虚勢誉れ高い狐
贅をこらした調度品に、行き交うおべっか。外面ばかり飾り立ててばかりで中味の伴っていないお客たち。シェフが腕を奮った料理が乗せられた真っ白なクロスの下では、磨きぬかれたテーブルも自分が薄汚れていくのに鼻を曲げていることだろう。
名前は自分もまた同じようにからっぽの獣であるのを自覚しながら、談笑の輪から離れた壁際に身を預けていた。所詮成り上がりの出である限り、あの中で一生上手く立ち回ることなど不可能だと知っている。彼女が産まれる前から父の地位はとうに確立されていたし、また物心つく前からレディとしての教育をほどこされてきた。けれどどんなに野の獣が品の良さを磨いたところでまともになるのは上っ面の毛皮が上等に見えるくらいなもの。いつか思い知ってからというもの、真面目に道化を演じるのもばかばかしく、こうして酔い醒ましを装って人から外れているわけだ。先程からしきりに目が合っている気がするウェイターへと、毎回笑顔を向けさえすればいい。それだけの話だ。
「懲りずに来たんだな。また恥をさらしに来たか」
今日のところはウェイターと親密にやるのだけでは済まないらしい。ちらりと脇に目をやれば、いつのまにやら自分と同じく壁際にもたれた下級貴族様が下卑たものを見る目で笑っている。幼い頃から顔を突き合わせているディエゴだった。
「かまわないで」
短く、きっぱりと、名前は突っぱねた。ディエゴのことはどうしても好かなかった。自尊心が高く、高慢で人の気持ちを踏みにじる。ジョッキーとしての才能を発揮し、持ち前のルックスと振る舞いで外に対してはなかなかに良い評判も聞き及んでいるものの、最低な評判も同じかそれ以上耳にするし、彼女はまだ彼を人間として最悪の男だと思っている。名前の背の方が高かった頃までの話だ、仲が良かったのは。まだあの頃は彼の悪たる部分を知らなかったから。
「なるほど。こうやって娘が父の仕事の評判を落としていくんだな。参考になる」
「何を。父上と私は関係ない。ましてや家業には関わってさえいないんだから」
「そうか。君のおっしゃるとおりなんだろう。君がそうお思いになりたいらしいからな」
言って、ディエゴはウェイターを呼びつけた。まだこの安住の地に居座る気なのかと名前は眉をひそめる。お互いに悪態をつき、皮肉を言い、顔を突き合わせればどことない黒いもやがかかるばかり。精神を疲弊させるだけなのだから出来得る限り同じ空気を共有しない方が幸せにやっていけると、ディエゴの方も馬鹿でないのだから承知しているはずだ。
「ずっと馬から降りてこなければいいのに」
「何か言ったか」
「べつに。きっと向こうのご婦人の呟きを拾ったんでしょう。地獄耳のようだから」
ふん、と鼻をわざとらしく慣らす横で、ディエゴは何がおかしいのかしきりに笑っていた。
*** 季節は秋を巡り、冬に辿り着いて、名前の父が病床に伏せってから幾日かが過ぎた。若くして工場を身一つできりもりして体を酷使してきたことが老いと共にあらわれたのだというのは、医者の目を通さずとも明らかだった。いつしか名前は看病にと毎日朝昼晩と父の寝室へと足を運び、手伝いがやるような身の回りの世話を率先して引き受けるようになっていた。
成り上がりと言われる事が嫌でたまらなかった。父が貴族社会の目を気にして、次第に厳格になっていくのが寂しかった。本来はしなくてもよかった花嫁修業を押しつけられるのが癪だった。家族のためと働いては上流社会の生活を押しつけた父を疎ましく感じながら、一方で誰より尊敬していた。だからこそ名前は日に日にやつれ衰弱してゆく父を見ていられなかった。
そんな日だ。使いの者と一緒に買い出しに出かけた先で、とある店の前に足を止めたのは。
かわいらしいですね、とお手伝いが軒先に出された花弁に顔を近づけてうっとりとしている。店は季節外れの花を売っていた。名前は両腕の中の荷物を抱え直して彼女にならった。色づいた花の香りが鼻腔をくすぐる。
「そういえば父上、いつか私の花冠をあげたとき、とっても喜んで書斎にずっと置いてくださったっけ」
近頃は父も寝室にこもりきりでろくに色や自然を楽しめていない。あの時のように口元に深い皺を作って笑うことも無くなって久しい。
懐かしい思い出を掘り起こしたのもあって、久しぶりに口元をほころばせた名前は花屋の扉を開いた。
「ああ、いいさ。店中の花をもらおう。一輪残らずな」
聞き慣れた声。一緒にきゃあきゃあと女の子の高い声がのびてくる。
名前が花や植木の間をくぐりぬけてカウンターを見つけると、案の定そこにはディエゴと取り巻きの女性が楽しそうに店員と言葉を交わしていた。呆然と立ち尽くす名前をディエゴが視界の端にとらえたのはまもなく。
「なんだ、名前か。花を買うつもりだったのか? あいにくとオレが買い取った後なんだ。またの入荷を待つんだな」
ディエゴはいつもの調子で鼻で笑う。
ディエゴはわるくない。
だってなにもしらないのだから。
勝負の世界でも名を馳せ、社交界でも評判を伸ばしているディエゴ。何もかもを掴もうとし、全てを手にしているディエゴ。全部持っているその彼が、目の前で名前のものまで掻っ攫っていこうとしている。
やつ当たりと知っていながら、ふつふつと煮え切らない感情がわきあがってくる。
「どうした。そんなに欲しかったのか? ……一種類ぐらいなら寄こしてやったっていいぞ」
言い返さず、名前が押し黙ったままなので、彼もいつになく調子を崩したらしい。けれど名前はそのまま踵を返し、続いて投げかけられた声にも頑なに無視した。
彼にはたしかに腹が立った。同時に、ディエゴに勝手に怒りを抱く自分のわがままさに最もはらわたが煮えくりかえっていた。彼と話すことで、自分の醜悪さに向き合うのがつらすぎたのだ。
店先に戻って手伝いに他の花屋をあたるよう頼んだが、この時期に花を扱っている店自体近郊に少なく、父は草木芽吹く春を迎えることなく間もなくして亡くなった。
*** 葬式は滞りなく終わった。工場の経営を適任者にまかせるため書類の整理も済ませたし、遺された家や別宅についてもいくつか売り払うと決めた。所在の決まっていないのは名前の悲しみのやり場だけだ。
出枯らしたと思っていた涙も、父の遺品整理をするたびにとめどなく頬を伝う。それでも涙を拭いながら全てを片付けると決めたのは自分だった。
父の部屋にこもって衣服を懐かしく引き出していると、入口の扉がこんこん、と叩かれた。家の者であるのに疑問を持たずはい、と返事をすると、間髪入れずに扉が開いた。踏み込んできたのはディエゴ。名前は慌てて頬の滴を拭う。
「どうしたの」
両手に衣服を抱えて、処分する服をベッドに積み上げる。思いの外枯れ気味の声が出て一瞬ばかり驚いたのはディエゴだけでなく名前もまた同じだった。けれどディエゴは名前に気取られる暇なく元通り目を細めてみせる。傷心していた名前は、いつもは憎まれ口を叩くような悪友もこの時だけは素直に自分を慰めてくれるものだろうと僅かに期待を寄せてしまった。それが、いけなかった。
「父親のために涙を流すなんて馬鹿らしいと伝えに来た」
あまりにも残酷な一言。
いつもディエゴが一といえば二を言い返すほど口喧嘩し慣れていたはずの名前も、この時だけは返す言葉を失った。怒るより先に、目の前の男に対してどっと諦めの気持ちが浮かび上がって、いつかの花屋の出来事が脳裏を駆け巡った。悪気のない笑み、阻まれたささやかなプレゼント。
「かえって」
発した声はとてもつめたく、そして震えていた。
一番の馬鹿をやったのは自分だ。考えてみれば今までだってそうだった。どんなにディエゴに拒絶の態度を見せようとも軽くあしらわれてはからかいの対象に長くされていたのに、どうしてこの期に及ぶまでとうとう気がつかなかったのだろう。
「帰って!」
彼は本気で自分を嫌っていたのだと。
*** 泣き明かす日々が続いていた。葬儀を終えて一週間ほど自宅にこもりがちになっていた生活を打ち壊したのは給仕の持ってきたささやかな贈り物だった。今朝早く郵便で届いたのだという、差出人のないそれ。一輪きりの花と手紙にも満たないメモにぶっきらぼうな字で『泣かないで』。名前は首を傾げるばかりだった。
それからほどなくして、毎日のように贈り物が届くようになった。足しげく、申し訳程度の一輪の花と、ついでのように一言添えられた手紙。書き添えられた文の内容はまちまちだったが、どれもが彼女を気遣う心が見てとれた。
『どうか笑ってください』
『今日の空は澄んでいます。外へ出て』
『お気を落とされないように』
送り主の分からない届け物に気味悪がったのは最初の一、二日のことだ。一、二週と続けば自ずと知れてくるその人の優しさがいたいほどに嬉しかった。
そのうち邸宅内でも謎の贈り物が噂されるようになり、いつしか給仕たちも「ひとりぼっちになられたお嬢様が早く元気を取り戻されるよう、神さまが手を差し伸べられたのですよ」と言うようになった。もちろん、一輪の花と手紙を毎日送ってくれるマメな神さまなんてどこの宗教にもいないのは知っているけれど、なんとなくその人を神さまとすると心の中がぽかぽかと暖かくなった。"神さま"が自分を励まそうとしてくれている。それぽっちで救われた。
ある日は馬に乗ることにした。『そろそろ馬のことも思い出されては』と手紙が送られたから。たしかにしばらくは叔父の元に預けた愛馬の様子さえろくに知らない。つくづく自分のことばかりだなと名前は胸中で自嘲してはふう、と息をつく。
最初こそ手伝いの者たちが、このままでは当主に次いで名前も病に伏せってしまうのでないかと心配していたのも嘘のようになっていた。これもまた名も知らぬ神さまのおかげとして、彼女は有り難く受け取っていた。名前の心は良い方向に傾きつつあった。
「随分と久しぶりだな。今の今まで暗い屋敷に引きこもって泣いてたのか?」
名前はびっくりして、慌ててうんざりとした顔を作ると、馬上から振り向いた。
「ごきげんよう、ディエゴ。ここは叔父の領地だったはずだけど」
「奇遇も奇遇、きみの叔父とは付き合いも長くてね。レースの話をした礼に自由に使わせてもらってる」
名前はむすりとして前方に向き直り、馬を軽く走らせる。続いて後方から離れて蹄の音。名前は前を向いたまま声を張り上げた。
「どうぞ叔父と仲良くされたら!」
「初老と話すよりこちらのほうが気負わなくて済む」
「それって人を小馬鹿にするほうがもっと楽しいってことかしら。良い性格してる」
続けざまに悪態をつくと、名前はディエゴを撒こうとさらに駆けさせる。とはいえ、名をあげた騎手を容易に撒くこと到底かなわず、彼女もそうなることを望んでいなかった。いつものように罵り合うことが今日ばかりは日常に帰って来たようでひどく落ち着いたのだった。
いつしか領地端近い小高い丘に行きつく。丘の周囲を取り囲むように草花が生い茂っている。名前は馬上から降りると、そのうちの見覚えのある花の元へ屈みこんだ。ちょうど今朝がた届いたものと同じ。
「…花が好きなのか?」
いつか花屋でばったり出くわしたのを思うと白々しい台詞だったが、名前はどこか引っかかった様子で頭上を振り仰ぐ。同じく愛馬から降りてこちらへ寄ってきたディエゴの姿があった。
「ディエゴ、今日は具合でもわるいの?」
「オレが? なぜ?」
そう言って、人を小馬鹿にしたような笑いと共にディエゴが肩を竦めてみせる。この様はまさにいつもの彼でしかなかったが、最初の声色がどうにも調子を奮っていなかった。
「だっていつもならもっと私のこと饒舌に罵るでしょう。いつもの迫力がない」
「聞き間違いか。罵られたいように聞こえたが」
「違うに決まってるでしょ。…もしかして反省してるの? ディエゴ」
「何を言ってるのかさっぱりだな」
「ああ、大丈夫よ。悪かった、なんて謝罪の言葉、あなたの口から聞きたくないから安心して。らしくないし、赦しを乞うディエゴの姿なんて見たくないもの」
勝手に名前の中で膨らんでいく仮説に、ディエゴは反論にと口を開きかけたが、花を一輪きり摘んで立ち上がった名前を見、唇を引き結んだ。
「"もう気にしてないから、どうかいつものディエゴになってください"」
「知ってたのか」
珍しく面食らった様子でディエゴが口にするなり、名前はこらえきれない笑いに噴きだした。
「かまをかけたのよ」
「………」
「でも十中八九あなただと思ってた。社交界でも浮き気味の私にかまってくれる物好きなんてあなたくらいのものだから」
「……きみに友達がいないのを考慮に入れなかったのはオレの誤算だ」
「それにしても笑っちゃう! 『元気になってください』だなんて! このネタでまる一カ月笑い通せる自信あるわ!」
「シルバー・バレット、こいつを後ろ脚で蹴ってくれ。思いきりな」
「からかいすぎたわ、ごめんなさい。でもディエゴくらいなものよ。私を腹立たしくさせたり、心を安らがせてくれたのも。これってすごいことよ。誇ってもいいと思う」
「そこのところ全くもって同感だ。オレもきみが愛おしくて馬に蹴られて死ねと毎晩願うくらいには好きだ」
「憎んでるの? それとも好きなの?」
「さあな。なんなら続きは馬屋に愛馬たちをやって、じっくり話そうじゃあないか」
「いいわ」
名前は呆れて笑った。それから、はたと思い当たって立ち止まる。
「ちょっと待って。馬屋? …もしかして本気でシルバー・バレットに蹴らせるつもりじゃあないでしょうね」
「まさか。馬屋に人間はいないだろう。みなまで言わせるな」
「? ディエゴ、なんだかいま引っかかったんだけど…どういうこと?」
「どうでもいいだろ。ほら」
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