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翻弄

 湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつくようになって随分と経つ。
 波紋の師たちに徹底的にしごかれ、いやでも出来た傷は見かけには塞がったものの、まだ完全に治りきってはいない。気圧のせいか湿気のせいか細かいことは知らなくともじくじくと痛む。
 嵐か、それでなくとも激しい風雨が今夜あたりやってくるだろう。
 買い物に出かけた名前の帰りがどうにも遅い。空がまだ灰色を保っているうちに帰って来られば良いのだが。

 シーザーの心配もよそに、行きつけの店で知り合いに偶然会った名前は談笑に興じていた。気付けば空が昏々と翳っている。夕食の時間も近くなっていた。まだ手に持ったままだった買い物カゴの中の物の清算を終えると、名前は別段慌てる様子もなく帰りの途につく。そんな調子だったものだから、夕食の時間を一刻ほど過ぎてようやく玄関に現れた彼女はとんだ濡れ鼠になっていた。
「風邪を引くのにわざわざ買い出しを長引かせたのか?」
 シーザーが呆れながら名前の髪を拭いてやると、白いバスタオルの下で彼女の長い睫毛が揺れた。明日にでもまた同じように風邪を引くに違いないのに、されるがままになりながら彼女はただ笑っている。
「風邪もたまにはいいかも」
「冗談じゃあない。明日に君を抱きしめる分がなくなる」
「なにそれ、ヘンなの」
「ヘンで結構。ほら、しっかりバスタブに浸かってくるんだ」
 いつになく過保護さの増している同居人に押しやられ、名前が脱衣所に消えていく。窓を雨粒が容赦なく叩きつけるのを聞きながら、シーザーは名前の着替えを持ち出すために彼女の部屋に入った。
 ところがクローゼットを開けても裸のハンガーがあるのみで衣服が一つも見当たらない。首を傾げ、無いのを承知でドレッサーの小さな引き出しやベッド下を覗いてみもした。

「着替えが見当たらないぞ」
 一通りの場所をあたってみてからシーザーがガラス戸越しにシャワー室の彼女に声をかける。
「ああ、そうだった」
 名前が言うには、シーザーの家に泊まりこむようになってからというもの、持ち込んだのは少ない衣服くらいで、彼の見た通りに他には一切の着替えがないらしい。思い返すに、今濡れたものだけ除外してみても見たことのある衣服はまだ洗濯すらされておらず、洗濯カゴに突っ込み放しになっている。そういう経緯で、着るべき服がないのだと言う。
 名前が隅から隅まで伝えると、シーザーは呆れた面持ちをますます濃くして呟いた。
「うっかりしすぎじゃあないのか。いや、それ以前に…一つも服がなくなるまで放っておくとは…そういう女性だとは思わなかった」
「帰ったらまとめて洗濯するつもりだったんだもの。本当よ」
 それが真意か嘘によるものかは別にしても、おそらく磨硝子の向こうでむくれているであろう彼女の表情は容易く想像に及んだ。
 はてさて、どうするべきか。

 名前がバスルームから出ると、洗濯カゴの端に見覚えのないシャツが放り込まれていた。見たところ、洗濯に出されたものではなく清潔だ。「シーザー?」戸口の向こうか、はたまたそのさらに向こうに居るであろう同居人に声を投げかけてみるのに、返事は無い。了承した、とばかりに体を丁寧に拭いたあと、シャツを着た。襟口に首を通すなり、最近になっていっそう感じることの多くなった香りが漂う。どこか和やかな気持ちに浸らせてくれる。この香りは、いつも。

 リビングへ戻ってもシーザーの姿が見えない。それどころか電気が落ちて、通りから伸びてくる街灯の明かりだけが光源になっている。
 恥ずかしがっているのかしら。まさか。彼に限って。ああ、でも、ひょっとするとそういう時もあるのかもしれない。こんな典型的な『男物の服を着させる』という趣向に近しいものは太古からあるものね。出典は知らないし探す気もないけれど。
 名前はソファに浅く落ち着いて、シーザーが観念して現れるのを待った。部屋の大きなガラス窓の向こうでは激しい鉄砲玉のような雨が今か今かと家の中への侵入をうかがっている。一際大きな特攻隊が三度ほど撃墜された後だろうか、シーザーはリビングへ帰ってきて「ブレーカーが落ちた」ともらした。その時ぴしゃりと雷鳴が響いて、一瞬ばかり部屋の中が煌々と照らされた。シーザーはもう一度行方をくらまし、次に帰ってきた時には温かいミルクを手にしていた。

「落ち着いたかい」
「最初から落ち着いてるわ」
 くすくすと笑いながら名前は受け取ったマグカップに三度目の口をつける。
 豪雨に加えて雷の大合唱に移り変わっていたが、ここは隔絶された世界のように平和だった。暗闇でも。
「透けはしないでしょ? このシャツ結構厚めだもの。私もホラ、胸がとびきり大きいってわけでもなし」
 言いながら名前が確かめるようにシャツの襟口を掴んで、自分の胸を覗きこんだ。夜目に慣れていたシーザーの視界の端にその姿が収まる。狙っているのか、そうでないのかは知れないが。ぶかぶかとしたシーザーのシャツは名前の女性の体形に対してひどくミスマッチでありながら、それでいて彼女にとても似合っているようにさえ見える。勿論、家の中限定だが。万が一にも彼女が気に行って彼のシャツを着回したいなどと言い出したら、そう思うと気が気ではない。何としても名前にはマメな洗濯を習慣づけさせなければ、とシーザーはどこか方向音痴な決意を固めていた。

「ねえ」
「ん?」
「シーザーの匂いがするの」
 挙げ句にこれだ。彼女が至極楽しそうに、それでいて軽々しくそんなことを言うものだから。
「…危ないな」
「なにが」
「いろいろと」
 名前からはシーザーの表情が読めているのかわからない。それでも彼女は楽しそうに言うのだ。
「見る?」
 

 光と音が二度、落ちた。

「シーザーでも動揺するのね」
「………そんなにおれをからかって面白いか?」
「うん。とっても」
 和やかに笑む彼女の表情がシーザーの瞳に映る。「名前だから、いつもペースを乱されるんだ」と、心なしか赤くなっている(であろう)同居人を見、名前はくすぐったそうに表情の色を変えた。

リクエスト「シーザーのうちにお泊りで彼シャツ」


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