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初恋は墓に埋もれた

 死者のない葬式を終えた後も、雨はまだ降り続いている。

 傘も差していない剥き出しの体に雨粒が当たっては服の色を変えていった。体温がどんどん奪われていく。畳まれたままの傘を握りしめる手が冷たい。家に着いたらきっと赤くかじかむんだろう。
 傍から見ればどう考えたって傷心した女にしか見えないはずだ。そういう時は黙って離れるか、可哀そうに遠巻きに伺うとか、気味悪がって近づかないし、一人にしてあげようって思うのが普通なんじゃあないだろうか。だというのに、どうしてか黙ったままの色男が私の半歩後ろをついて歩いている。彼も傘を持っているはずなのに雨粒を弾く音がしない。
 いつもの彼なら。傘も差さずに通りを歩いている女の子を見つけたら「陶器のように麗しい肌をわざわざ赤く染めるだなんて信じられないな」なんて甘ったるい台詞でも吐きながら、さも当然のように雨を防いであげるのだろう。いや、ちょっとこれはチョイスがひどすぎかな。シーザーならもっと良い例え、女の子を一発でKOしちゃうような言葉回しで翻弄するだろう。
 私には残念ながら彼のようなセンスはないし、数々の女性に向けられてきたその優しさも、私個人に矛先が向いたことは決してない。
 今の状況がまさにそうだ。彼は傘を手にしているのに優しくそれを差しかけてくれない。つまり、そういうことなのだ。こうして気まずそうに、傷心の私に手をこまねいているシーザーのように、スージーQと共に現れて突然の結婚を報告してのけたジョセフも、私をただの友人の一人としか思っていなかった。このかたジョセフは私のことなんてこれっぽっちも女性として見ていなかったのだ。これに気付くのにだいぶ時間を浪費してしまった。いつも一緒にいたから誰よりも近い所にいるのだと胸を張っていたのに。それはあくまでも近しい友人の間柄でしかなく。

 死者の帰ってきた葬式が終わった今も、雨はまだ振り続いている。


 小洒落た洋裁店の前を通る時に、店先のショーウィンドウに私とシーザーの姿が映りこむのを見た。虚像のシーザーは黙ったままケース越しに私と目を合わせている。
 振り向いて悪態をついてやってもよかった。でもそうはしなかった。というよりも出来なかった。
 本当のシーザーを瞳に映してしまったら、喉まで出かかっているモヤが剥き出しになってしまう気がした。
「ひどい女が映ってるよシーザー」
 喉が変に乾いてひりついている。
「相手がスージーQだなんて、怒りのやり場もないよ」
 シーザーは何も返さない。ただじっと私の後ろでショーウィンドウに映る私を見ている。
「他の女の人のところに行っちゃうくらいなら、いっそ本当に戻って来なければ良かったのに」
「名前ッ!」
 最も言ってはいけないことを口にしてしまった。最低で最悪なゴミくずにも劣る性悪女だ。
 ありとあらゆる罵りが何度と頭の中に浮かんではグサグサと私の心を抉っていく。ジョセフが生きていてくれて本当に嬉しかったのに、それは嘘じゃあないのに、私の女の部分が黒く体を覆っている。自分のことが本当に嫌いになりそう。
「もういい名前、やめろ」
 初めて聞くシーザーの冷たい声に、黒い体だけじゃなく心まで凍らされそうだと思った。
 ねえ、ほらやっぱり、あなたたちは私を異性とは思っていないのね。こんなときくらい優しい言葉を投げかけてくれたっていいじゃない。
 振り仰いだシーザーの表情はカワイソウな人を見るみたいに儚げで哀しかった。
「…そんなに惨めに見える?」
 透きとおるような淡いグリーンの瞳に問いかけた。
「見てられないくらいには惨たらしいな。この雨の所為で見た目も中身もひどいもんだ」
 辛辣な刃は私の心を切り刻むと思いきや、かえって私を身軽にした。自分で自分に投げかけた悪評と言葉の種類は同じはずなのに、変に気を遣わずズケズケとものを言うシーザーに心底ホッとしたのだ。
「…俺はどうしたらいい?」
「え?」
 唐突に、弱気そうなシーザーがそこに居た気がして、私は目を見張った。
 けれどそれは幻だったようで、降りしきる雨粒の向こうにはいつもの自信たっぷりなシーザーしか居なかった。
 シーザーが私との距離を詰めてきた。雨をしのぎきるには頼りなく狭い軒先に、私の肩を抱いて引きこんだ。余りにも平然とした、流れるような所作。
「今の俺は友が帰ってきて気分がいい」
「でしょうね。私は複雑だけど」
「そこでだ。今なら何だって言うこと聞いてやるぜ? ほら言ってみろ」
 睫毛に雨粒が乗っているせいで乱反射したためか、シーザーの瞳の色が子猫のように震えている。
 彼の言葉を、仲間に対する気遣いと挑戦として受け取っていた。
「…いつも女の子に言う、とびきりの殺し文句を言ってよ。『愛してる』って言って。本気にしないから」
 私がジョセフを必要としたように、私も誰かに求められたかった。その一心で乞うた。
 シーザーは変なお願いに面食らったようだったけれど、目を細めたのが決意の表れだったのか、躊躇いがちに手をとった。
 瞬間、私の意識は射抜かれたようにシーザーに一点集中する。
 ほんの一瞬にして彼の瞳が芝居にしてはあまりにも真剣な双眸に変わったから。
 これから起こることは嘘だと分かっているのに、現実と虚像を混同しかけた馬鹿な私は彼から目を離せない。
「シニョリーナ、俺があいつなんかよりずっと幸せにしてやるよ。このシーザー・アントニオ・ツェペリは名前、君を生涯愛すと誓う」
 シーザーは今度は躊躇なく水たまりの上に片膝をつくと、姫を守る騎士のように仰々しく私の薬指にキスを落とした。
 傍から見る人が居たならば、きっとこの上なく無様で不格好なプロポーズだったことだろう。でも事実そうではなかった。汚れることさえ厭わない清廉潔白な魂の持ち主による、これ以上なく美しい洗礼のようだったのだ。それはまるで。
 これは私を慰めるための芝居なのだということすらも忘れて息を呑んでしまった。
 薬指からシーザーの唇が離れ、再び二つのグリーンが見上げるまで、私は偽物の世界に浸りきっていたのだ。
「…あ、」
 絞り出した声が裏返っていて、慌てて有りもしない唾を飲みこんだ。
「そこまで言ってなんて頼んでない」
「出血大サービスだ」
 シーザーがにやりと笑い、立ち上がる。はじめてそこで落ち着きを取り戻した。
「ありがとう」
「愛しいひとのお役に立てたなら光栄だ」
 芝居がかった所作で彼がお辞儀をすると、何のとっかかりもなく自然と頬が緩んだ。
 シーザーの極上の嘘で、黒々しい心が一挙に洗われた気さえする。
 ほんとうにありがとう、と。心から言えた。
「でもごめんね。早く帰ろうか」
 彼の膝下はびっしょりと雨が染み込んでしまったせいで色が変わっている。かくいう私も今になって背筋に寒気を感じてきた。
 きっと私たちは明日お互い仲良く熱を出すことだろう。
 今となってはシーザーはシーザーなりに私を元気づけようとする一心でついてきてくれたのだとよくわかっていた。余裕がなかったとはいえ、さっきまで自分のことしか頭になかったのをひどく恥じた。
「もう遅いかもしれないけど傘差して、家帰ったら早くに着替えてね」
「おい何言ってるんだ?」
「え? 何って何よ? 帰るんじゃあないの」
 手を振って走りだそうとした私だったが、質問の意図が読めずに問い返した。
「ははあ、はれて婚約したっていうのに別々に帰りたいだなんて、俺を試してるんだろう」
「こんや…こんやく?」
 面食らった私は間抜けに口を開けていた。
 シーザーは悪童のようなしたり顔で意味のない傘を差しかけてきた。
「ちがう、ちがう。私は嘘を言ってというつもりで頼んだのよ。『本気にしない』って言ったでしょ」
「本気云々は聞いたが俺は『嘘をつけ』と言われた覚えはないぜ。君が『愛してると言って』と頼んで俺が応えた。これはもう立派なフェディーナ(婚約者)だろう?」
 絶句する私をシーザーはどう受け取ったのか。整理のつかないまま背中に回された腕に、自宅とはあらぬ方向に歩かされ、差された傘が私とシーザーの距離をゼロにした。
「もちろん君の言う通り本気にしてくれなくたって構わない。でも俺の言質は取ったと思ってくれていい」
「シ、シーザー…わたし、」

 気付けば、死者のない墓穴を浸していた雨はいつのまにか上がっていた。


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