ブラウス越しの肌の匂い
花京院はここしばらく頬の内側に居座っている口内炎に頭を悩まされていた。
あまり弄らない方が良いと花京院は分かりつつも、ついと舌先で触れてしまう。妙な感覚があった。そろそろ治っていてもおかしくない頃合いだというのに、未だ口腔に開いた穴が治まる気配がないのはおそらくその所為だ。
口の中の怪我や炎症というのは厄介なもので、場所によっては人と会話すること、食事時の咀嚼すらちょっとしたストレスの起因になる。そうしたイライラが募りに募って、今日の花京院は柄でない刺々しさがあった。
もう一度改めて説明しておくと、花京院はこの日一日じゅう他人と話すことに億劫にさえなっていた。
事件は帰宅を促す鐘の鳴った、放課後しばらく経っての時分に起こった。
花京院は職員室での用を済ませた後、口内炎を気にしつつ自分の教室の扉を開いた。この時間ともなると教室に残っている生徒もいない。案の定人気のない教室は昼間の騒がしさが嘘のように静まりかえっていた。
座席横にかけた学生鞄を取り上げて、そのまま踵を返して教室を後にしようとする。
花京院は戸をくぐる時、何を思うでもなくふと教室の中を一瞥した。コンマ数秒、無意識のうちに体が硬直してしまう。
教室入口からも、そして戸から花京院の机を行くルートからもわずかに意識の外だった微妙な位置に名前はいた。学校指定の白いブラウスの前ははだけて、ホックも止められていないスカートは腰でようやっと引っかかっているぐらいの宙ぶらりん。わずかにのぞいた下着と白い肌が夕暮れ時の色に染めつけられている。
明らかに着替えの途中と分かる格好で、名前は天敵に睨まれた小動物のようにじっと息を殺して花京院を見ていた。
本来ならごめんの一つでも発して弁解するべきだったのだろう。けれど花京院は狼狽すらせずに彼女をコンマ数秒見たきりで教室を出てしまった。
全くの無表情でそのまま廊下を変わりなく歩き、階段を下りる。
生徒玄関のロッカーからごとんと靴を落としたところでようやく花京院は顔を覆った。
あまりにも驚いてしまったから。
花京院は誰にも聞こえない胸中で弁解する。
口内炎が痛かったから。
さっきだけじゃあない。今日という日そのものが喋ることに億劫だったから。
靴を履くときにバランスを取ろうと支えに伸ばした腕がロッカーまで届かず空振りしたので、花京院は自分が思いの外パニックになっていたのを悟った。
かっと顔が熱くなってきて思わず意味のない言葉を叫びたくなった。「ああああ」とゲームの主人公の名前を投げやりに決めた時みたく。でも花京院は入力しなかった。何しろ口の中は相変わらず痛かったから。
名前とは只のクラスメイトでしかなく、ろくに会話をした記憶もない。突出して目立つような女の子ではなかった。だからといって花京院が人の輪の中心にいるような女子とは仲良くしているのかと問われれば「それも違う」としか答えようがなかったが。
――ただ、本当にあまりにも吃驚してしまって、不慮の事故を笑い飛ばす余裕すらなかったんだ。 彼女が物音ひとつ立てられず、ぼくも話せなかったから仕方のないことなんだ。一晩寝て明日起きる頃には忘れてる。
自分を正当化するためにあれよあれよと脳内で理由が作られていく。
着替え途中を覗かれた事実は花京院だけでなく名前もまた恥としているだろうから、お互い何もなかったことにするのが理にかなっているはずだ。きっとそうだと。
一方でたった一瞬に見てしまった彼女の姿がどうにも脳裏に焼き付いてもいて、花京院は自分の下劣さに死にたくなった。考えないように、思い出さないようにすればするほど、記憶は繰り返し掘り返され鮮明に上書きされていく。
部活終わりだったせいか名前の肌にうっすら汗が滲んでいたこと。こちらを見据えたまま薄く開いた唇。ブラウスの間からは本来なら色気も感じないスポーツブラがのぞいていたし、腰に引っかかってよれていたスカートから生足がのびる様はかえっていやらしさなんて感じようのない雑な構図だった。
だのにどうしてこうも彼女の姿が繰り返し描写されるのか。
あの瞬間は「見てしまった」と罪悪感の方が勝っていたのに、帰路を行く現在は同級生に「女性を見てしまった」罪の意識と、あの状態の彼女をきれいだと思った自分の汚らわしさにひたすら頭を抱えたくて仕方がない。
忘れずにいるのは彼女に対して非道な行為だとも花京院は思いながら、悶々と考え続ける。そのうち堂々巡りになりはじめた責めの矛先が彼女へと向かい始めた。なんで彼女も自分の居るのを示してくれなかったんだ。いっそひどい言葉で罵ってさえくれればこちらの気も晴れたのに。
「花京院、くん!」
驚いた。彼女が息を切らして駆けてくる。何を言いに来たのだ。わざわざ犯人をとっ捕まえて吊るしあげにでもするのだろうか。
「びっくりしたー…」
追いついた彼女は余程大急ぎで着替えを終わらせて走ってきたと見える。
腰を折って両膝に手をつき、肩を大きく震わせて、自身より幾分か背丈の高い花京院を見た。
「ねえ見た?」
「見たって…」
「目合ったもんね」
「……ごめん。見た」
「問い詰めてるわけじゃないよ?」
前から花京院くんと話してみたいと思ってたんだ。彼女は言う。
「ただねえ、接点が全然なかったから話しかけようがなかったんだよね。共通の話題も分からないし、私話を振るのが上手くないから」
事故とはいえ覗いた男にわざわざ話しかけるなんて神経がおかしいんじゃあないか。花京院は思う。
「気にしてないよ。びっくりはしたけど減るもんでもないし」
怪訝そうにしていたのが悟られたか、彼女はさも簡単に笑い飛ばしてくれた。
そんなことはない。名前の方が減らなくてもここまで来るのに花京院の中の何かは確実に減った。
「このまま帰しちゃったらお互い気まずいかなって。もっと話す機会なくなるんじゃあないかって思ったんだ」
「そんなもんかな」
「そういうもんなの」
「変わった人だね」
「私は普通だよ。むしろ花京院くんの方が変わってると思う」
「きみは少し恥じらいってやつを持つべきだ。ぼくが言うのもなんだが」
「だけど私がいつまでも恥ずかしがってたら花京院くん、覗いちゃったこともっと『しまった』って思うでしょ」
花京院は黙った。
次点でやや名前の方が有利に転んでいる。
「ねえ。いつまでも気にしちゃうっていうなら、これでおあいこってことにしよう?」
ぱすん、と軽い音を立てて手のひらが花京院の頬を過ぎて行った。
そうまでしてまで自分に近付いて来るこの子が分からない。女子って生き物がそうなのか、はたまた名前だけが奇奇怪怪な行動に走るものなのか、人との関わりを避けてきた彼には理解できない。わからない。
「花京院くん驚いちゃったよね。ごめんね」
「なにいってるんだ、謝るのはぼくのほ……」
「うそ。か、花京院くん血がでてる」
たしかに口から血が少し流れ出ていた。粘膜に巣食っている炎症がいまのやわな平手打ちで切れたらしい。歯にでも当たったか、とにかく当たりどころが悪かった。手加減していた彼女に非はない。
もちろん名前は花京院の口内事情を知っているわけでもないので、予期せぬ出血にうろたえた。必要ないと断りを入れる花京院を振り切って、取り出したハンカチで彼の口元をおさえる。
「大丈夫? ああっ、もう! ごめんね、わたしこんな、」
ここまでくればこちらも彼女の好意を甘んじて受けるしかない。
自分より背の低い彼女がおさえやすいよう、腰をかがめる。
花京院は眉をひそめる。
屈んだせいで前のめりになり、落ちた視線が名前の首筋にしかやり場がなく。おまけに香水でも柔軟剤でもない彼女自身の香りが迫ってきて。
――なんだってこんなに自分は低俗で卑劣で不純でえげつない最低の男なんだ! そもそもぼくは……
知る限りの最大限の罵倒を脳内に連ね、せめてもの抵抗に花京院はきつく目をつむった。
「……こんなのは好きじゃあない」
「うん? ごめん、なんの話?」
微笑みながら悪意なく尋ねる彼女を前にして花京院は自分が情けなくてたまらなくって、新たに傷が出来るのもいとわず唇に歯をたてた。
きっと口内炎は悪化するだろう。
最低の始まり方だと思った。
リクエスト「承太郎か花京院でラッキースケベ」
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