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どうか溺死してくれ

 寒空は雨雲を抱えたまま、閑々と冷気を降らしてくる。もうしばらく暦は目にしていないが、直に冬が来るのは体で判るようになっていた。
 例年、この時期が来るとツキが逃れるのか、負けが込んで路上でぼろ布を纏って身を小さくすることがしばしばあった。とはいえ毎日雪の元では流石に凍死する。そんな時は女だてらに方法を振りかざして、それでもなんとか生きられた。ふと、暖を取るためといえ正気に戻ったことがあって、上に乗っかって来た男の急所を蹴り上げて、金を奪ってみては逃げ、見つかって、傍目に女と分からなくなるまで痛めつけられたことだってあった。
 その度に惨めな途を選んでしまった自分の勝負運の無さを恨むのだが、後悔はすれど反省をしたことは一度としてない。
 勝負運と同じように、私が女に生れたのだって天賦のものなのだから。
 たまに自分が女として生を受けたことに並でない理不尽さを感じることもある。けれど、私がいまだ女を捨て切れずあるのはこの男のせいでもあった。

「もしかして……哲さん?」

 ふらふらと立ち寄った雀荘で、見覚えのある背中があると追ってみれば、振り向いた「坊や哲」が面白いくらいに目を丸くした。まるで私がこの土地に居るなど思いもよらなかったように。
 坊や哲といえば玄人バイニンの間では名の知れた打ち手である。黒シャツの哲。
 けれど私の知っている哲也という男は「坊や哲」というより古い時代を知る「哲さん」という存在そのものだった。
 幼馴染みというほど長い付き合いでもない。哲さんの勤め先だった軍需工場に弁当を品出しする仕事をやっていて、そこで彼と知り合った。
 私はこの男が好きだった。女として彼を好いた、というのももちろん正しいのだけれど、坊や哲にはどこか人を寄せ付けないようでいてじわりと虜にする妙な空気が取り巻いていて、私はそれにおそらく絡めとられてしまっているのだと思う。この恋じみた厄介な気持ちはこれに寄生したおまけのようなものだ。

「久しぶりだな。元気にしてたか」
「うん。覚えていてくれて嬉しいよ」
「そりゃあ、あのむさくるしい男所帯の中で華だったからな」

 哲さんはどこか陰のある表情で笑った。私はその差異に気がつかない振りをした。
 自分の知らない間にまた遠くへ行ってしまったこの人の、私の知らない空白の時間が無残にもここには横たわっていて、居心地が悪くてならない。
 好きだと思った女には縁がない。想いを寄せられた女にも壁を作る哲さん。この人はつくづく女運が悪い。勝負の道を選んでからは尚更のことだろう。大方想像はつく。その性分を知りつつも、だからこそ彼に心酔してしまう女性はきっと多い。
 かくいう私も、修羅の道とわかっていながらこの道を踏むことを選んでしまっているのだから他人のことは言えない。
 ただ一つ、私が分かっているのは、坊や哲と長く関係を取り結ぶためには女であることを捨てなければならないということだけだ。
 勝負師の道を選んでしまったのは彼が発端ではあるが、全ての原因ではない。玄人たちの勝負の世界にすっかりと魅入られてしまったのは紛れもない事実だから。
 玄人として生きるということ。それはすなわちこの人の世界にさらに近付くということに他ならない。
 決して私の抱える想いなど知る由もない男に、結ばれようもないのに嫌でも関係を結んでしまっているジレンマ。一方で強く、たとえ些細な糸であっても彼と繋がっていたい感情がある。
 並んで二人、飯屋へと歩きながら、私は隣の男の横顔を見上げる。
 勝手な一方通行でしかない羨望や好意、嫉妬や憎しみを感じながら、私はいつかこの男を平伏させたいと願うのだった。

***

 何のためらいもなく銀シャリを食おうとするこの人にはつくづく頭が下がる。とはいえ哲さんも懐に余裕があるわけでなく、かなりぎりぎりな手持ちのようなのだが。

「食わねえと勝てねえ」

 どこから誰かに言われたような台詞を吐くと、白い飯粒をカッカッと喉奥に落とし込んでいく。私も財布の中身は相当に寂しかったが、なけなしのプライドをひっ叩いて銀シャリを茶碗一杯ぶん胃の中にかっこんだ。

「お二人さん相当に羽振りがいいようだな」

 飯屋の兄さんが絡んできた。哲さんをちらりと見る。彼は兄さんに目を向けることなく、添えられた漬物を味わっているところだった。

「兄さんもここで商売してるんだ。私たち以上に羽振りはいいだろう」
「そりゃあないね。おれはメシを出すだけだからな」
「でもちょっとちょろまかして食ったりするだろ?」

 私はからかうように兄さんの顔を覗きこんでみせた。まあな、と兄さんは店奥に届かないくらいの小さな声を出す。
 昼間から豪勢な飯を食いに来た客に皮肉の一つでも言うのかと、無駄に気を張った自分が馬鹿だったようだ。兄さんはなかなかに気さくな青年だった。

「白飯をここまで豪快に食ってもらえるとこっちも嬉しいし、あんたらのような客は助かる」
「うまいこと言ったって駄賃は出さないぞ」

 他愛ない会話を笑い飛ばしたところだった。
 がたり、おもむろに哲さんが立ち上がり勘定を置いてスタスタと店を出ていってしまった。ぽかんと呆けた私もすぐさまぼろの財布から必要分だけ取り出して、挨拶もそこそこにのれんをくぐって外に出る。
 妙に時間をくってもいないのに、哲さんの後ろ姿がアッという間に往来に小さくなっていた。
 どういうことだ。いみがわからない。
 人をかきわけてやっとこさ哲さんに追いつき、駆けてきた勢いで彼の肩を叩いた。
 息を荒げる私に振り返って、きょとんとする哲さん。

「てっ、哲さん! なんで先に行く!」
「いやお前……話しこんでたろ」
「はァ?」
「なんだ、今から打ちに行きたいってことか?」

 まるで会話が伴わず、私はそのままの姿勢で固まった。
 この男、久しぶりに会った知り合いと、付き合いの範疇にも収まらない程度に「飯を食う」のを文字通りこなしてそれきり終わりというつもりだったのか。
 せめて私と、つもる話をするだとか、玄人らしく打って勝負だとか、そういった思考は最初からなかったのか。
 私の存在は坊や哲にとって砂漠の砂粒ほどにもどうでもいいものという。
 捨て牌の方がまだ手の内が読めるだけ価値があった。

「お、おい? どうしたっ」
「え、あ、ううん」
「腹が痛いのか? シャリか? …いや同じもん食ってたしな、腐ってるなんてことは…」

 まったく哲さんは鈍い。そんなんだから女運がないだなんてしょっちゅうからかわれるんだ。
 女が涙を見せるのは男を騙すときか、感情のタガが外れたときと相場が決まっている。

「打ちにも誘ってくれずにさよならされたから、玄人として終わりかと思ってしまったんだ」

 嘘は言っていない。
 かといってこれで泣きを見せるのも、この時点で玄人としては終わり腐っている。
 女としても玄人としても自分はまだ未熟らしかった。
 地面の砂粒が舞いあがって自分の目を潰してくれないかと願う。

「そんなことで泣くんじゃねえよ」

 呆れた哲さんの声がどうにも突き刺さる。うつむいた私の顔を無理に上げることもせず、哲さんは見えない私の目頭を指先でぬぐった。

「それにおれとお前はこれからいくらでも打てるじゃねえか」
「え?」
「なんだよ。おれはしばらくお前と夜通し打つの覚悟でいたんだぜ」
「だ…っ、えっ? だって哲さん」
「…おれ、泊まってる宿の話しただろ?」
「……してない」
「あれ、してなかったっけか」
「してない!」

 坊や哲はあー…と記憶を辿るように空を見上げたあと、ちいさな声でわるかった、と口にした。間髪入れず私の右拳が哲さんのどてっ腹に吸い込まれた。
 女の拳など避けようもあっただろうに、完全に気をゆるしていたか、哲さんは蛙のつぶれた声を出して腹を抱えた。
 余程の痛がりように胃の中を吐き出してしまうのでないかと過ぎって心配しかけ――一方でこの男が吐瀉物を喉に詰まらせて溺れてもいいなと、一瞬。

 私は誰に意思表示するでもなく、首を横に振った。

「いまから打ちに行こう、坊や哲」
「ー…っ、いまからって…」
「私が打ちたいって言ってるだろ!」

 そうだ、死なれてはこの男を屈服させられない。
 私は万里にも似た遠い理想郷を夢見ながら、いつまでもこの男の影を追うのが性に合っているのだ。


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