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シーザー

 ここ数日、ヴェネツィアは雨の降り通しだった。季節の風のせいもあって外へ出向けばあっというまに体温が掻っ攫われていく、まだ肌寒い日が続いていた。
 今夜もまた例にもれず寒い日で、寒空のもとを歩くシーザーは早く家に帰って熱いシャワーを浴びたかったし、彼女の作る懐かしい味付けのフェットゥチーネやあたたかいスープで体を満たしたいと思った。

 しかし彼の淡い期待も裏腹に、辿りついた家には明かりも灯っていない。バスタブや食事の用意などされていないであろうことは明白だった。
 シーザーはソファに寝そべっている名前の姿を見つけて息をついた。自分で決めた仕事もきちんとこなしていない、自称『家政婦』の肩を揺さぶる。

「シニョリーナ、そんなところで寝ていたら風邪ひくぜ」
「んー…やだぁ…」

甘えたように声を漏らす名前。いつもシーザーが聞く、はつらつとした彼女のトーンとはどこか一線を画していて、思わず硬直しかけた。眼下の彼女は首だけをのそりと動かしてシーザーを見やると、蕩けきった赤い顔で笑う。彼の髪飾りに手を伸ばした。

「シーザー…ふわふわ…」
「寝るなら自分の部屋に行きな」

様子を見る限りは酒に酔っているのか。テーブルに目をやれば安酒のビンが転がっていた。中身はすっかり空になっている。
 シーザーが好まない銘柄のそれは、おそらく彼女が自分自身で買ってきたのだろう。もっといい年代物のワインだって揃えているし、勝手に飲んでいいと薦めているのに、一度として名前は家の中の物を消費することはなかった。

 名前は半ば押しかけるようにシーザーの下宿する部屋に入り浸るようになった謎の女だった。どこから来たのかも口にしない異国の彼女と初めて会ったのは、ヴェネツィアのとある広場だった。観光客かとも思ったがあまりにも軽装で動き回る彼女を放ってはおけずに拾ったのがそもそもの発端。何も言わずとも身の回りの世話をやかれる生活がはじまった。
 シーザーは相変わらず名前だけでなく寂しげな女の子にはそこはかとなく優しかったし、買い物帰りであろう名前と、別の女性と出歩いている時に出くわしたことも数度あった。そんな日の夜も彼女は笑って「おかえりなさい」とシーザーを変わらず迎えていた。

 だから、そんな彼女の酒に溺れた姿を見るのは初めてだった。極力自分の痕跡を残さないように暮らしていた彼女の、崩れた様を見るのは。自分のことをまるきり語らず、弱みも見せなかった名前。

「まったく……」

 シーザーは寝ころんだままの名前の背と膝裏に腕を差し入れた。ふわりとした浮遊感に名前が楽しそうに身をよじった。鼻先を胸板に擦りつける様がまるで子猫のようでくすぐったい。

「やめろ、そんなことしたら男は勘違いする」
「してもいいのに」
「なんだって?」

 名前に手を出したことは一度としてなかった。名前が魅力的でないわけでも決してなかった。女性の面をただ彼女が押し隠していただけだ。甘い言葉を吐いても彼女はするりと交わしてみせたし、そういう気忙しくない関係がお好みなのだと思っていたが。

「馬鹿言ってんじゃあないぜ。誘い文句を軽々しく口にするなよ」
「ブーメランだよう、それ」

 へらへらと笑ったかと思うと名前はシーザーの襟元を掴んで胸元に顔を埋めた。途端に静かになる彼女に急に不安になる。柄にもなく心音が早まっているのもバレてはいないだろうか。何か喋り続けてくれ、頼むから。
 名前がいつも使っている部屋の前まで辿りついたとき、わずかに目元をみせた彼女が小さく声を上げた。

「…ここじゃない」
「ん?」
「あっち」

 名前が指した方を見やってぎょっとする。向こうにあるのはシーザーの寝室だ。
 それでも出来る限り冷静を装って、いつも女の子に向ける甘ったるい表情を腕に抱いた彼女に投げかける。

「お嬢さん、家政婦は主人とそんなことはしないだろ?」
「じゃあ家政婦やめる」

 さっきまでの無垢な笑顔も一転、きっぱりと名前は言い放った。ため息をもらしたくなるのを我慢して、代わりに彼女を抱え直す。火照るように熱かったその体温が冷えかかっているのにその時になってようやく気付いた。名前はまだシーザーの胸に強く顔を押さえつけたままだ。

「名前、顔見せてみな」
「や…やだ」

 嘘がばれていることがばれている。途中までは本当に酔っていたようだが、酒の勢いを言い訳に仮面をかぶって誘惑してみせたようだ。もうすっかり取り繕っていた仮面は剥がされてしまったが。
 必要最低限の物しか置かれていない名前の部屋で、最も使われているであろうベッドの上にそっと彼女を横たえた。頬に手をあてがえば、瞳が潤み、上気している美しい女性がそこにはいた。

「こんなにもカワイイ女性の姿をずっと覆い隠してたなんて…本当に君は罪作りだな」

 名前の酒の力を借りた猛攻も一変、形勢逆転となる。優位に立ったシーザーは、酔いがさめてもなお赤らむ彼女をもう一度強く抱きしめた。


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