まどろみに愛
家に帰ると、誰の気配もないみたいに静かだった。いつも駆けて私を迎え入れてくれる徐倫も出て来ない。玄関で靴を脱ぎながら小首を傾げた。
リビングの電気も消えている。閉め切られたままのカーテンのせいで、部屋の中はおやつ時を少し過ぎたくらいの時間なのに薄暗い。なんて不健康な。目を凝らすと部屋の隅っこに、畳むのを頼んだはずの洗濯物がこんもりと重なっている。はああ、とため息がこぼれた。
父と娘はどこに雲隠れしてしまったのだろう。私が郵便局に出掛けているほんの二、三十分程度の間に買い物にでも出てしまったのだろうか。でもそれならせっかくこの前新調した携帯電話で、出先の私に頼んでくれたっていいのに。
パチン、と小気味いい音と一緒に明かりが点く。
「わっ」
『それ』を見つけて口を慌てて押さえた。
洗濯物のかたまりだと思っていたのは寝転がって小さくなった承太郎さんだった。ラグマットの上とはいえ痛くないのかな、と近づくとやっぱり寝こけている。部屋の入口からは丸まった背中しか見えなかったから分からなかったのだけど、徐倫をすっぽりと抱くようにして眠っていた。
膝をついて二人の寝顔をのぞく。かわいいなあ、子供が二人いるみたいだなあ、と顔がほころぶ。本人たちに言ったら片方は怒るのかもしれないけれど。
(あっ、そうだ。写真。写真撮ろう)
親ばかもますます顕著になってきた私はようやくこの前デジタルカメラを新調したのだった。だけど家族で出かけることもうまい具合になかったものだから、使い時をずっと逃し続けている。
そっと音をたてないように立ち上がって、リビングを後にする。もちろん、元通り電気を消すのを忘れない。
二階の寝室のクローゼット奥にしまいこんでいたデジカメを取り出し、静かに階段を駆け降りる。リビングのドアを最初とは違ってゆ〜っくり開けて、かたまりの方を見やった。
「わーッ!」
体の芯が冷えるかと思った。横向きに寝ていたはずの承太郎さんの身体がうつ伏せに伏している!
さっきまで異様に忍んでいた私の足もばたばたとフローリングにうるさい音を響かせた。
大きな腕が徐倫の上にのっかっている。さっきは肩が浮いていたからかかっていなかった体重も、徐倫に少なからず圧迫を与えていたようだ。苦しげにうなる徐倫。それでも意地でも起きないあたり、図太いのか、危機感もないくらいに父親のそばで安心しきっているのか。
慌てて無理やりに腕をひきはがし、承太郎さんを仰向けに転がそうとする。寝ている大男、さすが、重い! 脚に力をこめてふんばると反動で無様に尻もちをついた。
動揺と突然の運動で荒げる呼吸。一度きゅっと絞られた心臓がドクドクと波打っている。
「あれ…カメラどこ」
手の中におさめていたはずのそれがどこにもない。きょろきょろとラグの上を見渡して、またしてもゾッとした。柔らかなラグの上ではなく、かたいフローリングの上に精密機器であるデジカメが落ちている。びっくりして取り落としてしまったのだ。前にも仕事道具のノートパソコンを、掃除のときに電源コードを引っかけてデスクの上から落としたことがある。それに匹敵するくらいの絶望だった。家の中の日常風景しか撮っていないとはいえ、あの中には数少ない家族のデータが残っていたというのに。
項垂れて床に額をこすりつけていると、うなじに冷たい感覚が走る。寒気がしたので手を払った。普通、寝ていた人間は体温が高いものなのに。
「寝ぼけてるねえ」
「寝ぼけてねえ…」
同じ言葉を応酬するあたり、やはり寝ぼけている。うとうとと眠たげに瞬きを繰り返す瞳の上を、長い睫毛が何度も往復している。いつも起きるなり行動を直ぐ開始する彼が、こんなにも眠たげにするのは珍しい。久しぶりに徐倫に会ってはしゃぎすぎた…のか。空条承太郎も昼のまどろみには勝てないのかもしれない。
「も少し寝てれば」
「…ん」
「あだっ」
図体に似合わず、かわいらしく短い言葉を紡いだかと思えば、投げ出された腕が私の額に衝突した。
ひくひくと口角が吊る。腹が立ったので、脇でまだ眠っている徐倫を抱えてソファベッドに移動させる。タオルケットを肩まで引き上げると、夢の中で楽しくしているのか、にっこりと表情を変えて寝がえりを打った。
ソファの端に肘をついて娘の顔を観察する。じつは子供はあんまり好きではない。やわらかくって壊れそうで、うるさくって面倒くさい謎の生き物で、できることなら近づきたくないと思っていた。今でも子供はそんなに好きじゃあない。決して嫌いではないのだけど、他人の子を可愛いと感じることはそうそうない。でも徐倫や身内の子供はすごく可愛いと思う。人間の遺伝子構造ってやつでも上手く働いているのだろうか。人が人を愛することができるように。ずっと愛しいものを守っていけるように。
でもまあ、そんな小難しいことを考えなくても、やっぱり今日も今日とて徐倫の寝顔が愛らしいのに変わりなどない。
まだ細い睫毛を見つめながら、私もいつのまにやらまどろみへと落ちていく。
眩しさにうっすらと目を開ける。天井の明りが灯っていた。台所のほうからは香ばしい良い匂いが漂ってくる。中途半端に寝入ってしまって眠い。起き上がると肩口から徐倫にかけたはずのタオルケットが落ちた。ソファに上体を預けて寝ていたはずなのに、いつのまにか横たわっている。
「徐倫!!」
寝ぼけてソファに寝転がってしまったのかと、慌てて立ち上がって見下ろすも、ソファに徐倫の影も形もない。…あれ。
「随分と遅いお目覚めだな」
手に夕食の皿を持った承太郎さんが台所から現れた。手料理かと思ったけどラップがかけられている辺り、昼に私が作った余り物のリゾットだろう。
眠たい目をこすり続ける私をよそに、承太郎さんはキッズチェアに座る徐倫に一掬い、スプーンを差し出した。
「ほらよ徐倫、あーんだ。あーん」
思わず吹き出して膝を叩くのもしょうがないかと。
「くっ、くーじょーじょーたろ、が『あーん』!あーんって! あははッ」
「…寝ぼけてやがる」
「ねぼけー」
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