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おぼつかないプラス2℃

 朝から喉が焼け付いていた。唾を飲み込むのすら不快で仕方ない。
 昨晩は酒を飲んだわけでもなく、何年かぶりの煙草に手をつけたわけでもなかった。やや不調を感じるといったぐらいだったが久しぶりに体を襲う倦怠感に覚えはあった。


 帰宅の途についた承太郎が家に入ろうと鍵を取り出したところで、戸が施錠されていないのに気付いた。訝しげに戸を開くなり、玄関先に突っ伏した妻の姿が目に飛び込んできた。
「…名前?」
 呼びかけてから彼女の状態を見ると、買い物帰りだったのだろう、食材を詰め込んだ袋と財布を掴んだままだ。靴も脱ぎかけに、肩を大きく揺さぶるように息をしている。
 ぐったりとして重くなった上半身を起こさせ、赤らむ頬に手のひらをあてがってやると名前が嬉しそうに、しかし力なく微笑んだ。
「あったか…」
 承太郎は嘆息し、名前の体を担ぎあげた。

 病人を寝室のベッドに横たわらせ、自身もベッドの際に腰を落ちつける。マットの中のスプリングが音を立てて軋み、加えられた重みにベッドが揺れた。
「食欲はあるか?」
「あんまり、」
「いつからだ」
「なにが?」
「熱」
「ああ…昨日の昼 ごろ」
 話を聞くに、昨日まではさほど熱もひどくなかったらしい。ところが今朝起きると体がもうすでに重苦しく、仕事こそ休んだものの冷蔵庫に何もなかったので、無理をして外に出たとのことだった。それがこうも余計に悪化した原因かもしれない。
「…徐倫がみえないようだが」
「昨日からスージーさんのとこに泊りがけで遊びに行ってる。明日の昼まで帰ってこない…」
 家の中に他に人の気配を感じないのはそういうことか。
 どうしたものかと承太郎が立ち上がったところを、白い手が彼のコートの裾を掴んで引き止めた。とても弱い力はほんの少し布を引くだけに終わる。
「さむい」
 だからどうしろと。
 毛布はすでに名前の肩口までかけられている。
 苦しげに繰り返される呼吸音を聞いていると、こちらまで喉の傷みが増してくるようだった。
「どうした」
 名前の返事はない。代わりに熱のせいで潤んだ瞳が承太郎を見上げている。
 力なく名前が再びコートを引っ張りはじめたので、何か言いたいことでもあるのかと観念して彼女に顔を近づけた。熱をもった吐息が承太郎の耳をかすめたが声が発される事はない。ただ彼女の手がコートの裾から、ベッドに置かれた承太郎の手に移った。
「…ふふ」
 ふにゃりと融け切った顔で名前が笑んだ。彼女の頬に引き寄せられた承太郎の手のひらに熱が伝わってくる。熱に触れたせいか逆に背筋に冷たいものが走った。自分の熱もどうやら思った以上に深刻なようだ。
「あったかい…あついくらい」
 名前に手を絡め取られてしまい、幸せそうにする彼女を振り解きようもなく、逡巡してしまったのがそもそもの間違い。
「…あつい?」
 横たわっていた彼女が目を丸くして、先程までの気だるさも嘘のように勢いよく起き上がった。額に伸ばされた手を咄嗟に避けることが出来なかったのは、彼自身も自覚している以上に疲弊していたせいだろう。
「熱があるよ! 寝なよッ! 私よりひどいじゃない!」
 大きな声を張り上げた後、名前は何度か咳きこんで堅く握りしめていた手を放した。
 隙を見計らった承太郎が名前にズラされたコートを着直して寝室を後にしようとした時、背中に痛烈な重みがかぶさってきた。ベッドから飛びついてきた名前が承太郎の首筋にしがみついている。どこにそんな力があるというのか、それほどに必死なのか。ぜえぜえと苦しげに息を吐きながらも一向に放そうとしない。体の内の体温が空気を伝って直接承太郎のうなじをかすめていった。
「寝ろーッ!!…げほっ、」
「じっとしてろ。悪化しても知らねえぞ」
「そっくりそのまま返すよ。お願い、寝て」
「………」
 承太郎は眉をひそめ、名前の腕を解くと強い力でベッドに縛り付けた。
 眼下の彼女の顔が一瞬にして青ざめたものに変わる。
「っ、なに考えてるの」
 承太郎の唇は返答せずに、名前の首筋に沈み込んできた。突然の行動に、困惑を通り越して苛立ちを覚えた名前が、男の腰へ膝蹴りを叩きこんで非難する。
「こらっ どっちも病人でしょうがッ」
 蹴りが入ったがあまりにも弱々しく痛みはまるでなかった。しかし承太郎は名前を押し倒した姿勢のまま崩れ落ちて動かなくなる。
「うぐぅ」
 急速に脱力してしまった体の下で、潰れた女の無様な声が肩そばをかすめていった。自らの胸の下で彼女の胸もまた上下しようと躍起になっている。息忙しそうに額に汗を浮かべる名前を首だけ動かして見れば、呆れたような目とかちあった。
「どうして妙なところで強がるかな」
 強がったつもりも意固地になっているつもりも更々無かった。
 ただ欲に忠実にしたがったまでだ。
「抱きてえ」
 耳元で呟けば面白いくらいに眼前の顔が赤らむ。元から熱のせいで浮かされかけているせいか、名前の顔はこれ以上無いほどに赤く染まってしまった。
 承太郎の中では、もう生娘でもあるまいにと浮かぶ以前に、こうも自分のたった一つの言葉に振り回されるのを見ると気分が良く、そちらの気持ちの方が勝った。
 だが今だけは残念ながら発された願望が叶うことはない。
「…体がついていかねえ」
 気持ちが完全に出鼻をくじかれたせいか、押さえ隠していたはずのしゃがれた音が承太郎の喉をついた。ようやく小さな体から退いてベッドの脇に寝転がると、弱みをみせたのがそれほどに珍しかったのか、目を点にした名前がじっと承太郎を見つめ、そのあと楽しそうに喉を鳴らしていた。


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