて転んだのが故意だったか否かは、ご想像にお任せということで。

朱音様、いつも楽しんでくださっているとのご感想とても嬉しかったです…!
素敵なリクエストありがとうございました! ――2017.9.19

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