Index

月恋花

ようやっと九月も終わりに差しかかった。それだというのに六月辺りからじりじりと淀んでいた熱量は、つい昨日今日やっと秋を感じさせるそれに変わったばかりだ。連日のように開け放していた寝所の窓もこれでやっと閉めることが出来る。それでも昼間はまだ少し湿気が籠って仕方が無いので、夜虫の声がまばらに部屋の中へ入りこんでいた。そういえば今年は月見も出来ないくらいに忙しかったな、となんとなしに思い返す。せめてお団子を簡単にこしらえて酒とつまめば良かったかもしれない。
考えているだけで小腹が空いてきた。だけど、その前に。シャワーをすませたばかりの、まだ水滴の拭いきれていない体には、夜風は寒すぎる。タイミングを逃してしまったお団子のことを忘れないよう頭の中で反芻しながら、私はバスタオルで体の前を隠し、寝所の窓の方へ向かう。風呂場に入る時はいつも居間から廊下にいたるまで電気を消しているし、ここは月の光くらいしか入らないニ階だから、まあ頑張らない限りは外からは見られないだろう。
居間を通り抜けて襖を開けると、正面の開け放された窓から白い光がさしこんでいる。満月ではないものの、空に雲はなく、畳の目までもが綺麗に照らされていた。これはますます団子を食べるしかない、白玉粉はあったし、缶詰の餡子だって黄粉だって常備している私に隙なんてないもんねと、浮かれた気分で窓に近づく。めっきり立てつけの悪くなった窓を閉めるため、力を入れた手をかけた。

窓がギギギ、と音を立てたかと思うと月が陰った。
おかしいな、さっきまで雲なんてなかったはずなのに。
空を振り仰ぐとそこには赤木さんが。

――あかぎ さん?

多分おそらく私はそのまま五、六秒ほど固まっていたに違いない。さほど時間の経過を感じられなかったのは九割九分赤木さんの所為だ。目があった瞬間そのまま赤木さんは身を固めたように動かなくなってしまったから。ショックやら驚きやらで私の精神時間はおろか視覚的な時間感覚まで止めてしまうとは。さすがピカロ、さすが悪鬼赤木しげる。奴はいま、こちらに合わせて動きを止め、窓のサッシに土足で踏み込み、かつ家主に了承もとらずに部屋に乗り込もうとしている。いやそれも含めて、ここはニ階だぞ? 一体何を考えているんだこの悪魔め。とりあえず落ち着け、落ち着くんだ、話はそれからだとバスタオルを握る拳にいっそう力をこめて、振りかざ――…
しまった。私いま裸同然じゃない。
その事実に今更ながらに気づいて、膝が折れた。ぺたんとその場にくずおれる。生足に畳の目がざり、と擦れ、それに呼応するかのように、赤木しげるはひらり軽く部屋の中へ侵入した。
「どうした、ハライタか」
ちがう。赤木さんが亡霊みたいに現れるから。
言葉はどっと沸いて出た息切れで引っ込んだ。心臓が早鐘のようにうるさい。あくまで断っておくが、これは決して久しぶりに会えたトキメキとかじゃなく純粋なパニックである。
「あんたはいつも食ってるからな」
「うっ…」
返す言葉が見つからない。だってついさっきまでお団子のことを考えていたのだ。痛いところを突かれてしまった。畳の上へ降り立った侵入者は私の反応を見て面白がってくつくつと嗤っている。驚かされたこと、不遜な態度やらが無性に腹立たしく感じられて、私はせめてもの抵抗にと口を噤んで無言で抗った。どうしてこの人は気付けばいつもこちらより優位に立ってるんだ。ああ、なんて腹が立つ!
まあそれがイコール『赤木しげる』なのだけど、なあ、と淡々と考える自分もいるけれど。
「そろそろ寂しがってる頃かと思ったんだが、ちがうのか?」
「誰が」
「あんたが」
「まさか」
貴方を知った時からそういった覚悟くらいしてる。見くびらないでほしい。
「じゃあ俺がか」
びゅう、と風呂上がりの火照った体に秋の風が打ちつける。一瞬にして熱が奪われて、体が思わず震えた。寒い。一度体が自覚して震えてしまうとと中々収まらないものだ。それでも頭はカッカとぼんやりして仕様がなかったので、とりあえず今は服を着ようと居間へ身を返そうとした。
「…っふ、」
突然、目の前につき出てきた腕に絡め取られてしまう。喉元と肩の前を通る腕は赤木さんのイメージ通りやはり冷たくて、肩口に乗せられた顎もまた堅い。ごつごつとした、それでいて骨を直に圧迫されるような不快感。駄目だ、喉までカラカラになってきた。表面は寒いのに、中が熱い。早く解放してもらわなければ。このままではいけない。
「赤木さん、私気分が」
「寒いんだろ」
「ちが、赤木さんの傍にいると、吐きそう」
「ふうん」
とたんに、するりと腕は緩み、包囲から逃れることができた。
ひどいことを言った。だというのに赤木さんときたら微塵も気に掛けない様子でポケットから煙草を取り出し、普段の所作で口に運ぶ。
「ライター、ない?」
「…あ…スイマセン、火種切らしてて」
ああそう、とだけ返して赤木さんは居間向こうの台所へ消えていった。
いくら赤木さんと言えど、あんな言い方をされて傷付かないほど人格は破綻していないだろう。しかもよりにもよって珍しく向こうからスキンシップ…?を謀ってきたというのだから。時折、底冷えするくらい恐ろしくて人間にみえないときもあるけれど。たしかにぞっとして不快感のようなものに襲われるのも事実だし。
必死で言い訳を取り繕っているとコンロの火をつけるカチ、という音がした。台所の方で小さく青が震えるのがみえる。私は私でそろりと音をたてないように、ついでに胸元のタオルを握りなおして、部屋を仕切る襖のそばに近づいた。
「気にするんなら言わなきゃいいのに」
「わっ!」
いつのまにか消えていたコンロの火は、私にとって赤木さんの場所を分からなくさせるのには十分だった。控えていた襖のちょうど裏側、つまり死角から覗きこんできた赤木さんは、これまたどうして楽しそうだ。
「し、ししし心臓が」
冷えと驚きとで歯がかちかちと鳴る。落ち着けと息を吸えば、くゆる煙が肺に入り込んだ。戻ってきた赤木さんは私の肩を抱き直して、後ろ手に襖を閉めてしまう。脳裏に浮かんだのは逃げ場がない、という事実のみ。
「やだっ、私は今から月見団子を頂くの! 赤木さんなんかに邪魔されないんだから!」
「そうそう、それくらいが俺もあんたも傷付かない」
「違います! これだけは本気で言って」
ぐぬぬ、と出来る限りの抵抗をして体を押し返そうとしたけれど、所詮女の力ではなんなく腕の中におさまってしまった。

相も変わらず開け放されたままの窓からは冷たい空気が飄々と流れ込むのをやめない。そう、抵抗しても何の妨げにもならない。それを言い訳にするかのようにかたく目を閉じ赤木さんに委ねた。生々しい行為は嫌いだ。生と欲とが入り乱れている気がして気味が悪いからだ。いつだったか赤木さんにそのことを言えば「俺は嫌な気はしない」と返された。博打のような感覚なのだろうか。だったら私には一生博打はうてないだろう。ましてや自分の命を賭けるような大勝負なんてまっぴらだ。
――赤木さんに似たような気分を抱くのも、だからなのかもしれない。


-25-
目次



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -