Index

夏の子午線

 外行きでもない安っぽいつくりのサンダルは、靴底越しにすら夏の暑さを訴えてくる。コンクリートの上にそのまま突っ立っているのと変わりないんじゃあないか、と思わせるくらいには私の体も熱をもっていた。
 単に真夏の暑さのせいかもしれないが、そう一概に言い切るのには多少弊害があった。
「アイス落ちるぞ」
 べしゃり。
 すぐ隣に立った大男が注意するなり、見計らったように私の手の中のソーダアイスが落ちた。
 見上げると「ほらな」とでも言いたげに男が笑った。
 かろうじてまだ固形の残ったアイスの棒から、どろりとした液体がつたってくるのを慌てて舐めとった。
 足元では食糧の噂をいち早く聞きつけた蟻の一匹が先陣を切っていた。


 夏休みに入っての私の日課は、ラジオ体操でも課題を終わらせるでもなく、「夏」という一日を過ごすことだった。友達に呼ばれては遊びに出かけるが、それ以外の日は何をするわけでもなくめっぽう暇だったので(宿題を終わらせろという有り難いお説教はいまはまだ聞きたくない)、図書館へ行って涼みに出たり、あとは近所のつぶれかけの駄菓子屋に行って郷愁のようなそれらしい気分に浸るのに徹していた。
 ある日に私はいつものように駄菓子屋の軒先でアイスを食べていた。買う味はローテーションと決めていたので、その時もたしかソーダ味だったように思う。
 頼りないくらい小さく伸びた建物の影に身を収め、通りをまばらに行き交う人々を眺めながら、ポケットにしのばせていたミュージックプレイヤーの電源を入れる。シャリシャリとアイスの鳴る音を頭蓋骨に響かせつつ、いかにも真夏といった風景を前にして、音の波に身を委ねていたところだった。
「久保田利伸」
 そう、ちょうど友達からおすすめと言われて貸し付けられたその人の曲を聞いていたところだったから。ほとんど呟きのようにして聞こえた声が私に関係あるものと思って、即座に反応して声の方を見た。
 振り返るなり、巨人のような男がこちらを見下ろしていて、一時ばかりびっくりした。整った顔立ちもまた、どこか人間離れして見える。
「すみません」
 音漏れしてました、と呟くと彼は「いいや」とだけ言って、ごく自然に隣に並んだ。音量を小さくする私の横で、さっきまで私もそうしていたように日射しの下をぼんやりと眺めている。
「新譜か?」
 友達が買う場面に私もいたから、それに間違いは無い。頷いて返すと、彼は「そうか」と言ってそれきり口を噤む。
 いま、一体どういう状況になっているのか理解できずにいる。とりあえず耳に響く曲に神経を集中させることにしたのに、蝉の声がさっきよりいっそううるさくなっている、気がする。
 最後の一口を流し込んで、彼の方をみやってから駄菓子屋の奥に引っ込んだ。

「これどうぞ」
 奥で扇風機の風を受けながら呆けていたおばちゃんから、当り棒と引き換えに手に入れたアイスを渡した。
 彼の瞳の奥に、一瞬ばかり面食らったような揺らぎが見えた。
「暑そうだったので」
 受け取ってもらえないのも恥ずかしいだけだったので、そっと付け加える。
 彼は笑みを浮かべると、アイスを受け取ってくれた。私も笑みを零す。それだけ。
 夏の出会いっていう、小説の一編にありそうでなんだかいいなあってそれくらいのお話だった。


 駄菓子屋に出向くのは習慣付いてはいたが、連日通いをしていたわけでもない。なのに、翌日も私の足はそこへ向いていた。
 期待はほんの少しばかりの装備に留めたつもりだったのに、遠目にもあの人が居るのが見えて心臓が思い切り跳ねた。イヤホンを外して会釈をする。彼はしばし私を見つめて記憶を辿ったようだった。それもすぐに消えて、ほっとする。
「昨日の久保田利伸」
「久保田利伸じゃありませんったら」
 その日の彼は、ローテーションで私の買うつもりだった苺みぞれをほおばっていた。

 それからも度々、彼を見かけた。時間帯がぴったり合うらしく、示し合わせたわけでもないのに何度となく。
 それでも長い会話を交わしたことは無い。お互いに名前も年齢も知らない、何をしているのか、学生なのか社会人なのか――どちらかがアイスを食べ終えるまでの関係だ。


「なあ。それ貸してくれ」
 片耳にぶらさげっ放しのイヤホンを指して彼が言った。
 取り外そうとしたところに制止がかかる。
「そのままでいい」
「そのまま?」
 意味を解するよりも相手の方が早かった。大きい手が眼前に伸びて来て、固まった瞬間を逃すまいとぶら下がったイヤホンとプレイヤーを奪っていく。
 頬をかすめていった指と、現在進行形で触れる肩口が熱を持っているのに気がついた時だった。そこでようやく、私は自覚した。どうしてここへ足を運んでしまうのか。この人の隣はひどく落ち着くのか。
 耳奥で鳴っているメロディラインも今はもうガラスを隔てた向こうの世界で鳴っているようだった。
「アイス」
 はっとなって顔をあげると、涼しげな瞳とかち合う。
「落ちるぞ」
 警告もむなしく、溶けたアイスは私の指先にバウンドしたあと滑稽にもすべり落ちた。
 熱のたまったアスファルトがあっというまにアイスをむさぼっていく。私の指の間をつたう、べとりとした残り物が甘ったるい匂いを漂わせ続けるのに、彼は眉をひそめたようだった。
「今日はもう、帰ります」
 それだけをやっとのことで言って、何気ない体を装ったつもりだった。片耳につけていたイヤホンがぷつりと抜けるのも気にせず、一度も彼の方を振り返らなかったけど、家に着いてから、私たちの別れはいつもただ単にアイスを食べ終えたらどちらからともなく帰るものだったのを思い出した。そのうえ、彼にプレイヤーを持って行かれたっきりなのをほどなくして思い返し、二乗に自己嫌悪に陥った。
 小さいとはいえ高価なものだから返さなければと、相手は考えて明日もあそこに来るかも知れない。そこまで神経の細いような人には見えないけれど、少なくとも誠実そうな人だと思っているから。
 私が出向かなかったらそれはそれで不審感を抱くだろう。そうしてこの小さな心を感づかれてしまったら。


 会いたかったけど会いたくなくて、いつもの時間より少し遅らせて駄菓子屋に行った――のにやっぱり彼が居て、安堵するのと同じくらいに胸のあたりがきつく痛んだ。
「…時間」
「ん」
「この時間にも居たんですね」
「ああ。帰り難くてな」
 胸がはりつめる。
 思えばいつも私よりほんの少し早く居て、私が先に帰るのが常になっていたから、彼がいつ来て帰るのかを全く知らなかった。
 今日ばかりはアイスを買わずに、彼の隣に立って何から話しかけるべきかを探した。昨日の夜にベッドの上でもだもだしながら色々と考えてきた筈なのに、彼の顔を見るなり一瞬でパアになっていた。
「"名前"」
「えっ」
 びっくりした私の顔がよほど面白かったらしく、彼はそう滅多に見せない笑顔を見せるとふところから煙草とミュージックプレイヤーを取り出した。
 ああ、そうだった。プレイヤーの後ろにネームシールが貼ってあったからなのか。
 なんとなく恥ずかしいのと一緒に煙がふわりと漂ってくる。
 今までに彼が煙草を吸うところを見たことが無かったから、ちょっと面食らったけど。でも、時々風に乗ってきたあの香りは煙草の匂いでもあったのかとすんなり合点がいった。

「今時持ちもんに名前なんて書くか、フツー」
「そう教わってきたから」
「なるほど。そういう奴なんだな」
「あなたも。そういう人なんだね」

「お互い何も知らないらしいな」
 言った彼が視線を逸らすように泳がせたのは、はたして私の気のせいだろうか。
 ほんの少し良い気分になって、からかうように言葉を遊ばせた。
「なにをわかってなくちゃだめなの?」
「――そうだな、とりあえず」

 好みの味からでもいいぜ、と彼がアイスの当り棒を差し出した。


企画「オウム返しの会話編」提出


-10-
目次



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -