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レディ、さよならを厭わない

 飛行機から降りてすぐ、身を打つ風の違いを感じた。思わず知らない匂いを探して、空気を胸にためてみる。
 この日のために用意したトランクケースを引きながら、乗客たちの流れに混ざって歩く。やり手のビジネスマン風の男や、品の良さそうな老夫婦、初めてであろう海外旅行に浮き足だった仲間うちの集団。機内で自分の隣に座っていた若い男女は新婚旅行なのかもしれない。
 彼らに限らず、自分だって一応の旅の目的はある。「とりあえず名所をありったけ見て回ろう」と、適当加減もいい具合の計画とはいえ、エッフェル塔を背景に写真を撮ろうとか、美術館に行って有名な絵画を一度くらいは目にしたいだとか、話を弾ませていた。そう、楽しみだったはずの卒業旅行も、友人が体調をわるくして泣く泣く辞退とあっては、ひとりきりでのフランスに不安がわずかながらせり上がってくるのも仕方ないこと。名前は大勢の中でひとりぼっちだった。
 とはいえ自分もはるばる海を越えてフランスまでやって来たのは、何も友人に写真とお土産のセットを懇願されたばかりでなく、かねてから期待を高めていた旅行だったからだ。
 少しすぼみかけた楽しい気持ちを揺り起こし、荷物を握り直した。

 どうしたものかな。ロビーには当たり前だが人がごった返している。おちおち立ち止まって行き当たりばったりプランを広げられやしない。とりあえずホテルに荷物を置いて、話はそれからだ。トランクを引きながら、地図と連絡先をメモした紙きれをポケットに探る。
 人混みの中で大きな荷物を横におたおたしていれば、急ぎの利用客にはいい迷惑だ。川の飛び石を避けるように人の流れが出来ているのをいいことに、無心でメモを探す。けれどしまったはずの場所に目当てのものが見つからずにだんだんと焦りはじめた名前は、目先が留守になったせいで肩から勢いよく頑丈な幹のようなものにぶつかった。

「すみません」

 焦って思わず口をついた日本語は男の耳を通るとロビーの喧騒にあっという間にかき消される。
 よろけた弾みで後ろにつんのめった自分に対し、相手の男は根っこが生えたようにびくともしなかった。木の幹に感じたのは男の腕だ。腕だけでなく体格自体頑強に出来ている。
 怪我を負っているのか、あちこちに包帯を巻いた白人の男は自分の表情から言葉の意を察したのか、いやな顔一つせずに手だけでかぶりを振ると、背中にかけた少ない荷物を引き上げ直し、さっさと立ち去ってしまった。
 怪我人に体当たりをかましてしまったと知って青くなっていた名前も着いて早々トラブルに巻き込まれず済んだと胸をなで下ろす。トラックなんかにでも撥ねられた重症患者が着の身着のままに病室を抜け出てきたような場違い感だった。何しろ体中ぼろぼろだったのだ。
 後ろ姿からでもハッキリと、ハート型した大振りのピアスが跳ねていたのが更に印象を濃くした。


 さんざんな目に遭った。タクシーの運転手はしつこくこちらの番号を聞いてくるし(密室でそれなりの時間一緒になるのは結構な苦痛だった)、そうして車に揺られて着いたホテルでは「予約は入っていません」と断られる始末。ホテルの名前を確認しても、やはりここのはずだのに、帳簿に名前が無い、空いている部屋はないの一点張りではどうにも動きようがなかった。こんなことになるなら最初から旅行会社にツアーで予約を入れておけば良かった、とこれみよがしに溜息をつく。
 まさか都市部でこんな目に遭うとは。狐につままれたままにホテルの外に出ると、今度は隣のカフェの立て看板にトランクを引っかけた。がらん、と盛大にブリキ製のそれが倒れた瞬間、心の底からむかっ腹がじわりじわりと背筋をのぼってくる気配がした。

「まーたお前かよ」

 棒立ちになりかけていた名前は、はっとなって声の主を見た。
 先刻に空港でぶつかった白人の男だ。呆れと笑いの入り混じった二つの瞳がこちらを覗いていた。途端、すっと波が引くように黒いモヤモヤが霧散した。

「ったく何度ぶつかりゃあ気が済むんだよ」

 ぶつぶつと文句を垂れながらも男は看板を立て直してくれた。他の歩行者が素知らぬ顔で通りすぎるのを見た後では胸にしみる。

「旅行だからって羽目外してっと、おれみたく洒落にならん怪我で帰る羽目になるぜ」

 その上笑顔のコンボときたら、そりゃあもう眩しく映った。もう少し弱っていたら大人げなく涙を流したことだろう。

「今度は余所見するなよ」
「助かりました。どうもありがとう」

 お礼を述べてこの場を去ろうとし――足を止める。どこに行くというのか。行く宛てはないのだ。それならばこの親切な彼に空きの有りそうな宿を訪ねるくらい許されるのではないだろうか。ヘマをする所しか今のところ見られていないが、一時の恥と思ってもう一つ恥を上塗りするくらいはかまわないのでは。
 こちらに背を向けかけていた男に、勇気を奮い起して呼びかけた。

「あの!」

 一言二言交わし、案内までしてもらった宿は日本でいう民宿のような施設で、観光客向けの元のホテルに比べれば(言い方は悪いが)安っぽい内装だったが、かえって自分が異国へ来たのだと楽しみをかき立ててくれるスパイスになった。不安と期待が入り混じっていた何時間か前の気持ちが嘘のように晴れ渡ってくる。
 名前は今すぐにでも男に道中教えてもらった穴場巡りをしたくってたまらなかったし、そうでなくともパリのあちこちを練り歩いて最低に不運な目に合っている友人に土産話を持ち帰れるのを思うと浮き浮きしていた。
 ひとりぼっちの気分で憂鬱だったが見知らぬ土地だとしても居る所には居るのだ。彼のようなやさしい人が。そう思うだけで心は簡単に浮ついた。

 荷物を置いてとりあえずの行き先を定めて、行きしなのどこかで食事をとることにした。おしゃれな街中に溶け込んだカフェに少なからず憧れがあって、これも旅行の目的のひとつ。店の前に出されたイスやテーブルに足を引っ張られ、何をどうやって注文しようかと考え出したとき。

「あ……」

 パラソルの影の伸びた白いテーブルにハートの彼がついていた。これで三度目。注文はまだのようで、何も上に広げられていない。二度あることは三度あるとはよく言ったものだ、名前はこんなことが有り得るのかと心底吃驚して彼を見つめた。視線を感じてか、向こうもすぐに名前に気付く。
 お互いものの二三秒、ばっちり目を合わせて気まずいような喜ばしいような、奇妙な表情を浮かべたが名前が相席してもいいかと聞くと、彼はあっさりと承諾した。

「しっかし縁があるみたいだな」

 まったくだ。名前は頷く。

「遠路はるばる海越えて追ってきたってわけじゃあねえよなぁ?」

 テーブルに肘をつき、身を乗り出してこちらを覗きこんできた男。その双眸がこの状況を面白そうに遊んでいるのを知らず、一瞬たじろぐ。

「おいおい冗談に決まってんだろーが。弁解しとくが、おれはお分かりの通り先に来てたからな。念のため」

 そうか、彼からすれば名前が付きまとっていると見られてもしようがないのだ。追いまわす意図はないとはいえ、不快な気分にさせたなら弁解した方がいいだろう。名前がここへ至るまでの経緯をざっくりと話し始めると、ハートの彼は面食らって、それから大いに呆れた。

「ハアーッ、上に馬鹿のつく真面目ときた。そこんとこは軽く乗るなり流すなりすりゃあいいんだよ」

 とにかく体じゅう熱くなって恥ずかしかった。名前は言われた通り笑って流し、ウェイターを呼んで簡単な軽食を二人分注文した。体面に座る男の包帯姿を見とがめてか、ちらちらと遠慮ない視線を寄こしてきたが気にせずにこれまた流した。しかしどう見ても療養が必要と見えるのも仕方ない。名前は失礼を承知で尋ねた。

「家や病院に戻らなくて大丈夫なんですか? とてもパリで散策を楽しんでいいような具合には見えません」

 高度なジョークの類か扮装なら別ですけれど、と付け足すと男はニッと笑ってみせた。

「おれの故郷はそりゃもう田舎でな。乗り継ぎの便もそう出てないのさ。だから迎えの足が着くまでこうして一人身で寂しくするしかねぇんだよなぁ」

 男は「一人身」のワードを心なしか強調して口をつぐんだ。名前は絶好の機会を得たような気がした。「一人身」で寂しいのは彼女もまた同様なのだ。
 同行者が三度も別の場所で出くわした男ともなれば、友人への土産話もたんまりだ。その上彼は気の良いフランス人と来ている。みすみすここで「はいさようなら」で済ましては勿体ない。
 聞くと男はまだ三、四時間程度はパリに足を取られるという。名前が時間までの暇潰しにでもと旅の一時的な同行を誘うと、二つ返事でOKをもらえた。

「ありがとう、よろしく。えーっとわたしは名前。日本の大学生です」
「メルシー。おれはポルナレフ。ま、短い間だがよろしく頼むぜ。名前はどっか目当てのところはあるのか? 元々の旅行プランくらい決めてきたろ?」

 名前はまた呆れ顔をされるのを承知で「全然!」ときっぱり言い放った。ポルナレフは予想に反し、呆れるどころか笑い飛ばした。彼女にとって旅と言ったら計画性もなくとりあえず「行ってみる」ものだった。今回はそれらの英断が寝床の消失という形で負に作用されたが。

「有名なデートコースとかでかまわないの。そう、彼女をデートに誘うとしたらどんなところに足を運ぶか、そういう体で案内してくれたら嬉しい。その、散策気分に怪我に障らない程度で」

 フランス文学の教授は雑談中ことあるごとに口をすっぱくしてフランスの男がいかに女性を大切にするか、比較に挙げられる日本男児が可哀想になるくらい持ち上げていた。おかげで名前の中でフランス男といえば女性に対して惜しみなく労力を割く人種であると認識されていた。仮の形とはいえ、こう提案すればとびきりの観光スポットへ案内してくれると考えてのことだった。
 ハートの男ことポルナレフは笑ってあっさりと承諾してくれた。言葉を交わすごとに彼の声があたたかくなっていくようだ。名前はにっこりとほほ笑んだ。

「そうと決まれば早速動かにゃならん」
「もう? もう少し休んでゆっくり行った方が…」
「おいおい、初めてのパリを散歩で終わらす気か? 歩くのもままならないってわけじゃああるまいし。だったら飛行機にゃ乗らねえよ。それとも何か、やっぱりミイラ男と街を闊歩するのを考えて冷静になっちまったかい」

 名前は勢いよく首を振って否定した。それを見てポルナレフは満足そうに「そうだろそうだろ」とニカッと笑んだ。

「よし、まずはシャンゼリゼ通りでも行ってみるか」
「えっ。ここがシャンゼリゼだと思ってた。おしゃれなカフェやお店がたくさん並んでるから」
「ここらもいいが、せっかくだから本物を見て行かねえとな」
「凱旋門とかエッフェル塔も見られる?」
「やっぱり行きたいとこあるんじゃあねえか。他には?」
「ヨーロッパの美術館は建物も洒落てるって話だから、近ければぜひ行ってみたい」

 興奮しつつ名前が答える。それからそれから、と一生懸命引き出しから観光地を挙げ連ねる間にポルナレフは先ほどのウェイターが運んできたサンドイッチを紙に包んでもらい、支払いまでさらりと済ませてしまった。名前が気付いて財布を取り出したころにはもう遅く「空いた時間に行くかもしれなかった劇場や本を買う料金に比べたらうんと安いもんだ」と嫌味なく断られた。女性に優しくするのが本当の意味で自然なのだろう。フランスとはやはりすごい土地なのだ。名前は心の中で拍手で称えた。

 通りに入ってすぐ、名前はまさにここが「世界で最も美しい通り」と呼ばれるに相応しい場であるのに合点がいった。通りに立ち並ぶ建物や手入れのなされた街路樹、行き交う人さえ含めて一つの風景であると感じられた。自分もその中の一人であるのに気付き、感動を矢継ぎ早にまくし立てるとポルナレフは可笑しそうにしていた。

「その辺りの鳥が飛んでも感動しそうな嬢ちゃんだ」
「箸が転げたら泣くかも。ねえ、凱旋門見えるけど歩いて行っても構わない?」
「いいぜ。その次はエッフェル塔だな」
「そのまた次は美術館!」

 シャンゼリゼ通りを抜け、凱旋門を見上げ、またしばらく歩いてエッフェル塔を背景に写真を撮るなどして観光を存分に楽しんでいた名前だったが、自分ばかり楽しんでしまっているのではないかと不安になって横のポルナレフを見ると、いつも気の良い笑顔が降り注がれた。それを見るたび名前はホッとして、隣の彼にも同じようにこのデートを楽しんでもらえたらと望むようになっていた。どうにかしてお返しがしたい。せめて何か贈れたら良いのに。

 あっ、と名前が声を上げる。かと思うと駆け出した。ポルナレフは咄嗟のことに何事かと彼女を目で追った。さっきまで「お祭りみたい」と広場で商売をしているアーティストたちを興味津々に眺めていた彼女がそれらの一角で身振り手振りを介して買い物を始めたのだった。とりあえず自分から迷子になりに行ったのではないらしい。遠ざかって小さくなったポルナレフの位置を見失わないよう、買い物を続けながらもチラチラと振り向いているのがポルナレフからすれば面白かった。後から追いついたポルナレフに、彼女はニコニコと喜色満面だ。話していた芸術家風の男にしきりに「お嬢ちゃんこの絵の良さが分かるのかい?」と完全に子供扱いされていたのには気付いていないらしい。

 広場でサンドイッチを食し、ロダン美術館へ向かって庭を散策し始める頃にはもう出立の時が近づいていた。ポルナレフは何も言わなかったが最初に挙げられた三、四時間はもう立つ頃で、目に見えて名前もそわそわと落ち着きなくなっていた。本人は気にするなと言うが暇と言ってくれたとはいえ流石にこれ以上引き留めることは出来なかった。今日は最高の日だった、そう言ってこちらからデートを終わらせて見送りに行かせてもらおう、そう決めて美術館内でトイレを済ませ、庭で待っている彼の元へ戻ろうとした。
 これまで彼女が見たポルナレフの表情といえば太陽のように爽やかで、見上げたこちらも楽しませてくれる明るいものばかりだった。だから名前は庭園の草花をじっと見つめながらもどこか遠い向こうを眺めているようなポルナレフの横顔を見て、一体あそこにいるのは誰だろうと立ち止まってしまった。見てはいけないものを見てしまった錯覚に陥り、頭を振るのでかき消した。

「ポルナレフ、次セーヌ川行こう! わたしちゃんと見れてなくって」
「おいおい、そろそろ戻らねえと…」
「もちろん間に合うようにするよ。どうせまた橋渡らなきゃいけないしいいでしょ?」

 言うと、ポルナレフは顎をかきながら怪訝そうに承知した。
 元来た道を返し、時間を引き延ばそうと引き合いに出したセーヌ川もゆっくりと眺める余裕もなく名前は会話が途絶えないように話のネタを風景に探すのに必死だった。ああ道のパンくずを烏がついばんでいる、あのパンってバケットサンドじゃあないかしら、大通りにも沢山パン屋が面してたわ、カフェのサンドイッチもとびきり美味しかったけどあとで食べてみようかな、そういえば教えてもらった宿だけど華美過ぎず古過ぎず雰囲気が良くって…。

「名前、ここでいいぜ。もう行かねぇと」

 名前を呼ばれ、はっとなった。いつの間にか人の往来の多い場所に来ていた。どうやらターミナルらしい。名前はしゃんとせねば、と沈んだ気持ちを掘り起こした。バッグからポストカードを取り出す。きれいな色合いでパリの風景が描かれたものだ。広場で難なく値切るのに成功した戦利品でもある。フランスのお土産を出身である彼に渡すのもどうかとチラと過ぎったが、国内旅行のお土産を渡すのと同じだろうと思いなおす。これを見つけた時の自分の感動が彼にも伝わったら良いのにと思った。

「お礼には足りないけど受け取って」
「これ買ってくれてたのか。ありがとな」
「すごく……楽しかった! またきっとフランスに来るから次はポルナレフの故郷を案内してよ」
「それはまた。フランスイコールパリで刷り込まれちまった名前にはどえらい田舎だろうな」
「田舎だって好きだよ。あっ、まって」

 名前はポルナレフの手からまだ仕舞われていなかったポストカードを取り返すと、大慌てでバッグをひっくり返してペンを取り出した。カードの表面に何か書き始めたその時、ちょうど彼の乗るバスが出発の合図を出したところだった。ペンは古いためかインクの出が悪くて紙の上を滑っている。

「大丈夫、窓際に乗ってて。……あ! 日本語で書いてるし、もう!」

 せっつかれながらポルナレフがバスに乗り込み、名前に近い席の窓を開けた。

「名前。俺も今日のデートは楽しかったぜ」
「うん。まって、もう少し…」
「落ち着いてじっくり書いてろ」

 ――書けた! もたつきながら日本の住所を書き終えた名前が両手にポストカードを差し出すのと、ポルナレフがそれに手を伸ばすのと、バスが走り出すのがほとんど同時に起こった。
 けれど差し出したカードはポルナレフの指先手前で届かない。なんとかバスに並走しながら、名前は懸命に手を伸ばした。届くか届かないかという距離で離してしまったカードが指から離れ――ふわりと銀色の風が舞った気がした。いつの間にかポストカードはしっかりとポルナレフの手元に収まっていた。名前はそれを見届けると脚に力が入らなくなり、荒げた呼吸をぐっと堪えて頭上に大きく手を振って見送った。

「またな名前! 故郷に帰ったらいの一番にコレ送ってやるぜ! サンキューな!」

 後日名前がフランス旅行から戻って数日としないうちに国際郵便が届いた。彼女にも読み取り易く一字一句綺麗な文字でアドレスが記載されているのを見つけて、彼女は返信をしたため始めた。

リクエスト「ポルナレフとフランスデート」


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